2011-11-24 今月の立ち呑み、おっと立ち読み
庵主の場合は、本をじっくり読書しても頭の中に何も残らないから大して変わらないのである。
杉浦日向子〈すぎうら・ひなこ〉の「憩いの言葉」だったかを手に取る。
書名すら覚えられないのである。イースト・プレス刊。それが醗酵か、西か、も判らない。
「お酒が初めてうまいと思ったのは、自分で店を選び、身銭で、一人で、手酌で呑んだとき
である」と書いてあった。記憶力に自信がないからそんな感じで書いてあったと書くべきか。
「燗をつけて」が抜けているかもしれない。冷やで呑むお酒をうまいというわけがないから。
しかしそれは、お酒が一人で呑めるようになったときの「うまさ」である。
お酒の世界があることを知ったうまさなのである。本当のお酒のうまさはその上の境地にある。
そっちのお酒のうまさを知らずに46歳で逝ったか、杉浦日向子、である。
そういうのを称して、「まだ若いのに」と天を仰いで零〈こぼ〉すのである。
その死を悼む言葉ではなく、うまいお酒があるのに惜しかったねという憐れみである。
長生きすれば恥多し、という。でも、その分いっぱいお酒が呑めるという得もあるのである。
葬式がうれしいのは、亡くなった人がどんなに立派な人であろうとも、優れた人であろうとも、
自分の方がまだ生きているという圧倒的優越感に浸れるからである。しかもお酒が呑める。
故人を肴にみんなで呑む場のお酒のうまいこと。うまいお酒はみんなで呑むものなのである。
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「本を読書する」というのは、勿論「馬から落馬」であるが、ここではわざとそう書いている。