2011-09-03 「聖城」とはやくざ起源の名前なのか
ヤクザの名前の最高峰〈あがり〉(出世の到達点)が聖城らしい。
宗教界の戸田聖城もその倣いなのかもしれない。いや、ヤクザがその名声を真似たものかも。
いずれにせよ、庵主とは別の世界〈はったり〉の人たちだということである。
二つの世界の違いは、離婚でよく使われる「性格の不一致」に倣えば「価値観の違い」である。
彼〈ひ〉は金の亡者、此〈し〉はそれに縁がない生き方である。
方向が真逆〈まぎゃく〉だから、避けるまでもなく接点がないのである。
右翼「一水会」が、彼〈ひ〉に接近しているらしいという噂である。
深見東洲(半田晴久)といえば、庵主にはカルトの教祖という知識しかないが、
一水会のメンバーにはそういう人が有り難く見えるらしいのである。
街宣右翼は、今では在日チョーセン人の小遣い稼ぎというのが定説になっているが、
本物右翼も最後は金に靡くのかと心配したくなるのである。生の右翼も齢をとるのだろう。
どんな思想〈いきかた〉もお金には敵わないものか。金でしか評価できないという一生は哀しい。
その点では、逆に、お金に媚を売らない生き方がうまいお酒を嗜〈たしな〉む生活である。
うまいお酒だから呑み過ぎる必要がない。うまいというのは十分な幸せだからである。
それを酔うために飲むと末路は悲惨らしい。分を弁〈わきま〉える生き方が嗜む生活である。
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本物右翼の喜びって何なのだろう。教えてもらうまでもないが、余計な心配をしてしまう。
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『いくら似ていても、中身が全く違うものであるということは世の中にはしばしばあること
なのだ。それを無理に同じくくりでまとめれば論理そのものに無理が生じる。』同上
お酒ではその中身が違うことでうまいとまずいが別れるのである。お酒がうまいのではない。
宇野正美先生風に言えば、「中身がわかればうまいお酒が見えてくる」のである。