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2012-10-21 日曜日のくつろぎ篇 鈴木晄(后篇)

「本篇」という。短編映画に対して長編劇映画のことである。
本篇を撮っているということが映画屋さんの勲章〈ほこり〉である。エリートの証である。
予告篇や、短編の記録映画や教育映画をやっていると格下に見られるのである。
かつ、編を篇と書く。竹カンムリで書く。前篇はそのとおりだが、後篇は后篇と書く。

カメラをキャメラという。その世界にはまってしまうと、そういう言い方が当たり前になって
くるのである。お酒に馴染むと「本醸造」といってもそれが当たり前だと思ってしまうように。
カメラマンはスチール写真の、キャメラマンは映画の撮影師と言い分けているのかもしれない。
映画はキャメラマンが撮るのである。

そして、映画は編集技師がフィルムを編集するのである。映画は繋ぎ(編集)が仕上げである。
昭和41年の日活映画、江崎実生監督の「逢いたくて逢いたくて」で、唄う園まりの唇の動き
と音声がぴったり合っている小気味いい繋ぎを見ていて、以前に見た同じ監督の「夜霧よ今夜
も有難う」(昭和42年日活)で石原裕次郎が唄う場面の繋ぎを思い出したのである。

カット割りをしているのに、歌詞と裕次郎の唇の動きがぴったり合っているのである。
どうやって撮ったのだろうか。いや繋いでいるのだろうか。歌(音声)は継ぎ接ぎすると
音が飛んで不自然になってしまうから、音声に合わせてフィルムを繋いでいるはずである。
繋ぎの技の冴えはひょっとして同じ人かと思って調べたら鈴木晄〈あきら〉だったのである。

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カット割りというのは、唄っている裕次郎のロングショットが顔のクロースアップに変わる時
に、キャメラの撮影位置が変わっているというのに、すなわち連続して撮っていないのに、唇
の動きはちゃんと歌の流れにそってぴったり歌詞と合っているのである。二台のカメラで、
同時にロングショットとクロースアップを撮っているのか。このラストシーンである。

別々に取られた二つのフィルムを、歌詞に合わせて唇の動きがぴったり合うように繋いでいる
のか。それとも、歌に合わせてロングトショットで一回、そして同様にクロースアップでもう
一回別々に通しで撮影して繋いでいるのか。あるいは、カット割りを先に決めておき、それに
合わせて、きっちり必要な尺〈フィルム〉だけ撮っているものか。不思議でならないのである。

by munojiya | 2012-10-21 00:03 | 日曜日のくつろぎ篇 | Trackback | Comments(0)

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