天寿を全(まっと)うするということ
健康なうちにぽっくり死ねればいいのだが、そうならば本人も気が楽なのであるが、
それができなかったときの終末をどう処理するかということである。
庵主は、寝たきり3か月、惚け1か月でいいのではないかと思っている。
寝たきりになって3か月に至ってもふたたび立ち上がれる見込みが薄くなったら、
そして、惚けて1か月間ほとんど正気の時間がなくなったら、
もう死なせてもらってもいいと思っているのである。
気が小さいので、それ以上介護という美名の晒者になりたくないという思いである。
惚けてしまえば、本人には生きているという実感がないだろうからどうでもいいが、
寝たきりの場合は正気明瞭でいる場合がすくなくないからこれは大変だ。
そのときには寝たきりの本人が決断するしかないからである。
普段は惰性で生きているので、決断を迫られることは苦痛意外のなにものでもない。
人間は体力的に自力で歩けなくなったらおしまいである、一人で生きていけないから。
天寿とは、その人が歩けなくなるまでのことなのではないかと、ふと思ったのである。
加えて、庵主の場合で言うと、お酒を呑んでもおもしろいと思わなくなったときが
好奇心の終焉だから精神的にはすでに死んでいると見做してもいいのではないかと思う。