091019 行動の指針は身の内にある
どう生きるのかは当人の自由であるから、それも天命といえないことはないがそれはともかく
事に当たってどう行動したらいいのかという時のよりどころのことである。
利害、損得、是非、善悪を一々自分で考えるというのは一番非効率的である。
しきたりとか、慣習というのはそれらの事を手っとり早くすますためにある。
馬鹿の考え休むに似たりというように多くの凡人にとっては、
ない智恵を絞るよりは先人の智恵を只で拝借したほうが増しだということである。
庵主などは自覚している凡人だから先人のパクリだけで生きているのである。創意はない。
庵主が書いていることはどこかで読んだことばかりだから(本を読むと馬鹿になるの証左)、
それを著作権だから俺の考えたことを勝手に使うなといわれると困っちゃうのである。
書くことは排泄行為でもあるから出さないと体に悪いし、健康のためにそれをやると
著作権と言われたのでは肩身が狭いのである。そんなものを読む人が悪いのだとしておこう。
何かをやる時には体の仕組みに、すなわち天の摂理に倣〈なら〉えということである。
癌細胞ができた時には同じ自分の命なのにぶった切ることがある。本体を生かすためである。
社会も亦同じだろう。人が生きる道は自分の体の中に示されているということである。
いいお酒とはその自分の体が厭わない呑み物だということである。命に順っているのである。
-----
順〈したが〉う、である。順〈かな〉って、と読めないこともないので、念のため。