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2017-07-12 話変わるけど「正田美智子」は何人いるのか

これらの写真を見ていて、ふと、思ったのは、「正田美智子」とされる人は何人いるのか、
ということである。一連の「正田美智子」が、庵主の目には同じ人には見えないからである。
「正田美智子」というのは、個人の固有名詞ではなく、複数人による一つの演技体なのかもしれ
ないと思えてくるのである。 

庵主は観相能力がないので、きっと的外れな憶測にすぎないのだろうが、ある時はファッション
モデルのような中身を感じさせない雰囲気なのに、ある時は慈母のごとき振る舞いを見せるのだ。
一人の人間のキャラクターとしては分離しすぎているのではないかという疑念が湧いてくる。
ついに明晰なこの人も、その違和感を語るほどに複数説は説得力を持ちつつあるのである。

冒頭でリンクしたサイトはオカルトサイトとも言われているだけあって、庵主の観相能力では
おぼつかない写真の観方をする能力のある人達が集まっているのである。
この写真を見て、『ミテコさん右側の扉、上部御簾、その一番左端にははっきりお口パックリ
開けた夜叉の顔が私には見えてしまって。』(同米)という感性は庵主にさっぱりないのである。

また、そういう写真をよく探し出すものである。写真を観る能力より、そういう写真を見つけて
くる能力には感心してしまうのである。オカルト写真専門のショップがあるのかもしれない。
こういう写真を見てその人柄の内面を窺うことができるというのである。
庵主も、お酒の瓶が写っている写真でそのお酒のおおよそが見当つくから不思議はないのか。

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今ここでその写真を示すことができないのは、庵主にはそういう写真を見つけてくる能力がない
からなのだが、庵主はそれぞれ別の2枚の写真を見たことがある。
その写真が載っていた雑誌の名前もおぼえていないのが残念である。
よもや、今になってその写真が必要になるとは、そのときは思わなかったからである。

しかし、その2枚の写真は実在する写真なので、昔は、もう二度と見ることができないだろうと
思っていた当時のテレビドラマが、ネットの出現で今再びそれを見ることが可能になったように
そういう写真も、ネットで整備されて容易に見つけることができるようになる時代がくるかも
しれないが、いまは、生憎その写真を見つけることができないのである。

一枚は、上田吉二郎〈うえだ・きちじろう〉の写真である。自宅の庭先で撮ったものだろうか。
その人柄の良さが伝わってくるいい顔をした写真である。表情に嫌味がない清々しい顔である。
酸いも甘いもかみしめて生きてきた顔である。そして、それまで生きてきた人生に一点の曇りも
ないといったような表情で写っている。

もう一枚は吉田義夫の写真である。自室の居間で撮ったものか、レンズに向かって微笑んでいる
顔は好好爺といった表情で、そこに一点の曇りもない気持ちのいい表情をしているのである。
写真で見るその二人は、庵主の目にはまったくの善人にしか見えなかったのである。
二人は俳優で、その役柄は多くは悪役だった人である。外面如菩薩内面如夜叉なのかは判らない。

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上田吉二郎は、こんな顔の人である。
庵主が見た写真というのは、そこの一番上の右側にある写真の時に撮った別の一枚だったのでは
ないかと思われる。これはカメラ目線だが、庵主が見た写真は目線をレンズから外している写真で、
やや天を仰ぐような角度で撮られていた。と思うがやっばこれだったのかも。記憶が曖昧。

吉田義夫はこういう顔の人である。
というより、庵主が見た写真はこれだったのかもしれない。
この顔が、貴兄には悪人に見えるだろうか。庵主にはそうは見えないのである。
ただ、庵主の記憶の中では、見た写真は確かカメラ目線だったから、この別写真かもしれない。

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「正田美智子複数説」が説得力を持つようになったキッカケは、愛子内親王の替え玉がだれの
目にも別人と判るそれだったからである。
皇室もまた、影武者を使っているということが世に知られる事となったのである。
影武者が今でもいるという事が認識されるキッカケは金聖恩である。

その数、十数人ともいわれている。明らかに耳の形が違うデブが金正恩を名乗っているのである。
先に金聖恩と書いたが、金正恩の事である。
金聖恩は、その肉体も複数あるが、その名前も同じョうに、いくつもあるのではないのか。
金聖恩が本名だという庵主の説は、「聖」の字がチョウセン人が好む漢字だからである。

その家族が、今は創価学会を脱会したという二代目会長戸田聖城も、その類推からチョウセン人
だったのではないかというのは、庵主のこじつけである。
宇野正美説によると、「金正日」は本当は「金征日」なのだという。
日本を征服するぞという名前なのだという。

「征露丸」が今は「正露丸」と書いて本来の名前を隠しているのと同じだという説である。
宇野先生の言うことだから、駄洒落なのだろうが、庵主の「金聖恩」も実は、それに倣った
駄洒落なので信用無用である。しかし、「正田美智子複数説」はまず間違いないようである。
お酒は呑み比べないと違いが判らないのと同様に人も見比べると違いが見えてくるのである。

by munojiya | 2017-07-12 00:04 | 酒の肴 | Trackback | Comments(0)

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