2017-04-11 美しいシコに座布団が舞う
この見出しはよくないのである。
「美しいシコ」なので座布団が舞ったと読めるからである。
言いたかったことは、「美しいシコ」と「座布団が舞う」光景のことである。
相撲における、静と動の美しさの対比である。

シコを奇麗に踏める力士が対戦するとこんなに美しい土俵になるという。
宇良と阿炎である。
庵主は甘口のお酒を旨いというが、お酒は辛口に限るという人もいるように、
シコも美しいものがいいという人と、シコは実利でなければならないという人がいるようだ。

そんなもの、お酒も、シコも、どっちだっていいのである。
美しければそれでよし、というのが日本人の感覚なのではないか。
一つ主義主張に拘泥する姿は美しくないのである。見苦しい。いや、暑苦しいと言っておこう。
庵主も、お酒は甘口が本来だとはいうが、それでも、超辛口のお酒とやらも口にするのである。

そして、超辛口なるものはやっぱりうまくないと思って安心するのである。庵主が正しいのだと。
自分の意に沿わないシコの踏み方であっても、それがいいという人がいるということである。
座布団は、褒める時にも使われるが、貶すときにも使われるのである。重宝なのである。
上手な洒落には座布団が出る。期待外れには座布団が飛ぶのである。それを舞うというのである

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高見盛ののし袋の受け取り方が綺麗[1:54]』(典拠米。次も同じ)。
なるほど、そういうところを見るのか。で、「のし袋」は「熨斗袋」と書きたい処である。
逆に『日馬富士が土俵割った後呼び出しを突き飛ばしてるとこイヤだなあ[2:43]』。
暗にモンゴル人の稚性を貶しているのである。悪役を買ってくれることに感謝しつつ、である。

外国人が悪役を買ってくれることで、日本人はいつも善人でいられるのである。
近くにチョウセン人がいることで、助けられている日本人は少なくない筈である。
ソレよりはマシだということで、生きていくことになんとか耐えられるからである。
自分が最低だと思った分には、生きていく希望がなくなってしまうというものである。

宇良の相撲にはこういう見方もある。宇良の相撲は美しくないというのである。
美しくないというよりは、日本人の美意識からずれていると言った方がいいのだろう。
日本人が求める相撲とはちょっと違うぞ、否、それは相撲じゃないよという主張である。
アル添酒はお酒じゃないという主張に似ている。見た目は同じように見えるのに、である。

日本人は、ご飯の時の米の違いや、お酒の銘柄には頓着しないのに、相撲には細かいのである。
その相撲の歴史は、日本人が笑う南鮮の嘘歴史に匹敵するファンタジーなのだという。
今の日本人が信じている「国技」なんて言葉はつい最近使われるようになったものなのである。
南鮮に対しては、それと同じ言葉が別の意味で使われることはご存じのとおりなのである。

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by munojiya | 2017-04-11 00:04 | 世話物 | Trackback | Comments(0)
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