庵主の立ち位置
手を合わせると、右の掌〈てのひら〉の皺〈しわ〉と左の掌の皺を合わせるからシアワセ(幸せ)。
漫才師は同じことをこういう。
右手の指の節と左手の節を合わせるのだから、それってフシアワセじゃないのか。
物事を前向きに見ることができる人は健全なのである。
庵主は、その不幸せの方に、すなわち建前の嘘に目が向いてしまうから浮かばれないのである。
お酒が出てきたら、その気持ちを酌んで素直にうまいといって呑めばいいのである。
しかし、口に合わないお酒だったら、ついはっきりまずいと口に出してしまうのである。
まずいものはまずいからである。
もっとすごいお酒は、まずくはないが、うまくもないというものである。メリハリがない味である。
呑んでいて虚しくなるお酒である。それはまるで死後の世界の無調子みたいなのである。
うまいお酒とそうでない酒の違いが気になるではないか。
その違いはどこにあるのか。その違いを探ることがおもしろいということである。
違いが見えるようになることを判るという。判ることは楽しいのである。それは快感なのである。
しかもお酒は官能的な楽しさなのである。うまいお酒は身も心もとろとろにしてくれる。
ほとんど淫蕩的なところに庵主は立っているのである。いうならば四流(嗜流)なのである。