うまい酒しか呑めない体質
コップ一杯のビールが飲みきれません。最初の一口、そしてコップに半分ぐらいまではうまいのです。でもそれ以上はいりません。必要以上に飲むと、さっきのうまさが感じられなくなるどころか、ビールにまずさを感じてしまうのです。せっかくうまいと思って飲んだビールなのに、飲み過ぎてそれをわざわざまずくすることはありません。だから、残すのはもったいなと思ってはいてもビールを飲んでまずいと感じるようになったらためらわず飲み残してしまいます。
一番困るのが生ビールを飲むときです。
庵主は選択肢がある時は、まず生ビールしか飲みません。この場合の生というのは正しくは生樽ビールのことです。20リットルぐらいはいるアルミ製の樽にはいったビールのことです。生がなければ瓶ビールにします。最悪は缶ビールです。普段は好んで缶ビールを飲むことはありませんが、しかたなしに飲む場合は缶ビールでも拒むことはありません。
生ビールが困るというのは、普通はジョッキで出てくるからです。多過ぎるのです。庵主はコップ一杯で十分なのですが、コップでくださいとはなんとなくいいにくい雰囲気があります。東京の暮らしが長いものだから、つい見栄をはってしまい、押し売りといっていい生ビールの売り方に、すなわち必要以上の量を売りつけるという商売に注文をつけることができないのです。
けっきょく半分以上残してしまうから、ほんとうにもったいなといつも思っています。
だから、ビールは「ポパイ」とか「蔵くら」のようなビールの専門店でしか飲みません。あるいは「与太呂」のように、飲みたい量だけ生ビールを出してくれるお店で飲んでいます。
お酒なら、一番小さい日本酒グラスに半分ぐらいしか呑みません。柳宗理がデザインしたという日本酒用のグラスです。銀座の福光屋のアンテナショップなどで200~300円で売っている安いグラスです。
日本酒グラスには大・中・小と大きさの違うものがあります。その一番小さいグラスを使っています。大グラスは180cc、中グラスは120cc、小グラスは60ccと聞いていたので、いま使っている小グラスはてっきり容量が60ccだとばかり思っていたのですが、実は50ccだったことを知って、なるほどもらったお酒がいくら呑んでも減らないわけだと納得した次第です。
小グラスに3分の1ぐらいしかお酒を呑みません。それだけの量でも香りから、味から、のどごしの感触から、呑んだあとの満足感まで一通り楽しめるからです。
少量でも十分に満喫できるようなしっかりしたお酒しか呑んでいないということです。
一回に20ccぐらい呑んでいるのかと思っていたのですが、それが50ccグラスだったのでさらに少ない量でお酒を味わっていたことになります。
もっともそれだけでおさまるわけはなく、つぎに別のお酒をまた同じぐらい、それでも物足りないときはさらに三つ目のお酒を同量味わいますから、庵主の酒量は締めて5勺といったところです。
その日本酒グラスのことをプレゼントグラスとでもいっておきましょうか、小グラスよりさらに一回り小さい50ccのグラスは試飲会の会場で「使ったあとはどうぞお持ち帰りください」ということでもらったものでした。
通常の60ccのグラスでもたいして値段は変わらないでしようか、せっかくくれるのなら60ccのグラスにしてほしかったと庵主は思います。
60ccのグラスなら、3杯呑んだらちょうど1合ということで、なんとなくきちっとおさまる気がするからです。
もっともプレゼントグラスは、試飲会場内でお酒を飲み過ぎることのないようにと親切心からわざと一回り小さく作ったものかもしれません。
長い前置きでしたが、庵主はお酒の量が呑めないので、最初からうまい酒を選んで飲むことになります。あとからうまい酒が出てきても、もう入らないからです。
したがって量を重ねることで楽しめる酔いというのは庵主にはわかりません。そこまで呑めないのですから。
「水芭蕉」の蔵に行って、鑑評会用の斗瓶取り大吟醸を試飲してきました。
呑めます。こういうお酒なら庵主でも呑めます。呑んでいて、あんまりうまいので嬉しくなってきます。その時ばかりは花粉症が吹っ飛んでいました。それまでは鼻がつまって匂いがわからないな状態だったというのに、ちゃんと鼻が通ってお酒の香りがわかるではありませんか。人間、好きなことをやっていると病を忘れてしまいます。
その夜は蔵元で買ってきた「水芭蕉」を呑みながら食事をしました。
大吟醸でも、ビンテージの本醸造でもうまいこと。
その席で「壱乃越州」の差し入れがあったのですが、これは明らかにそのとき呑んでいた「水芭蕉」とは次元の違うお酒でした。発想が違うお酒といったほうがいいかもしれません。志が違う酒とまではいいませんが、そこにいただれもが一口飲んでそれ以上には呑もうとしなかったのです。
庵主に関しては、はっきりいって、「壱乃越州」は呑めませんでした。
「壱乃越州」は「久保田」を造っている朝日酒造のお酒です。本醸造です。「越州」は純米吟醸の「悟乃越州」とか純米大吟醸の「禄乃越州」まであるシリーズですから、上のクラスのお酒はうまいのかもしれませんが、「壱乃越州」はぜんぜん生気が感じられない本醸造でした。
生気が感じられないお酒は呑んでいてもおいしくないということは日本酒庵「むの字屋」でおりにふれて書いていることです。
「水芭蕉」を醸している永井酒造はまた「力鶴」の酒銘でワンカップ酒を造っていました。冗談のつもりで買ってきて呑んでみましたが、冗談以前の酒でした。
もろに醸造アルコールの味です。焼酎として売った方が正しいのではないかと思える凄い酒でした。
こういう酒を造っているようじゃねえ、と隣のF氏に同意を求めたら、「いや、そういう酒を好む人がいるのだからでそれはそれでいいでしょう」と冷静な答が返ってきました。
たしかに、そのとおりです。人もいろいろ、酒の好みもいろいろですから。
でも、そういう酒が出てきたら、庵主には呑めません。というより体が受け付けません。
贅沢をいっているのではなくて、うまい酒しか呑めない体質なのです。
もう一つでもを重ねます。庵主は、じつはそういうお酒も怖いもの見たさで呑んでみたくなるのです。下手物も大好きなのです。好奇心です。
もっともそういう酒をもらっても、一口飲んであとはお風呂にいれてしまいますが。