士農工商
いまはないことになっているが、その考え方は日本人の心にはしみこんでいる。
お酒の呑み方もまた士農工商なのである。
アルコールが切れると飲みたくなるという依存症の人はその埒外だということも。
酒を呑むといっても酒を口にすることは実は形式的な飲酒であって、
人それぞれ呑んでいる実質は異なっているということである。
庵主が酒が呑めないといっているのは形式的飲酒にはなじめないということである。
では庵主はお酒を口にして何を呑んでいるのか。
お酒に込められた造り手の気合と技の巧みを味わっているのである。
だから工場で作られた工業製品みたいな清酒は呑む必要がないということである。
そういう呑み方はお酒に芸術性を求めてやまない志が高い呑み方なので「志」である。
お酒を呑むといっても女子(おなご)と戯れるときに呑む酒は「娼」の酒といったらいいか。
接待する時に呑む酒も見た目は酒を呑んでいるようだが実態は功利目的だから「功」。
石原裕次郎は歌のレコーディングのときにビールを飲んで気分を開放していたという。
すなわち自分の能力を引き出すための酒だから「能」と呼ぼう。
よって、志能功娼は酒の呑み方の序列なのである。