2011-09-19 循環矛盾
殺戮の過去を大変後悔している。裁判で死刑にされてもかまわない。
私の魂はイエスのものだから。(山田寛『ポル・ポト「革命」史』)』拠所
協賛主義に、おっと共産主義に仕えたのは間違いだったというのである。
その同じ舌で、今は神に仕えているという。
要するに共産主義〈かみ〉を取り替えたというのである。
それじゃ、やっていることは前と同じじゃないかと庵主は思うのだが、
頼るものがないと生きていけない人にとっては縋るものは何でもいいものらしい。
今度の神は、正義を掲げてこれまでに異教徒を何人殺してきたのか、おっと粛清してきたのか。
カンボジアで、この人がやってきた粛清〈せいぎ〉の比ではないのである。
この人はより大きな粛清〈ひとごろし〉を目指しているのかもしれない。末恐ろしいのである。
世の中には人殺しを厭わない、否、それが好きでたまらない人がいるということである。
世の中にはお酒を厭わない、否、それが好きでたまらない人がいるということである。
庵主はゴルフをやらないので、それが好きな人の気持が分からない。
同様に、まずいお酒しか呑んだことがないに人は、うまいお酒の話は分からないことだろう。
想像すらできないのである。庵主が粛清を好む人の気持がよく分からないようにである。