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どこまで本当か

歴史というのは所詮その人の願望であり物語なのだと思う。
歴史に真実とか事実を求めるというとカッコイイがそれを実現することは難しい。
確認できないことが多過ぎて判断のしようがないからである。
結局は歴史観というその人のひとりよがりに帰するしかないようである。

昔からのしきたりだとか
それが習わしだといわれると
まるでそれが正しいことのように思ってしまうが
その習慣が始まったのはついちょっと前のことだったりする。

寺社仏閣があって
それがりっぱな建物だったりすると
古くからの歴史を誇る由緒あるものだと勘違いしてしまうが
大昔にそんな建物があったわけがない。

古いといってもせいぜい数百年前にはじまったものであることが多い。
千年もさかのぼれば
そんな建物などはなかったのである。
いまあるものはそのことを声高に叫ぶ人によって伝えられているのである。

逆にだまっていたら
実際にあったことでもそのうちになかったことになってしまう。
いまうまい日本酒が呑めるのもその存在を叫ぶ人がいたからなのである。
それを声高に喧伝する人がいたからこそ庵主はうまいお酒を呑むことができるのだ。

だれもそれを教えてくれなかったら
うまい日本酒は庵主の歴史の中には存在しなかったのである。
あのまずくはないが呑んでもちっともうまくない酒が
庵主にとっては日本酒だということになっていたことだろう。

一つのお酒を呑んで
庵主はうまいといい、
ある人はまずいということがある。
どちらが真実か。

一つの酒に二つの真実があるのだ。
一つのできごとなのに
いくつもの解釈ができるということが
そういうことはいくらでもあるということである。

庵主は百人の人がいれば百通りの歴史があると思っている。
一つのお酒に対しても、
うまいという評価とまずいという評価が出てくるのである。
数多くの評価が必要となる歴史が一つの真実に収斂するわけがない。

いまなお
邪馬台国がどこにあるのかはっきりしないということをみれば
歴史学などといっても学者が自分の願望を夢想しているだけだとわかるのである。
事実が一つならもうとっくのとうにかたがついているはずである。

一つのできごとが
立場が異なる二人にとっては反対の意味をもっていることも少なくない。
中国がいまでも反日を声高に叫ぶのは
日本にとっては終わった戦争が中国にとってはいまだ継続中だからである。

庵主が語る日本酒の物語も
昭和五十年以前のことは文献で読んだものの受け売りである。
実際に体験したものではない。
だから。戦前の日本酒はすべて純米酒だったと、うっかり書いてしまうことがある。

お酒を呑むようになってからの体験と照らし合わせて
庵主にとって都合のいいというか、納得のいく文献を
ひっぱり出してきて書き写しただけなのである。
それがどこまで本当であるかは上に述べた程度の信憑性しかないのである。
by munojiya | 2005-09-13 00:39 | Trackback | Comments(0)

うまいお酒があります その楽しみを語ります


by munojiya