カテゴリ:番外篇( 303 )
2017-03-11 今週の誤植「誤り方」
もうほとんどの国民が、
安倍本人が口利きした主犯だと知ってるんだが。
参考人招致を拒否ったミスがデカいわ。
自民党は、もう今は誤まり方と幕の引き方しか考えることないだろw』(典拠)。

引用文の最後の「w」は消し忘れではない。
通常は文末の「w」は「。」に置き換えるというのが当ブログの表記の原則であるが、
今回は原文どおり残しておいたのである。
誤植は「誤り方」である。これは「謝り方」の間違いである。

でも、こういうが一番躊躇うのである。
わざと「誤り方」と書いている可能性も拭えないからである。嫌味である。
「謝り方」を「誤ったんだよ」というわけである。
謝ったら、もし総理が自分の発言に責任をもつ人なら辞任ということになるがそれはないだろう。

安倍さんは息を吐くように嘘を吐く人だからである。その実例を集めたサイトを見た事がある。
かみさん同様、チョウセン人体質に近い人だから、今度もその嘘言は実行されないことだろう。
坊さんがつく嘘は方便といい、政治家の嘘はナントカという。そのナントカが思い出せない。
酔っぱらいは「俺は酔っちゃいないよ」とよく嘘をつくがそれは酔態というのであるが。

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武士がつく嘘は武略というのだという。
光秀は、こんな名言を残しています。
「武士の嘘を武略と言い、仏の嘘を方便と言う。土民百姓はかわゆきことなり」』(典拠)。
ならば、政治家の嘘は「政略」というのかというとそれはちょっと意味が違うし。

「方便」というのは、真実を知っている導く嘘で、誤魔化すための嘘ではないのだというが、
坊さんが言っているのだからそれも方便なのかも。
「政治家の嘘を何というか」で検索していたら、こんな言葉に出合ってしまった。
コンピュータは旧約聖書の神に似ている、規則は多く、慈悲は無い典拠)。

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by munojiya | 2017-03-11 00:03 | 番外篇 | Trackback | Comments(0)
2017-03-05 今週の誤植「おっしゃっているわけではない」
『[(愛称)安倍晋三記念小学校には]6200万円もの補助金が交付されるもので重大なもの
なのです。私は、総理が関わっているとおっしゃっているわけではありません。
あんまりむきになって反論すればするほど怪しいから冷静にご答弁をお願いしたいんですけど
典拠22:23)。

民進党の福島伸享議員は、自分の発言を「おっしゃって」しまったのである。
議員も、「冷静に」、そして、きっと不慣れなんでしょうけど「日本語で」、質問をしてほしい
ものである。日本人の振る舞いは、自分を立てるのではなく、相手を立てるものなのである。
むきになって反論すればするほど怪し』く思われるので、反論はされるまでもないけれど。

旨いお酒を造ったときの杜氏の言葉もそうである。
「このお酒は私が造ったのではない。ただ育てただけだ。お酒は神様が醸してくれのだ」と。
この学校は[校地を]最初賃借でとやったのはですね、学校の用地は普通は買うんですよ。
国有財産を。それを特例でいろいろ議論があって、[中略]この学校はお金がないから

賃借にしてくれということで寄付金集めが設置認可の条件になるほど苦労されていました。
(同前22:44)。
資金がないのに学校を設立しようという創立者と、その人に8億円の土地をただ(同然)で
プレゼントした人とを結ぶ補助線があって、それは「加計孝太郎」だとネットはいうのである。

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by munojiya | 2017-03-05 00:02 | 番外篇 | Trackback | Comments(0)
2017-03-04 「ラ・ラ・ランド」は「君の名は。」は同工異曲
日本ではアニメ映画「君の名は。」がやっている事と同じことをやっているのが、アメリカ映画
の「ラ・ラ・ランド」がやっているというのが、「前田亭」と、庵主が呼んでいる前田有一の
「超映画批評」の評論である。
映画の勢いが、プロの評論家の感性をも狂わしてしまったというのである。

そういう狂騒状態を「お祭り」というのである。知性は関係ないのである。
「同じアホなら、踊らにゃ損損」である。
踊った方が、見ているよりも、もっと面白いということである。
「ラ・ラ・ランド」を撮った監督の前作があの「セッション」である。あれは怖い映画だった。

競うということは、頂点の一人に対して、その下に数多くの敗者を作るという怖い映画である。
自分の才能に自信を持っていてそういう世界が好きな人にはたまらない映画なのだろうが、
自分の才能の限界が判っている庵主にとっては見ていて精神的に耐えられない怖い映画だった。
教育とはそれを感じさせないためにやるのである。非才者に対するアフターケアなのである。

勉強中はまだ自分には可能性が残っているぞと思わせて、人が絶望の淵に沈むことがないように
希望を与えるのが教育のやっていることなのである。
アフターケアというよりは、ビフォーケアというべきか。
お酒で宿酔の時に飲むシジミ汁はアフターケア、和らぎ水を飲みながら呑むのがビフォーケア。

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「君の名は。」と同じ現象がアメリカで起こっているというのである。
ツイッターその他で私は本作を平凡と評したが、他の人たちは思っていてもなかなかそれを
言い出す勇気はなかったことだろう。それくらい映画業界における「ラ・ラ・ランド」狂想曲は
凄まじかったし、物言う評論家たちも絶賛の嵐であった。

もっともそうなることは見た瞬間、私はすぐに予想できたし、理由もはっきりとわかった。
結論から言えば、本作はとくにアメリカ在住の中年以上の業界人、ようするにオスカー会員の
ような人たちから確実に「愛してもらえる」要素を、きわめて計算的に盛り込んだ作品という
ことである。』(典拠)。
オタクのツボをついたというのである。

ロサンゼルス、すなわち夢の国を意味するタイトルからして、そうしたコンセプトだと明言
しているのであり、それを完璧に具現化したデイミアン・チャゼルの手腕は見事といえる。』を
「『君の名は。』は、すなわち夢〈あこがれ〉の国〈ひと〉を意味するタイトルからして、そうした
コンセプトだと明言しているのであり、それを完璧に具現化した新海誠の手腕は見事といえる。」

としたら、二つの映画はまったく重なるのである。
それ以降の解説はそのまま「君の名は。」で使っても違和感がないのである。
前作「セッション」のような才気を感じてみたいといった人に全く本作は向いていない。
というところなんか、「君の名は。」とぴったりなのである。

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by munojiya | 2017-03-04 00:02 | 番外篇 | Trackback | Comments(0)
2017-02-20 今週の誤植「非人道的な原爆を日本に透過」
世の中で何が人に嫌われるかといって、「他人が書いた文書の誤植を指摘する事」に敵うものは
ないだろう。
庵主は性格が悪いのそれを平気で、というより天真爛漫にやってのけるのである。
故に、人からは煙たがられているのである。

煙たがられているというと、マイナスイメージだが、実はその逆で、他人がこっちにちょっかい
を出してこないから庵主は平穏な生活が送れるということなのである。めでたしめでたしである。
人がちょっかいを出してきたことが何度かあったが、その都度お金を騙し取られたものである。
だから、笑顔で近づいてくる人を見るとどうしてもそれに見えてしまうのである。

最近は、入信しても何の役にも立たない宗教の勧誘とか、保険料を払っても何の利益もない保険
の勧誘の電話しかないから、そのときは格好の世間話の時間になっているのである。
さいわい、御布施は出せませんよと言い、保険料なんかいまさら予算計上していませんよと
いうと先様はなぜか諦めて去っていくのである。根性のない勧誘なのである。

齢をとると後に何も残らないものが身軽でいいのである。蔵書、美術品、財産等は重荷になる。
その点ではお酒は呑んだ後に何も残らないからいいのである。旨かったという記憶だけが残る。
さて『戦後世界覇権を握る為に、非人道的な原爆を日本に透過しても、アメリカが良い国であり
続けるためには、原爆を投下された日本が悪い国であり続けなければならない。』(典拠)。

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以下、その続きの文章である。
それはアパホテルの元谷外志雄会長が書いた本からの引用だという。
だから、アメリカは虚構の南京大虐殺や従軍慰安婦の強制連行を否定せず、プレスコード
(日本新聞遵則)によってメディア報道を縛り、東京裁判史観を押し付けてきたのだ。

このプレスコードは昭和29年9月21日に公表されたが、プレスコードで禁止された30項目
をここに記す。
(1)SCAP(連合軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
(2)極東国際軍事裁判批判→いわゆる東京裁判の批判

(3)GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判
(4)検閲制度への言及
(5)アメリカ合衆国への批判
(6)ソ連への批判

(7)英国への批判
(8)朝鮮人への批判→いつの間にか日本人だった戦犯となるべき朝鮮人が戦勝国入りしている
ことへの批判の禁止ということ
(9)中国への批判→支那人の日本人虐殺事件等に対する批判の禁止ということ[次節に続く]

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(10)その他連合国への批判
(11)連合国一般への批判(国を特定しなくとも)
(12)満州における日本人取り扱いについての批判→支那朝鮮人が日本人を殺害陵辱強奪した
ことに対する批判のこと

(13)連合国の戦前に対する政策に対する批判
(14)第三次世界大戦への言及→これは日本の報復を恐れたため
(15)冷戦に関する言及
(16)戦争擁護の宣伝

(17)神国日本の宣伝
(18)軍国主義の宣伝
(19)ナショナリズムの宣伝
(20)大東亜共栄圏の宣伝

(21)その他の宣伝
(22)戦争犯罪人の正当化および擁護
(23)占領軍兵士と日本女性との交渉→米兵御用達の日本人売春婦宿が存在することへの禁止
のこと[さらに次節に続く]

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(24)飢餓の誇張
(25)闇市の状況→朝鮮人暴力団朝鮮進駐軍の暗躍に対する批判のこと
(26)占領軍軍隊に対する批判
(27)暴力と不穏の行動の扇動

(28)虚偽の報道
(29)GHQ記または地方群生部に対する不適切な言及
(30)解禁されていない報道の公表→ここに朝鮮人電通の関与が登場』(典拠)。
最初の行の『非人道的な原爆を日本に透過しても』は「投下しても」の誤植である。

そういう分かりきったことをわざわざ人から指摘されると、自分の書いてものに自惚れている、
おっとっと、自信をもっている自尊心のある書き手ほどそんなお節介がカチンとくるのである。
金甌無欠の筆者に向かって何をぬかすかと。しかもそれは明らかに間違っているものだから、
振り上げた拳〈いかり〉のやり場に困るのである。それほど癪に障ることはないのである。

ただこの誤植は、引用元の誤植も忠実に引用したものか、引用者が打ち直した時に誤変換が発生
したものは判らない。引用元が紙の本だというから、多分打ち直したときに間違えたのだろう。
引用時にすでに違っていたものなら「非人道的な原爆を日本に透過(ママ)しても」とか、文末
に「原文どおり」などと表記される筈だから。いずれにせよ嫌がられる事にかわりはないけれど。

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by munojiya | 2017-02-20 14:10 | 番外篇 | Trackback | Comments(0)
2017-02-11 今週の誤植「期待にそぐわないご飯」
『[その電気炊飯器を使った時の]使用内容:
        米 = 南魚沼産コシヒカリ(奮発してみました。)
        量 = 1合 
見た目では輝きが“ゆめりか”よりも輝いていて、味も文句のつけようがないという感じです。

当たり前のことだと思いますが、米によってこんなに違うと改めて実感させられました。
使用する米は“ゆめぴりか”以上だと期待にそぐわないご飯が炊けると思います。
この炊飯器のお陰で最近ではご飯に合うおかずを考える日々になりました。』(典拠)。
同じ電気炊飯器なのに、この機種は、いいお米を炊くと俄然おいしく炊きあがるというのである。

お酒の場合は、その逆で、同じお酒でも、それを呑む器によって味が変わるのである。
いや、その炊飯器と同じか。酒盃が同じなら、中に入れるお酒がよくなると旨くなるのだから。
で、最初の「“ゆめりか”」は、勿論、「“ゆめぴりか”」の誤植である。
それは、誰が見てもすぐ分かるからどうでもいい誤植である。

問題は次の部分である。
期待にそぐわないご飯が炊ける』。ここでその書き手が言いたいことは、「いいお米を炊いた
ときには期待を裏切らないうまいご飯が炊きあがる」という事である。ならば「そぐわない」は
そぐわないのである。意味が逆になる。「期待に違〈たが〉わない」と言いたいのだから。

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by munojiya | 2017-02-11 07:59 | 番外篇 | Trackback | Comments(0)
2016-12-10 なんだこの「写真」は
「写真」といっても、そこに写っている被写体の事ではない。
その「写真〈がしつ〉」のことである。以下の「写真」は全て「がしつ」と読んでほしい。
「美しい」のである。この写真である。二枚目の写真の立体感には泣ける。
一眼レフがデジタルになってから写真をやめた庵主にとっては驚異的な写真に見えるのである。

「男子三日会わざれば刮目して見よ」という。
「写真」もそうだった。
「ISO(フィルム、おっとセンサーの感度のこと)40000」といった数字を見ると
笑っちゃうのである。写真は、フィルム写真の時代とは別次元になっていたからである。

今どき、楽しく零戦〈れいせん〉を愛でている時に、世の最先端は、すでに無人機がバンバン
爆弾を落としてくる時代になっているようなものである。技がいらなくなったのである。
そういった最新の技術(思想)についていけない自分に笑っちゃったのである。
で写真は面白くなったのかというと、つまらなくなったのである。『化け物』になったから。

お酒も「三日会わざれば刮目して呑め」である。
花酵母で造ったお酒がある。当初のそれはエグい味わいで、笑って呑むしかない代物だった。
が、しかし、造り手はその癖を手なずけて、最近の花酵母酒は存外呑めるようになったのである。
お酒は先入観で呑んではいけないのである。出合ったら、必ず自分の舌で確かめることである。


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by munojiya | 2016-12-10 10:03 | 番外篇 | Trackback | Comments(0)
2016-12-04 阿部寛のホームページ
俳優・阿部寛のホームページはあることで有名である。
その体裁が、すなわち見た目が昭和のそれだという事である。
ネット初期のホームページ作りの味わいがそのまま使われているからである。
すなわち、味も、そっけも、行間のアキすらない素朴なスタイルなのである。

「阿部寛のホームページ」の特徴といえば、人気俳優の公式サイトとは思えないほどシンプル
なデザイン。コテコテのフレーム設定、背景にずらりと並ぶ「ABE Hiroshi」の文字、
テキストリンクの羅列が中心の武骨な情報更新など、あふれだす「90年代後半のホームページ
感」でネット民に愛されてきました。』(典拠)。

それを称して曰く「ネット上の遺産」。
実は、庵主のホームページ「むの字屋」もそれなのである
流石に行間のアキがないという読みにくさがないように、そこはちゃんと調整してあるのである。
このブログを始めてから殆ど手を入れていないので、久しぶりに見てみたら、ベタ組があった。

当時から、このHPを見たプロに「スタイルが古〈ダサ〉い」と言われていたが、当今のような
モダンなスタイルを避けて、阿部寛のHPの様に初期の味わいをわざと残しているのである。
外国人に言わせると「日本のHPはどれも同じに見える」という。無個性〈モダン〉故にである。
「むの字屋」のHPのような見た目がダサいHPは今では案外と個性的だったりするのである。


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by munojiya | 2016-12-04 00:02 | 番外篇 | Trackback | Comments(0)
2016-11-15 ウインドウズ10は欠陥ソフト
ウインドウズ10は欠陥ソフトだという意味は、肝心な機能が付いていないからである。
自動車でいえば、ブレーキが付いていないような欠陥商品なのである。
社名どおりにMS(マヌケ、ソフト)なのである。
それが世界の、そしてわが日本でも標準OSだというのだから泣けてくるのである。

ウインドウズ10はいかにもアメリカ製品である。
作りが荒っぽいのは否めない。
要するに、庵主にとってはウインドウズ10は使い勝手が悪いということをいいたいのである。
「ウインドウズ10は、好きな人にはたまらないOSなんでしょうねぇ。」といったところか。

日本が戦争に負けたために、21世紀になってこんな欠陥ソフトを使わされるハメになって
しまったのである。
パソコンで一番肝心なものは何か。
データーの確保である。

パソコンが故障したときに、データーを復活させる機能が一番肝心なのである。
ソフトは再インストールできるが、データーはバックアップを取っておかないとお手上げである。
ウインドウズ10には、庵主でも使えるまともなバックアップソフトが付いていないのだ。
お酒でいえば、まともな酸味が出ていない間抜けなまずい酒を呑まされているようなものである。


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by munojiya | 2016-11-15 00:02 | 番外篇 | Trackback | Comments(0)
2016-11-13 悪戦苦闘篇「MSIME」しか使えない
韓国映画に「悪魔を見た」という映画がある。気分が悪くなるほどに執拗な復讐劇だという。
以前使っていたXPのパソコンが起動しなくなったので、一気にOSを最新のウインドウズ10
に換えたのである。
しかし、ウインドウズ10は映画でいう悪魔のようなOSだったのである。

庵主は、ワープロソフトはアメリカ産のMS「ワード」ではなく、国産の富士通「オアシス」を
使っている。日本語変換ソフトは「ジャパニスト2003」である。
ウインドウズ10パソコンに、オアシスV10をインストールして使うと、日本語入力には、
ちゃんとジャバニストが使えるのである。

しかし、ブラウザーに使っているエッジの画面で入力する時はMSの「IME」になってしまう
のである。「オアシス」以外のソフトでも、日本語入力にジャパニストを指定しても、やっぱり
IMEになってしまうのである。直感的な処置ではどうやってもIMEを排除できないのだ。
ウインドウズ10はIMEを押しつけてくる事では悪魔のようなOSなのである。

思い切って、しつこく出現するIMEをいっそ削除してしまえばいいのか。
使い勝手が悪いワードと違って、MSIME自体は使い勝手は悪くないものの、ジャパニスト
とIMEを切り換える一手間が煩わしいのである。解決法はこれかも
ウインドウズ10は庵主には使い勝手がよくない。お酒も呑まずに今苦闘している処である。

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by munojiya | 2016-11-13 00:02 | 番外篇 | Trackback | Comments(0)
2016-08-16 ゴジラ映画は観るとはいわない。目撃するだ
「シン・ゴジラ」は映画を越えて、現象となっている。
だから、そのスクリーンと対峙することは観るとはいわないのである。
「シン・ゴジラ」は映画を観るのではなくて、そこで語られている現象を目撃するのだという。
CGという絵空事で作られた虚像を目撃する哀しさを目の当たりにするのである。

若くて、可愛かった女優が、齢をとって、その美貌が失われていくことを「劣化」という。
同時に若い頃のぴちぴちしていた時の輝きまでもなくなってしまう人がいる。
その輝きを星に譬えてスターと呼ぶが、劣化したときに残るのは星の残骸である。
そのスターに心をときめかせていた自分が虚しく思えて来るのである。

CGという技術が進化して、映画は却って詰まらなくったのである。
その映像が信じられなくなったからである。なにが写っていても「CGでしょう」で
すむのだから、創造する楽しみが亡くなったのである。それでいて、万能の技術であるCGが
最後に頼るのは生身の俳優なのである。

CGが万能なら、俳優に頼らずに、CGで俳優に相当するキャラクターを創造できるか。
できないのである。初音ミクはそれに近いが、ミクに恋する人はいないのである。
CGは人の目は驚かすが、人の心は動かせないのである。
呑んだ時に心を動かせないお酒も、いうならばCGみたいなものである。つまらなのである。

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会場は「シン・ゴジラ」ファンで満席になった。女性の1人客もちらほら。
本当に、色んな人がゴジラを目撃した夏なんだなあ。
』(典拠)。
柴尾 あと「シン・ゴジラ」の世界って東日本大震災はあったのかな、と疑問なんです。
避難とか放射線とか、3・11を思わせるワードは出るけど、直接的に震災の話って出ない。

3・11を描かないことで、3・11を思い起こさせる。その辺の虚構と現実の混ぜ方が最高
に面白いですよね。
』(典拠)。
第1作のゴジラは、観る人はみんなあの戦争のことを知っていたのである。その記憶が前提に
作られていた、その記憶がない人が観るとただの怪獣映画にしか見えないのだ。

映画のゴジラも、その記憶がない子供を相手に作るようになった時には怪獣バトル映画にする
しかなかったのである。
だから、大人が観ると、バトルゴジラは何と戦っているかが判らないのである。
「シン・ゴジラ」は勿論3・11を知っている事が観客の前提条件なのである。

その前提条件がない人が見ても面白いと思うかどうか、世界公開後の非日本人の感想が楽しみ
なのである。その記憶がない人が見たら、ゴジラが何なのかが判らないのではないだろうか。
ゴジラは理不尽な神なのである。人間に横暴を働くゴジラを抑止するために、人はゴジラに
対して特攻ができるのか。人間の生き方が問われる映画なのである。

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もし、このまま手を拱〈こまね〉いていたら自分達は滅びるというときに、日本がとった作戦
は特攻攻撃だった。
理不尽な巨大な悪に対して、されるがままを受けいれて滅びるべきか、一矢でも報いて、最期
まで納得のいく生き方をするべきなのか、ということである。

ゴジラを放っておいたら、常時撒き散らす放射能で、その周辺は人間が住めなくなるから、
自分達が生活をするためにはゴジラは排除しなければならないのである。
しかし、その方法が自分の命と引き換えにしないとできない方法しかなかったとしたら、
自分の命を捨てられか、ということである。

夢は、実現すると現実になってしまい、それまでの期待と希望とわくわく感は急に色あせて
しまう。結婚したら墓場だという人もいるのである。男の、もしくは女もそうなのかもしれな
いが、人の最高の結婚〈ゆめ〉でさえそうなのだからそれ以外の夢は推してしるべしである。
自分を殺す悪をとどめるために、自分の命を捨てたらそれは何のための死なのか。

それでも、あの戦争のときには、進んでもしくは喜んで打ち向かっていった人は少なかった
だろうが、若い人が特攻攻撃をかけて打っていったのである。文字通り、散っていった。
「シン・ゴジラ」では、ゴジラとは一時休戦で終わっているが、東京都のど真ん中に屹立する
あの巨大なゴミをどう処理するのだろうか。やっぱり続きが気になる映画なのである。

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柴尾 それから、皇居と天皇について一切触れないですよね。
伊藤 そこ言っちゃいますか。
柴尾 触れないけど、皇居のすぐそばでゴジラは暴れてる。東京駅とか。あの物語の中では、
日本に天皇はいないのかなあとか考えちゃいますよ。
』(典拠)。

「シン・ゴジラ」の賢いところはそこである。
日本人の中にも天皇や日の丸や君が代が嫌いな人がいるのである。
そういう人の殆どは、日本人の振りをしているチョウセン人とかシナ人だろう。
自分がホモだという事を告白することを「カミングアウト」というのだったか。

日本人は、その人がホモだろうとなんだろうと人に迷惑をかけないのならどうでもいいので、
当人が思っているほどに「カミングアウト」に関心を示す事はないのである。
「ああ、そうかい。お大事に」で終わりである。
なので、「カミングアウト」というのは他人に告白する勇気の事をいうのかもしれない。

外来語はよく意味が判らないが、天皇嫌いは非日本人であるというカミングアウトなのである。
反天皇主義者は、それが日本人だったとしても、真っ当なうまいお酒を呑んだ事がない日本人
のようなものである。本当のうまさを知らないものだから、お酒を過少評価しているのである。
お酒とはまずい酒だと思い込んでいるだけなのである。

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by munojiya | 2016-08-16 00:03 | 番外篇 | Trackback | Comments(0)