2016-01-19 フランスの野々村綾乃
甲子園九条、おっと球場には、君が代を座ったままで聴いている馬鹿はいないだろうが。
よくスポーツの興行の時に、チョウセン人歌手が駆り出されて「君が代」を唄う事があるが、
その時の「君が代」は歌にもなっていない悲惨なものが多い。恋歌なのに恋がないのである。
唄っている人が「君が余」だからだろう。聴いていて可哀相になるのである。
その精神性の低さに驚かされるからである。
その下手クソな、というより心に響いて来ない歌を見て、内心でヒソカに思うのである。
口に出しては言わない。「ああ、日本人に生まれてきてよかった」と。
うまいお酒を口にした人も一様に思うのである。
「ああ、日本人に生まれてきてよかった」と。
それは口に出して言うのである。時には涙して言う人もある。
その気持は、庵主にはよくわかるのである。
これはフランス人の野々村綾乃なのだろう。しかし、その歌詞の精神性の低さに驚かされるのである。
あんな詞〈ことば〉を口にしてよく恥ずかしくないものだと感心するのである。
血なまぐさいのである。「フランス革命」とは、あれは「虐殺」の美称なのでご用心。
そして思うのである。「ああ、日本人に生まれてきてよかった」と。
-----
判るか判らないかは別として、日本の「すごい」の一つがこれだという。
人は、磨けばここまで光るのである。しかも地味に美しいのがいいのだ。
それが派手になったらアウトである。派手になる一歩手前が美しいのである。
惜しむらくは、音声がいま一つよくないという事である。映像は音が支えているのである。
『一曲目は、出だしの所だけしか聞き取れないし、どんな内容を謳っているのかすら
解らない…… 。
あぁ~! 合唱を聞くのは苦手だ~。 歌詞を知っている曲は聴けますけど』(同前米)。
歌詞が聞き取れないとつまらないと思う庵主もそれに近いのである。歌詞だけが歌ではないが。