2010-03-15 真実の光はお酒の中にある
本人達は「真実」とか「真相」を探っているのだろう。それを学問と称しているのだろう。
自分はそれを他の人に先んじて知ったと思いこんで悦にいっているのだろう。
本人は、である。
画家の個展を見てくる。
「絵が変わりましたね。以前と同じように見えるけど色遣いが闊達になった」といったら、
「そうですか。自分は前と変わっていないことをやっていると思っているのですが」という。
人は、いくつになっても自分は若いと思っているものである。変わっていないと思っている。
しかし、事実は確実に年をとっているのである。
外から見れば、かつては青年画家であったものが、今はおじさん、おばさん画家である。
科学もそれと同じで、中から見ていたのでは人間を理解できないのである。
科学的学問はそれなのである。科学をいくら積み重ねても人間は解らない。
共産主義者が掲げている「科学的」の限界がそれである。
学問はその科学に寄り掛かっているうちは学者の妄信でしかない。説得力がないのである。
歴史学者や経済学者が何の役に立っているか。新しい妄信を造りだしているだけである。
意外や意外、科学の神髄と人間学の極みはお酒の中にその考与〈ヒント〉があるのである。