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2015-07-24 なぜ人を殺しちゃいけないのか

子供にそう訊かれて答えられない大人がいるという。
たぶん、多くの大人が答に窮する筈である。
なぜなら、庵主がそうだからである。
しかし、世に賢明な人はいるのである。

庵主はそうでないことをちゃんと自覚しているから、賢明な人の言葉に従うのである。
そういうのを又聞きといって馬鹿にするが、しかし、聞いたことがないのよりはマシなのだ。
同じことを「耳学問」ともいう。一応、それでも向学心故に学問の領域には入るのである。
無学でないよりはマシだという事である。継承されるのである。

答えは簡単なのです。
「あなたは人を殺してもよいということは、あなた自身も今すぐにでも誰かに殺されてもよい
と宣言しているのですよ! それでもいいですね?」と答えるのが、国際的にはあたり前なの
だから。
』(典拠)。知識は又聞きで伝播するのである。

個人の知恵は有限である。自刎の経験できる範囲でしか働かない。
他人の経験を吸収することで、個人の知識を拡大させることができる。器が広がるのだ。
そのために本を読むとか映画を見るとか、音楽を聞くとかの文化的行為は有効なのである。
ただし、知識を吸収しても役に立つかどうかはまた別の話だということなのである。

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日本では「人の命を大切にする」教育を徹底させるなどと言った「ふにゃけた」意見が主流
ですが、どうして自分の命や尊厳を守るためには時として戦わねばならないという世界では
当たり前の事を教えないのでしょうか? これこそが盛んに探し求められている「グローバル
世界で通用する人材養成」となるのです。
』(典拠)。

「健康だったら命はいらない」というギャグがある。
「人の命を大切にする教育」というのもそれを聞いているような思いがするのである。
目的と手段が逆なのではないかというギャグを感じるからである。
人の命を大切にする教育では、人の命なんかちっとも大切に思っていないからである。

大切に思っているのは、自分の保身なのである。
それが透けて見えるから、その言葉に重みがないのである。
「健康だったら命はいらない」と、人を笑わせるために一生懸命汗をかきながらそれを言う
漫才師の気の入れようの方にずっと感動を覚えるのである。

感動のない言葉(人の心をうごかすことのない言葉)は教育ではない。
「人の命を大切にする教育」と言いたいならば、その表現は「自分の命を大切にする教育」と
言うべきだろう。人は自分の命の大切さ気付いていないのだ。うまいお酒が目の前にあっても
それに気付いていないように、である。恋は盲目というが、人も本来は盲目なのである。

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なぜ、朝鮮人が日本の社会にあってはならないかという答も簡単なのである。
誰もがうすうす感じていながら知らんふりしていることは、イジメぬくワルにはザイニチが
多く含まれていることであろう。彼らは衆を頼んで学校や教育委員会などを恫喝する。だから
何も言えなくなっている。

「なんとか市民団体」で、政治的活動を行っているものは、ほとんどがザイニチ組織である。
権利を言い募り、悪を暴くことは弱者への差別だと言い張るのは、日本人のマインドではない。

典拠)。それは、日本人と朝鮮人は水と油で、両者の価値観が根本的に異なるために、
朝鮮人の価値観は日本社会に置いては有害以外の何者でもないからなのである。

庵主は、日本人の名前は山葵色(緑)で、チョウセン人の名前は唐辛子色(朱色)で、
シナ人の名前は黄砂色(黄土色)で書き分けることを三者の色分け案にしている。
電気配線図のコードの色分けのように三者の違いを明確にするばあいには、である。
日本人は山葵色である。

山葵は水の綺麗なところでないと育たないという。
そこに一滴でも油が流れ込むと山葵がだめになる。
それと同じで、日本文化に朝鮮文化が一滴でも流れ込むと日本社会全体が駄目になるという事
である。みかん箱に腐ったみかんが1個混じるとその周囲から駄目になっていくようなものだ。

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「なぜ、人を殺してはいけないのですか」。
銃を持ってきて、そう訊いた人を撃ち殺す。
「これが答です。いけないことはありません。ただ長生きができなるだけですから」。
浪花節ではそれを「♪ 馬鹿は死ななきゃ治らない~」と教えているのである。

by munojiya | 2015-07-24 00:04 | 酒の肴 | Trackback | Comments(0)

うまいお酒があります その楽しみを語ります


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