カテゴリ:詞藻篇( 21 )
2018-10-14 帰化人
邱永漢氏が、日本人だとは思わなかった。てっきり居候台湾人だと思っていたのである。
サッカーのラモス瑠偉氏も日本に帰化している筈である。サッカー選手に祖国愛はないのか。
クロード・ チアリ氏もそうじゃなかったか。余程地元にいられない事情でもあったものか。
しかし、祖国があるのに、わざわざ日本に帰化するというのは、一体何を考えているのか。

庵主が邪推するに、たぶん、その目的は、草〈くさ〉なのではないのか。
草というのは、長年敵国に住み着いて、恰もその国の人のように装って信頼を受けながらも、
実は、諜報活動をしているスパイのことである。古歩道ベンジャミンさんなんかいかにも。
シベリア抑留から帰ってきた日本兵は、終生公安の監視対象だったという話を聞いた事がある。

同じ日本人でも、一度かぶれた人に対してはそうなのである。
まして、一度祖国を裏切った人をどこまで信用するかは、判断の別れるところだろう。
政治目的でわざと帰化した白眞勲議氏なんか、「韓国のために働く」と公言しているのだ。
そういう国会議員が少なくないというが、その報道を聞くことはない。俺は聞いていない

いま、日本酒と自称するお酒の大国は、大量に醸造アルコールが混ぜられている。
きき酒師の試験では、それを「増量のため」と書いたら×になる。
一応、酒質をよくするたろという名分はあるのである。
その醸造アルコールの殆どが輸入品である。帰化したアルコールでお酒は造られているのだ。

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素朴な疑問である。
密入国者でも簡単に日本人に帰化できるとは驚きしかありません、腹立たしい限りです、
日本人の皆さん何とかしましょう。
』(典拠米)。
たしかに驚くしかない。

なんで、ドナルド・キーン氏が日本人なのか。どう考えても手の込んだ草としか思えないが。
孫正義氏は自称密入国者の子供だとか言っている程である。キャロライン強制送還なのに。
しかも孫氏の日本人嫌いは病的なほどなのである。その白犬のCMの悪意はよく知られている。
ひょっとして、裏〈GHQ〉で「反日“日本人”」を増やす政策が進行しているのではないか。

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by munojiya | 2015-10-14 00:03 | 詞藻篇 | Trackback | Comments(0)
2014-11-25 「あてくし」は女か、男か
英語には、一人称は「I」しかないという。
「私」も、「俺」も、「小生」も、「わらわ」も、みんな「I」らしい。
それを聞いて庵主は、英語には「自己愛」しかないのかと感心するのである。
〈へりくだ〉ることを知らないのである、英語は。譲と負けになる言語のようである。

譲ることを知らない人達だと思えばいいのか。
日本語で「アイ」といったら、「穢」である。
それは汚らわしいものなのである。個性を主張することを煩いと思うのである。
みっともないと言い換えた方がいいのか。

「I」には性別がない。すなわち、個性がない言語だということである。
日本語の一人称は性別がある。個性を大切にしているのである。
「私」は両性だが、庵主はそれを女っぽいと感じて使うのが躊躇われるのである。使うけれど。
「僕」は本来は男用だが、今時は若い女の子がそれを使っているという。もなみちゃんもそれ。

で、「あてくし」は女か、男か、ということである。
庵主は、このサイトは男が書いていると思っていたのだが、筆者はひょっとして女なのかも。
それを見たら、林華泰のお茶が飲みたくなってくるのである。D750にも感心するのである。
庵主もお酒が呑みたくなるようなものを書きたいが、どうにもカメラ運が悪いもので。

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庵主が、ブログで写真を使わないのは、写真を多用するとサイトが重くなるからである。
庵主のパソコンで重いサイトをダウンロードするとサクサクさ動かなくなるのである。
回線が遅いからか、パソコンの機能が古いからか、サイトのアルゴリズムが悪いからかは不明。
とくにコイツである。無駄に写真が多いものだから、イライラさせられる。

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by munojiya | 2014-11-25 00:03 | 詞藻篇 | Trackback | Comments(0)
2014-07-12 ああ、著作権
昔、童謡の「七つの子」の歌詞を、ドリフターズが「烏なぜ泣くの 烏の勝手でしょう」と
変えて唄ったのが著作権侵害だといって訴えられたことがある。
「七つの子」の著作権者は、原作の管理がしっかりしていたのだろう。
相手がテレビ局なのでお金になると弁護士が踏んだのだろう。←ここは庵主の邪推である。

しかし、個人が替え歌を著作権侵害で訴えられても困るのである。
そもそも原作がどうなっているのか判らないのに、それを改変されたと言われても難癖としか
言いようがないからである。最大限その言い分を認めても、権利の濫用だろう。
例えば、北原白秋作詞、中山晋平作曲の「雨ふり」である。

曲名からして判らないのである。「雨ふり」なのか「あめふり」なのか。
ネットでみると歌詞も二通りある。どっちが正しいのかこれまた判らないのである。
多分「おむかえ」が正しいと思われるのだが。
「おむかい」説の、そして。「おむかえ」説の、そして

著作者が蔑ろにしている歌を生き返らせたことに対してご褒美を払ってほしいほどである。
登録商標には必ず(C)マークを付けるように、著作権を主張するなら著作権者の連絡先を
必ず書いておくことである。権利を主張するなら、それなりの義務を果たせというのである。
うまいお酒を造れと要求する権利を主張するために、庵主は呑み続けるという義務を果たす。
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by munojiya | 2014-07-12 00:04 | 詞藻篇 | Trackback | Comments(0)
2014-05-17 思わず目頭が熱くなる文章
「差別のない朝鮮、私はこのように生活しています」と題する「夫に従って帰国した一日本
人妻の手記」は、「私は朝鮮にきて清津でも、ここ民主首都平壌でも隣近所の奥さんや、職場
の人から「日本の人ですか、それは大変でしたね、本当に苦労なさいました」と慰められる
たびに、思わず目頭が熱くなるのでした」。

病院でも「東ドイツやソビエトの先進医学が普及していて食事のカロリーから量の加減など、
その時の病状に応じてでるのはいうまでもなく〔中略〕重ねて徹底した無償医療の完全さを
感心したのでした。/したがつて私は何の心配もなく、朗らかに明るく仂きに出られることの
幸せをつくづく有難いと思つております。

差別のない朝鮮、私はこのように生活しています」と綴られ、最後は「日朝婦人の一層の友好
発展万才」と結ばれている。「思わず目頭が熱くなる」文章ではないか。
』(典拠樋泉ブログ)。
北朝鮮は、当時は“差別のない”すばらしい国だったようなのである。
北は泣かせて、南は笑わせてくれる半島なのである、朝鮮半島は。

日韓の論客の結論が一致しているという。福沢諭吉先生「朝鮮とは縁を切れ」。『著者は日本
には韓国に対し、一定以上の距離を置いて外交を行うことを勧めている。
』(典拠米欄)と。
韓国人にとっては、日本は美酒なのだという。『韓国が反日の美酒に酔うのは間違いだと言い
切っています。愛国者による勇気ある告発でありましょう。
』(同)。酒は毒だというのに。
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by munojiya | 2014-05-17 00:03 | 詞藻篇 | Trackback | Comments(0)
2014-02-24 詞藻篇 詩=死
詩とは何か。「詩」は「死」に通じると庵主は感じているのである。
いい競争をしタイ
僕の生きた時代にすぐれた文章を残す
イイ競争が起きると残るんだよね

日本でも優れた文人がいた時代
今でも読まれる作家は同時代を生きる
競い合いから優れた作家が生まれた
』(典拠)。
すぐれた文章を残す』ことが、すなわち詩を書くということなのではないか。

それは、後生に残す言葉をいうのではないのかという思いに至ったのである。
自分が死ぬ事を前提にして書かれた言葉である。
そういうのを詩文というのではないか。
一方、散文とは、自分が生きていることを確認するために書くものである。

小説などは自己顕示欲のために書くのである。
「虎〈ひと〉は死して皮〈し〉を残す」のである。
お酒は、あとに何も残らない。未練のない生き方である。
ただ、お酒を呑むと自分の器〈スケール〉が見えてくるのである。いいお酒の場合は、である。

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庵主の文体〈スタイル〉は、四行切りであるが、引用した人の文体は三行切りなのである。
いうならば、庵主は四拍子の音楽で、その人は三拍子の音楽だというわけである。
その文体の雰囲気を引用する時は、上のように前後になくてもいい1行を加える事になる。
そのエッセンスを引用するときは部分を借りてくるから書くまでもない1行を。

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by munojiya | 2014-02-24 00:04 | 詞藻篇 | Trackback | Comments(0)
2014-02-14 これは詩か
庵主は、お酒を呑んでも、それが純米酒なのか、アル添酒なのか判らないのである。
故に、呑む前にラベルの表示をそっと見ておいて、能書はそれから始めるのである。
それを見ないで判断すると、純米酒をアル添酒だと思ったり、アル添酒がよくできた純米酒に
感じたりするのである。純米でもアル添でもそのお酒のうまいまずいは判るから問題ないが。

しかし、詩の場合はそれが判別できないと、大いに問題になるのである。
例えば、これは詩なのか、否か。
中に三行の破調を挟んでの四行で四連のスタイルは庵主のスタイルと同じだが、
庵主のスタイルは詩とは呼ばないのである。ただの、そういうスタイルにすぎない。

まいにち
満員電車に乗って
人を人とも
思わなくなった
』と、横書きにすると、詩の風情はすっかりなくなってしまう。

それを、ちゃんと縦書きで紹介した人はよく分かっているのである。
嘘は横書きでつけ、真実は縦書きで書けと。
しかし、その中身が詩かどうかは別の問題である。詩でなければプロパガンダである。
標題を「朝日戦争がはじまる」と、庵主の目には見えたから、自分の目を信じていいものか。

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「朝日新聞」といえば、古来、戦争を煽って儲けて来た新聞社なので、
その「朝日」を暗示している標題こそが核心だとするならば、
標題が、舌を出しているということになるからである。
でも、今、日本は、中韓とまさに戦争をやっている所だから、それはやっぱりプロパガンダか。

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by munojiya | 2014-02-14 00:03 | 詞藻篇 | Trackback | Comments(0)
2014-01-31 詞藻篇 学者の質がここまで劣化しているとは
いつもながら、最初に言っておくが、庵主は詩が分からない。理解できないのである。
いや、理解する以前に、どれが詩なのかが判らないのである。
純米酒も、アル添酒も、普通酒も、経済酒と称する紙パック入りの酒も、見た目はみんな同じ
ようなものなので、区別がつかない心境に似ているのである。

それらの酒を並べられたら、どれが本物のお酒なのか、大方の人はたぶん判らない事だろう。
庵主が、詩みたいな文篇を並べられた時の戸惑いがそれなのである。区別できないのである。
藤原定家(ふじわらのさだいえ)が[第一首に]選んだ御製が、「秋の田のかりほの
庵(いお)の苫(とま)をあらみ、わが衣手(ころもで)は露(つゆ)に濡れつつ」です。

この歌の通解を読むと、多くの本が「秋の田んぼの脇にある仮小屋の屋根を葺いた苫の目が
粗いので、私の衣の袖は露に濡れてしまったよ」と書いています。
』(典拠)。
それは違うだろう(欄外)。庵主でもその通解を書いた人はアホだということは分かるのだ。
そういう本に限って、ナントカ大学の先生が監修したと大きく書いてあるというのである。

勿論、その本を書いたのは何でも書ける器用なライターである。
大学の先生は謝礼を貰って名前を貸しただけである。そして恥をかいただけである。
特攻隊員は強制されていやいや殺されたのだと通解する人がいる。
ああ、そこにも詩心が判らない人がいるのかと、庵主は心強く思うのである。

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詩というのは、後代の人に残す言葉〈おもい〉のことだと思う。
というのが、庵主の仮説である。後世の人が読まなない詩だったら存在価値がないからである。
だから、同時代の人が書いた詩を読んでも意味がない。つまらない。いや、役に立たない。
さあ、現代詩人は、後生に託せる言葉を紡げるのだろうか。

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和歌は、詠み手は一番言いたいことを、あえて書かないとされます。
その一番言いたいことを、むしろ読む側に想像し、連想してもらうことで、意味にハタと
気付いたとき、その読み手にその感動が伝わる。広がる。
それが、名歌と呼ばれる歌の特徴なのです。
』(同)。お酒はその点では判りやすくていい。

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(欄外)
ご尊顔」と書いてあるから、その意味は「貴人の、もしくは立派な人の麗しいお顔のことだ」
と解説するようなものである。この場合の「ご尊顔」とは、嫌味もしくは悪意なのである。
その本意は見れば明白なのだから、それを先のように言ったら嘘になるという事である。

尤も先の「麗しいお顔」という言葉の意味が皮肉であるという事が分かれば、その解説は必ず
しも嘘ではないのである。現実の、美しくない部分はあえてあからさまに語らないという詩心
の原則に立っていうなら、即ち、真情はその言葉の裏面に隠されているとするなら、あながち
間違いとはいえないが、その解説が歌の真意だといったのでは間違っているという事である。

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by munojiya | 2014-01-31 00:04 | 詞藻篇 | Trackback | Comments(0)
2013-07-28 叙事詩
歴史というのは、いつの時代も、その時の権力者(甘い汁を吸っている人達)にとって都合の
いい内容が語られるものだというのが、正しい歴史認識なのだという。
歴史の元となる事実は一つなのだろうが、その解釈が人によってことごとく異なるのである。
だから、庵主は「人が百人いたら百通りの歴史がある」というのである。

庵主は、さらに、「物事には表と裏がある」と考えているから、百の事実は、裏と表で二百の
視点があるということなのである。
歴史というのは、元になる素材は事実なので、ノンフィクションのように思えるが、しかし、
それを解釈した時点で一人の作家のフィクションなのである。信じる方が間違っている。

韓国の歴史は「妄想」と呼ばれている。別名を「韓流」と自称している。
書き手の気持ち次第でそれはいくらでも美しくなるのである。
韓国のそれの彩色はポリエステルカラーである。発色はいいが、味わいが浅いのが惜しい。
大東亜戦争は日本人が書いた壮大な叙事詩だったのだという。

その国の政府は自国の美しい歴史を語るのである。
その嘘を暴くのが左翼の悪癖である。だから、左翼は嫌われる。軽蔑されるのである。
折角、そのお酒を美味いと思って呑んでいるときに、それはアル添の三増酒だよと暴かれても
ちっとも嬉しくないのである。余計なお世話である。だから左翼は辟易されるのである。
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by munojiya | 2013-07-28 00:02 | 詞藻篇 | Trackback | Comments(0)
2012-03-28 歌は昭和の歌謡曲 うちのひっちゃん
上手に作ると、やたらと長尺〈ちょうしゃく:上映時間が長いこと〉の映画よりも、
3分少々の歌の方がより感動的なことがある。なお、長尺の映画は面白ければ時間潰しになる。
ちあきなおみの「喝采」を聴いた若い人が、これは一篇の映画だといっているのを
聞いたことがある。歌で、そういう印象を抱〈いだ〉く人が少なくないということである。

昭和の歌謡曲は、それを聞いてきた人は分かっているだろうが、名曲の宝庫である。
というのも、歌詞が聴く人の心に意味をもって訴えてきた歌だったからである。
今時の歌謡曲は、歌詞がつまらない。という以前にその歌詞が聞き取れないのである。
庵主には、何といって唄っているのか理解できないから面白いわけがない。

ただ、ダンスをしながら、わめいているのは分かるのである。殆どエロ映画の世界である。
で、なんでそんなに踊りたいのかが伝わってこないから、聞いているうちに疲れてしまう。
他人〈ひと〉を疲れさせるために唄うものではないだろう、歌は。
呑んで疲れるお酒じゃ呑む甲斐がない。呑むと疲れが吹っ飛ぶからうまいのである。

そのお酒を呑んだから気分がよくなるということである。歌もそれでなくちゃ。
「うちのひっちゃん」、
「となりの真理ちゃん」、
そして、「むかいの朱理〈じゅり〉ちゃん」。古い人ならみんな知っているのである。典拠
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by munojiya | 2012-03-28 00:01 | 詞藻篇 | Trackback | Comments(0)
2012-03-20 歌は昭和の歌謡曲 これは名曲
「これは名曲」だとあるとまず聴いてみる。
「このお酒がうまい」とあったら、それが宣伝文句だと分かっていてもまず利いてみる。
庵主の本の読み方もそれである。人に聞いてみるのである。
何かの本を読んでいて、その中にこの本が面白いとあったらそれを読むのである。

すると、そうして読んだ本の中にまたこれが面白いという本が出てくるのである。
今度はその本を読むのである。自分の好みではない、他人の好みに従うのである。
そうなると収拾がつかなくなるのである。
最初はエロ本を読んでいたはずなのに、いま読んでいるのは哲学書みたないことがよくある。

庵主は、幸い、というか不幸なことに、日本語で書かれている本なら殆ど読めるからである。
意味は判らない文章であっても読めてしまうのである。
その点、お酒は、同様にその殆どを呑むことができるものの、幸いなことに、
まずいお酒は呑めないのである。すなわち多くのお酒は呑まなくてすむのである。

庵主の歌世界は、昭和歌謡曲で殆ど終了している。
最近の歌を知らないのである。聞いても歌詞が聞き取れないから覚えられない。
はっきりいって歌詞がつまらないのである。若い人には可哀相だがそれが真実である。
これは名曲』(典拠10番)。昭和54年の歌を、今聞いても納得してしまうのである。

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欧陽菲菲の歌では、「恋の十字架」が、庵主が好きな数多い歌の中で二番目に好きな歌である。
最近の歌でも、これ(映像。音あり注意)なら歌詞が聞き取れるのである。
作曲が林哲司だから安心して聞けるということである。
メロディーも、テンポも、昭和歌謡曲のテイスト(味わい)だからである。

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by munojiya | 2012-03-20 00:02 | 詞藻篇 | Trackback | Comments(0)