2016-03-16 目にしているのは二流
(複製品)を 作って、本物の仏像に代えてそれを置くというアイデアがあるらしい。
3プリで複製した仏像は本物に比べてまったく遜色がないという。
木造なら木目までそっくり複製できるというのである。その模造品を一度見てみたいものだ。
で、本尊は盗まれない所に安置というか秘匿しておくというわけである。
よって、拝観者が手を合わせる目の前の仏像は贋物で、その信心の振る舞いの不信心が揶揄
されるという構図が出来上がるのである。
そういう事は容認できるかという話である。
本物のうまいお酒は呑むとなくなってしまうから勿体ないので、その複製を造ってその贋酒
を有り難く呑むという構図である。有り難いとおもいますか、ということである。
仏像を盗む人がいるということである。チョウセン人の仕業だろう。←根拠はないが、多分。
そういう人に仏罰が当たらないのだから、仏教なんていい加減な物なのである。
すなわち、贋仏像を本堂に晒すということは、仏教がなんの御利益もないことを証明すること
になるからヤバイというべきだろう。
仏像は仏の心なのだという。が、その心を彫った人の方がもっと凄いわけだから、信者がいま
目にしている仏像は実は本物であっても二流なのである。庶民の酒が普通酒なのもそれである。
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欄外にはみ出してしまったが、一流はその裏側にあるということである。
そして、二流でも十分実用的だということである。この「二流」は「りっぱ」と読む。
難山を登山家が登攀する姿を撮影した映画がある。その登攀家は素晴らしいが、その様子を
取っているカメラマンの方が荷物が一つも二つも多いだけ、さらに上だという事なのである。
その映像に写っている登攀家を上回る登攀技量を持っているカメラマンがそれを撮っているの
だから、そこに写っている姿は実は二流なのである。それでも十分感動するのである。
五輪の金メダルの体操選手の技も素晴らしいが、シルク・ドゥ・ソレイユというサーカスに
行くとその技でさらに客を楽しませる人達がいるのである。五輪で見るのは二流なのである。