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お酒の始末の仕方
庵主がお酒が好きだというと
お酒を送ってくれる人がいます。
ありがたいことです。
でも同時に困ることなのです。

庵主が呑めるお酒はうまいお酒だけだからです。
そうでないお酒をいただいても呑めないからです。
しかも量を呑みませんから
呑みきれないからです。

せっかくいただいたお酒は
礼状を書くためにまずは味わってみます。
ときどき予想外にうまいお酒をいただくことがあります。
「あら玉」の改良信交の純米大吟醸がその一つでした。

お酒をもらったら
最初は冷やで呑んでみます。
そして燗をつけて呑んでみます。
大吟醸でも生酒でも一度は燗をつけてみます。

「あら玉」は燗を付けたら一段とうまくなる大吟醸でした。
燗をつけるとすいすいはいってしまう。
というより、燗をつけるとなんともいえない
甘い味になってまた呑みたくなるというお酒でした。

燗酒のうまさは当たるとやめられません。
お酒のうまさが心にしみてくるから
「うまい」が「気持ちいい」という言葉と結びいて
その快感からのがれられなくなるのです。

もっともいただき物のお酒の多くはそうはなりませんが。
また居酒屋では呑めないお酒というのがあります。
柚子の香りがついたお酒とかいった下手物のお酒です。
庵主はそういうお酒も呑んでみたいという物好きです。

そういうお酒は買ってきて味わってみるのですが
たいていは一口呑めばもう十分といったお酒です。
あるいはおいしそうだ思って買ってくるお酒もありますが、
期待に応えてくれるお酒は少ないというのが実際のところです。

庵主が選んでもうまいお酒に出会うことは少ないのです。
中元や歳暮などでは、同じ予算額なら
高いお酒を1本贈ってくれるとありがたいのですが、
本数で贈ってくれることがあります。

そうなるとどうしても
それぞれのお酒は期待できなくなります。
吟醸酒、純米酒、本醸造酒といった組み合わせですが、
どれを呑んでも味が浅いという例が少なくありません。

せっかくのお気持をありがたく受けとめながらも
呑みきれませんから、
お酒はなんでもいいという人のところに事情を話して開封した酒を
持っていって呑んでもらうことにしています。

中には1~2年前のお酒が開けないままで残っていることがあります。
味が崩れていたら呑んでもおいしくないし、
人にも持っては行けませんから、
そういうときは風呂にいれてしまいます。

お酒をいれた風呂につかるときの
気持のよさは人にはいえない贅沢気分です。
湯の表面にはほのかにお酒の匂いがたちこめています。
悪徳といってもいい悦楽に身も心もひたるのです。
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by munojiya | 2005-04-30 23:08 | Trackback | Comments(0)
お酒を呑む楽しみ
酒が呑めない庵主がなぜお酒を呑むかというと
それはお酒がうまいからです。
酒がうまいというより、
うまい酒があるからです。

うまい酒はめったにありませんが、
うまい酒にであったときの喜びは
長生きの特権と思って
ありがたく甘受しています。

安くてうまい酒を造るということが前提の普通酒などの
低価格酒をいくら呑んでも体験できませんが、
大吟醸酒とか吟醸酒などの、考えようによっては
悪い冗談としか思えないお酒の中に想像を絶するほどにうまい酒があります。

それはもうお酒というより、
酒造りという一つの技を極めた成果だと考えた方がいいと思います。
お酒は芸術品ということがありますが、
それはそういう範疇のお酒についていっているわけです。

そういうお酒はうまいとかまずいとかをいうお酒ではありません。
味が深いのです。
普通のお酒が体に酔いをもたらす酒だとしたら、
そういうお酒は呑み手の心にしみてくるお酒なのです。

どんな世界でも
体に訴えてくるものより心に訴えてくるものの方が
うまいとか、おいしいとか、たのしいとか感じるものです。
うまい日本酒は心に訴えてきます。

庵主はそれを
お酒には二つの酒があるといっています。
酔って楽しむお酒と
味わって自分の感覚を極めるお酒とがあると思っています。

酔う酒にしても、味わう酒にしても
それを呑んで楽しめたときにはそれをおいしいお酒と呼んでいます。
だから酒にはうまいまずいはありますが、
楽しいお酒にはうまいもまずいもありません。それを超越しているのです。

酒を呑む理想は
おいしいお酒を呑むことだと思います。
お酒をおいしく呑めることだと思います。
よしあしだのうまいまずいを言っているようでは男がさびしいではないか。

男がさびしいというのは
みっともないと感じる心のことです。
それは美意識といっていいでしょう。
庵主がうまいお酒が好きなのは美意識に適うからなのです。

美意識こそ差別の根源だと庵主は思っていますが、
それがなくては生きている楽しみがありませんから、
否定するものではありません。
そのおかげで庵主はいつもうまいお酒を呑んでいられるのですから。

大吟醸酒や吟醸酒は冗談みたいなお酒だといいましたが、
それはこういう意味です。
米を60%以上も削って造るお酒は勿体ないということです。
米を粗末にしていると感じてしまうからです。

ではなぜそんなお酒を好むのかというと
それが往々にしてうまいことがあるからです。
そして庵主が呑めるお酒はそういうお酒だけだからです。
そういうお酒は美しいから庵主は好きなのです。
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by munojiya | 2005-04-29 20:18 | Trackback(1) | Comments(1)
うまいお酒は輝いている
長い間お酒を呑み続けていると
初めて見るお酒でも
瓶を見ただけでそのお酒がうまいかどうかが見えるようになってくる。
直感でわかるようになってくる。

直感というのは
経験的事実の積み重ねによる客観的即断
だと書いてあるのを読んだことがある。
経験の積み重ねで判断しているということである。

それなら長くお酒を呑み続けていることは
判断基準をいっぱいため込んでいるというわけだから、
データーを多くもっているので
当然直感が働く要件をたくさん満たしているというわけである。

とはいっても
瓶を見ただけでそのお酒のうまいまずいがわかるはずがなく、
念のため、そのお酒を呑んで自分の「直感」を
検証しているのである。

その酒がうまく見えても、そうでなくても、
いずれにしてもお酒を呑むわけだから、
瓶を見ただけでお酒のよしあしがわかると大言壮語するのは
余興である。

ただ、いろいろなお酒を呑んでくると
蔵元の名前や、使っている米、造りの違い、世の評判などを照らし合わせると
それまでの経験からなんとなくその酒の味わいが
予想できるようになるということも事実である。

その予想が案外あたっていることが多いのである。
うまそうに見えるお酒は輝いている。
輝いて見えるのである。
瓶を手にしたときになんとなくうまく感じるものである。

それは多分、虫の知らせと同じなのだと思う。
不吉なことが起きることを
事前に感じることがある。
それは人間の虫のいい記憶構造によるのだという。

虫の知らせはいつも起こっているのだが、
何か不幸なことがあったときだけ、
その不幸と事前に感じた虫の知らせとが直結して強く記憶に残るため
あたかも虫の知らせがあったように錯覚するのだという。

庵主もまた、うまいと思った予感とその味わいが一致したときの記憶が
強く残っていて、外れたときの記憶はきれいさっぱり忘れてしまうから
自分ではうまいお酒は瓶を見ただけでわかるという錯覚を
起こしているのに違いない。

ただ数多くの経験を積むことで
なんとなくお酒のうまさが見えてくるようになることも確かである。
その酒瓶を見て、呑む前にうまいと感じたときに、
そのお酒が本当にうまかったときはうれしいのである。

自分は多少はお酒がわかるようになったかと
まんざらでもないのである。
ようするにうまいお酒を呑んでいるという
幸せを口にしたいというのが今回の話の本心だったようである。
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by munojiya | 2005-04-28 21:00 | Trackback | Comments(0)
栃木の酒
庵主は試飲会には行かないことが多い。
一度に、そんなにお酒が呑めないからである。
利き酒はほんとうは口に含んで味わったあとは
吐き出してしまう。庵主にはそれができない。お酒がもったいないからである。

そうしないと、いくらプロであっても
まちがいなく酔っぱらってしまうからである 
酒の無理強いはいけない。呑めない酒を強要することは
アルハラといっていじめであり、いまは犯罪なのである。

「俺の酒が呑めないのか」
と言った時点で現行犯である。
そういう薬物、おっとお酒を軽々に呑むわけにはいかない。
庵主にはそういう自制心があるから、お酒の無茶呑みはしないのである。

栃木の酒の試飲会があった。
庵主は出席したのである。
そして呑み過ぎたのである。
だから栃木の酒に対する恨みをこうして書くのである。

栃木の酒といえば、
まず浮かぶのは「四季桜」である。ほかは知らない。
と思っていたが、「開華」がそうだった。「東力士」もそうだ。
「大英勇」や「鳳凰美田」や「富美川」を呑んだことがあることを思い出した。

栃木の酒だけでなく、千葉の酒、埼玉の酒、神奈川の酒といっても
なかなかその銘柄が出て来ない。
東京に住んでいて、東京の地酒を知っている人が少ないようなものである。
それらの蔵元の多くはかつては桶売りをしてお酒を造っていたのだろう

だから、酒銘を知る機会がなかったのだと思う。
いまは日本酒の蔵元がどんどん廃業していく時代である。
もっとも蔵の廃業は明治の御代からどんどん減ってきているから
これは単なる脅し文句である。

昔なら桶売りでやっていけた蔵がその需要がなくなって
自前の酒銘を打ち出さないとやっていけなくなった。
安いお酒は大手メーカーと競争してもかなわない。
だからうまいお酒を造るしか道がないのである。

いまは生き残りをかけたうまい酒が多く造られるようになった。
造り手には地獄だが呑み手には幸せいっぱいの時代なのである。
そしていま、日本酒は杜氏の代替わりが進んでいる。
時代の変わり目に立ち会っているのである。

その僥倖を甘受しない手はない。
お酒がどういう方向に変わっていくのか、
どう変えようとしているのか、
その意欲が感じられる栃木の酒の試飲会が開かれたのである。

量を呑むことはできないが、
その雰囲気を感じてきたいと思ったのである。
それがまちがいのもとだった。
「開華」の大吟醸で乾杯をして始まったお酒がとまらなかった。

燗酒も用意されていて、
すいすい入ってしまったのである。
すっかり呑み過ぎてしまったのである。栃木の酒め。
本当は一つひとつをゆっくり呑みたかったのである。
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by munojiya | 2005-04-27 22:54 | Trackback | Comments(0)
酒といったら日本酒、花といったら桜
酒というと、庵主にとっては当然日本酒のことである。
ビール、ワイン、ウイスキー、焼酎といろいろな酒があるが、
酒といえばやっぱり日本酒なのである。
庵主はお酒と書くのである。

酒といえば日本酒のことという感覚は
花といえば桜をいうのと同じだろう。
日本酒のうまさは日本人の体質に一番合っている味なのである。
桜もまた日本人の心情に一番かなう花なのだろう。

日本酒がうまいのは当たり前である。
それは逆なのである。
うまいから今でもその酒が残っているのである。
日本人の味覚に合っているから残っているのである。

地酒といわれる全国各地のお酒が
それぞれの味わいをもっているのも
地元の料理に合う味わいのお酒が残っているということである。
醤油の味がお酒の味を決めるともいう。

だから食生活が変わって
日本人の味の好みが変わると
日本酒もまたその味を変えるのである。
当世の日本酒もまた今の味に変わっているということなのである。

昔の酒の味を引き継いでいるお酒もあるが
昔の酒の味を知っている人にはなつかしい味かもしれないが、
庵主には古くさい味だと思う。野暮ったい味だという。
そういう味の酒は呑めないのである。

突然話が変わるが、
よく悪口が言われる醸造アルコールは
それ自体は決して悪い酒ではない。
酔う分には全然さしつかえないのである。

ただ、個性がないから
最初はうまいとは思っても
すぐあきてしまうのである。
そういうアルコールを混ぜ過ぎるとお酒自体も無個性な味になってしまう。

添加するアルコールの使い方が下手な酒が
つまらない味の酒なのである。
そういう使い方をしたお酒が多かったということなのである。
三増酒をまともに造ったら1升瓶の中身の70%弱がアルコールなのである。

そこまでアル添したら、
日本酒というより、
アルコールに日本酒を混ぜた混成酒(リキュール)といったほうがいい。
だからアル添の日本酒は混成酒として表示せよという主張が出てくるのである。

では純米酒が正しいのかというと
そうはいかないのである。
まずい純米酒がいっぱいあるからである。
お酒のうまさは料理と同じように造り手の上手下手によるということである。

うまいお酒を呑めばいいだけのことである。
ただ、じっさいに呑んでみてうまいと感じたお酒が
純米吟醸酒だったり、純米大吟醸だったりすることは少なくない。
いいものはやっぱりうまいということを知るのである。

食生活が洋風化(粉食化)したといっても
日本人の体質が五十年や百年で変わるわけがない。
日本酒は日本人の体質にくっついているお酒である。
酒は日本酒、そして花は桜なのである。
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by munojiya | 2005-04-26 22:15 | Trackback | Comments(0)
ラッキーゾーン
ラッキーゾーンといえば
甲子園球場にあるホームランゾーンを思い浮かべるが
今日のラッキーゾーンはそれではない。
お酒の未知の味わいのことである。

古酒が苦手だという人がいる。
何年もの熟成を重ねた日本酒のことである。
一般的に色は飴色から山吹色と化して、
味わいは紹興酒に似た味わいとなったものが多い。

庵主もダメである。
古酒の紹興酒のようなにおいが。
熟成酒でも低温で保管されていたものには
五年、十年寝かせておいてもそれほど色とかにおいがついていないものもある。

古酒といってもいろいろなタイプがあるから
いちがいにいえないのだが、
熟成香というのか、はっきり言って老ね香なのだけれど
そのにおいが慣れないうちはうまいとは思えないのである。

山廃造りという醸造法があって、
この造りをしたお酒には独特のにおいがある。
ほんのりと老ね香に似ているにおいなのである。
だから庵主はこのにおいが苦手である。

庵主の印象ではそれは古くさい味わいである。
現在の日本酒は、味が、軽い、明るい、辛いが主流である。
山廃は軽いだけでは味わえない深みを加える。
が同時に老ね香に似た古いと感じる香りを有するのである。

庵主は芋焼酎のにおいがダメだった。
今は呑める。焼酎は芋がいい。
変わるのである。
歳をとると好みが変わるのである。

なじめなかった味わいがやがてわかるようになるのである。
このことだけは長生きすることの特権である。
だから今呑めないお酒はやがて目の前に美味となって開けてくる
お酒であるかもしれないのだ。

庵主はそういうお酒をラッキーゾーンにあるお酒と呼んでいる。
普段は気にもとめない部分であるが、
一度はまったら
大儲けという部分である。

今は気にならないお酒だったり、
なじめないお酒だったりするが、
やがてそれがうまいと感じたときには
ラッキーゾーンにあるお酒はまさに宝の山となるのである。

楽しみを先に取っておく部分ということで
ラッキーゾーンと呼ぶ。
ラッキーゾーンにあるお酒は
未知の楽しい世界を残しているようなものなのである。
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by munojiya | 2005-04-25 23:39 | Trackback | Comments(0)
「黄桜」を呑む
庵主が呑むお酒はアルコール度数が17から19度という
高めのお酒であることが多い。
15度の酒だとなんとなく水っぽく感じる。
あくまでも感じるのである。先入観といえばそれまでだが。

日本酒はアルコール度数を1度下げると
酒税が1キロリットルあたり約1万円安くなるから
製品価格をその分安くして売るという
販売テクニックがある。

そんな水くさいお酒を呑む人がいるのだろうかと思っていたら
本当にあったのである。
「黄桜 山廃仕込 生貯蔵酒」は、アルコール分
13度以上14度未満とある。

表ラベルには「杜氏伝承の技」とある。
「原材料名/米・米麹 醸造アルコール」とある。
裏ラベルを見る。
「キリッと『巾』ある旨さです。 黄桜山廃仕込 生貯蔵酒 300ml詰」

「『山廃仕込・生貯蔵酒』は、自然の力でゆっくりと酒母を育てた
山廃仕込の『巾』ある旨さをそのまま生貯蔵酒に仕上げました。
冷やして上手い、ふくらみとコク。喉ごしが良く、爽かな口あたり。
清冽な味と香りが特徴です。」

「●お召し上り方/冷やして、またはロックでお召し上り下さい。
アルコール度数/13.5度 日本酒度/+1 三度/1.3 
アミノ酸度/1.2」
生酒を詰口時に加熱処理しています。」

注意書きは3点である。
「■冷暗所に保存してください。」
「■なるべくお早めにお召し上り下さい。」
「■飲酒は20歳を過ぎてから」

このお酒のよさはその容量にある。300mlである。
これならかりにうまくなくてもすぐ呑めてしまうから
悔いがあとに長く残らないところがいい。
それが1升瓶だったら恨みが残る。騙されたという記憶が明瞭に残るのである。

300mlは詰める方は中途半端な面倒くさいサイズかもしれないが、
缶ビールなどは350mlが主流であることを考えれば、
面倒くさいは当たらないだろう。
そう思うのは呑み手の立場より造り手の立場を優先させた発想なのである。

最近は百貨店で大吟醸の300ml瓶が並んでいるのを目にする。
それでも2500円とか3000円とかたしかに高いのではあるが、
1升瓶ならその6倍である、買うには勇気がいる。
それが300mlならなんとか買えるのである。

1升1万円の大吟醸を1合壜に入れて税込1050円で
売っていることがあるが、
庵主はこれがうれしい。
高い大吟醸も1000円なら買えるからである。

1升瓶はたしかに美しい容れ物ではあるが、
冷蔵庫には入らない、呑み残すとお酒が空気を吸ってしまうなどと
いろいろ問題も多いのである。
安いお酒ならそれでも我慢できるが高いお酒ではそれは困る。

「黄桜」はかつて三増酒が全盛のときに、
数少ない純米酒を出していた蔵だった。それが結構うまかったのである。
だから、ときには目をやるのだが、
「山廃仕込・生貯蔵酒」の味については書かないうちに紙数が尽きてしまった。
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by munojiya | 2005-04-24 23:15 | 下手物を一杯だけ | Trackback | Comments(0)
接点のないお酒
うまい日本酒を知った人は
大手の日本酒メーカーが造るお酒を呑まなくなる。
正しく言うと大手メーカーが造るうまい日本酒は
入手が困難だからである。

白鶴月桂冠大関沢の鶴松竹梅と、
ナショナルブランドと呼ばれる
だれもが知っていて
どこでも買える普通酒を呑んでもつまらないからである。

いつでもどこでも均質な味が味わえるお酒を造る技術と
呑んでうまい酒とは一致しないからである。
そしてうまい酒は量が造れないから
同じ日本酒とはいってもその質が異なるということなのである。

庵主はうまい酒でないと呑めない。
大手メーカーが造る普通酒は最初から体に合わないし、
1万円クラスのお酒はそれなりにうまいのだろうが、
値段のことを考えると他の蔵元のうまい酒を選ぶということになる。

大手メーカーの高級酒は
中元や歳暮などの贈答用に使われることが多いため
値段がびったり1万円とか5千円といった
現金がわりの値付けがされている。

だからその酒質と値段が必ずしも比例しないのである。
それよりも安くてうまいお酒がいくらでもあるから
どうしても大手メーカーのお酒を呑むということは
後まわしになってしまう。

庵主と大手メーカーが造る日本酒とは
そういう事情から接点がないお酒なのである。
大手メーカーのお酒はうまくないというのが定評だが、
大手メーカーが造ったうまい酒を呑む機会が少ないということだと思う。

生産体制が機械装置を駆使して大量にお酒を造る構造になっていると
手間暇をかけてうまい酒を多少造ったところで、
そのメーカーの全生産量に占める割合は小さいから
販売にも力がはいらないのだろう。

庵主に関していうならば、
大手メーカーのお酒をうまくないという定評に与する以前に
それを呑む機会がないお酒だということである。
呑んだことがないものの善し悪しをいうことができるわけがない。

庵主が日本酒を呑み始めたころ、
今から三十年ぐらい前のことであるが、
純米酒を探してもほとんど売っていなかったものである。
ただ、菊正宗の「雅」(みやび)が手に入る純米酒の白眉だった。

当時庵主が呑んだお酒でうまいという記憶が残っている
数少ないお酒の1本である。
その味を基準にして、それを物差しにして
いろいろなお酒を呑み比べていたものである。

いまでも「雅」は百貨店に並んでいるが1升瓶で5000円である。
今は四合瓶では売られていないようであるが、
かつては2500円の四合瓶を買ってきてよく呑んだものである。
その「雅」も、もう何年も呑んでいない。        
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by munojiya | 2005-04-23 22:49 | Trackback | Comments(0)
アル添酒は代用酒か
アルコールを添加した日本酒は間違っている
という声が上がった。
三増酒が全盛のころ(三十年ほど前)である。
その主張はたしかに正しかった。

戦前の日本酒はすべて米だけで造られたお酒だったのに
戦後の日本酒はアルコールでうすめた酒ばかりで
以前のようなうまい日本酒がなくなってしまったと
嘆きの声が上がったのである。

三増酒というのは戦後の原料米不足をつくろうために
緊急避難的に造り出されたお酒である。
酒は呑みたい、米は足りない、ではアルコールを添加して
とりあえず酒みたいなものを造れというものである。

そういうものを紛い物という。
食品の場合は代用食という。
お酒だから代用酒である。
本物が用意できないときに一時的に呑む酒である。

三増酒というのは三倍増醸酒のことである。
アルコールを添加して純米酒の3倍量のお酒を造ることができる醸造法である。
そうやって造られた酒を使って造られたお酒のことである。
水で3倍に薄めたジュースを飲んでもおいしいわけがない。

三増酒も同じようにただアルコールで薄めただけではうまくない。
アルコールを添加して薄くなった酸味や甘味や旨味を
酸味料や水飴や味の素を加えて味わいを調整したのである。
醸造酒というのはおこがましい、合成酒みたいな酒なのである。

だから三増酒の実態は恥も外聞もないお酒なのである。
それを日本酒といっていいと大蔵省が御墨付きを出したのである。
すなわちアル添酒に対する不満の声は
徴税当局に対する反旗だったのである。

だからその非をならす舌鋒は厳しかった。
同時にそんなとんでもない酒を日本酒と呼ばせるお上におもねて恥としない
日本酒メーカーに対する憤懣やるかたない思いの
爆発だったからである。もっとまともな酒を造れである。

しかし、ながくアル添酒造りをつづけていたものだから、
純米酒に戻れといっても
杜氏がそれを造れなくなっていたのである。
今日のようなまともな純米酒が呑めるようになったのは最近のことである。

ちょっと前まであった技術も十年二十年とそれが途絶えてしまうと
その復活には相当の時間がかかる。
勘を取り戻すのに絶えていた期間と同じぐらいの時間を要するのである。
酒造りが個人のものならすぐ回復したことだったろうが。

そしてアル添の技術も上達して
それは時代の流れである軽薄短小化に合流することで
それなりに呑みやすい酒としての地位を築いてしまったのである。
並行して、アル添酒は二つに別れるようになった。

増量目的とはべつに酒質を上げる手法として使われるようになった。
吟醸酒の世界である。お酒の芳香は粕ではなくアルコールに残るという。
従来のアル添酒は普通酒としていまでも大量に造られている。
一方、吟醸酒はうまい酒として一定の量を確保するようになったのである。

アル添といっても2種類あるということである。
これまで批判的にいわれてきたのは増量目的のアル添酒だったのである。
純米酒が正統とはいっても、必ずしも純米酒がうまいというものではない。
お酒は実際に呑んでみてうまければそれがいい酒なのである。
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by munojiya | 2005-04-22 21:54 | Trackback | Comments(0)
酔うための酒、味わうためのお酒
酒には二通りある。        
酔っぱらうための酒と味わうための酒である。
普通酒の世界と特定名称酒の世界である。
似てはいるが本来違うものを比べることはできないのである。

バターとマーガリンを比べて
どっちがいいと論じてもしょうがないのである。
軽自動車と普通車はその質が違うのだから比較しても無意味である。
目的が異なる二者の優劣を評価することはできないないということである。

お酒もまた普通酒と特定名称酒を比べても甲斐ないことである。
二つはその目的がちがうお酒だからである。
それを酔っぱらうためのお酒と
味わうためのお酒の違いだと庵主は踏んだのである。

三増酒というお酒があった。いまでもさがせば手にはいる。
昔は、といっても戦後からつい十数年ほどぐらい前までのことだが、
お酒の多くがその手のお酒だったのである。
以前は、すなわち昭和十七年より前まではお酒は全て純米酒だった。

よく言えば三増酒というのはつい最近造られたモダンな味のお酒なのである。
ただ一つ欠点があった。
酔うことはできるが、その多くはうまくなかったのである。
戦前のようなうまい純米酒を造れという声があがったのは三十年ぐらい前か。

庵主がお酒を呑み始めたのもそのような主張をする啓蒙書を
読んでからである。
三増酒が諸悪の根源なのか、純米酒といううまいお酒があるのかと
信じ込んでそのうまい日本酒を求める旅に出たのである。

その後、少しずつ吟醸酒や本醸造といった味わいに重点をおいたお酒が
造られるようになってきたのである。
三増酒はやめたという大手メーカーも出てきた。
純米酒だけしか造らないという蔵もでてきたのである。

いまでは数多くのうまいお酒が造られるようなったが、
そうなる以前の昔の日本酒は庵主は呑めなかった。
一つにはお酒の呑み方が分からなかったせいもある。
自分の酒量とか適量を知らなかったのである。

それにその頃はお酒の呑み方も今のように上品ではなかった。
お酒の味わいの違いを楽しんで呑むという呑み方がなかったのである。
呑み手の様子も見ないでやれ呑めそれ呑めという
豪快な呑み方が主流だったのである。

だからきまって酒を呑むと気分が悪くなった。
呑んで気持が悪くなるものを好んで呑むわけがない。
もう呑みたくないという思いだけが残るのである。
日本酒嫌いが増えるわけである。

ところが、庵主が呑めるうまいお酒が造られるようになったのである。
うまいお酒と出会う機会がだんだん増えてくる。
いまでは到底呑みきれないほどのうまい酒に囲まれているのである。
隔世の感がする。思えば贅沢な日々である。

庵主もお酒の呑み方を覚えたのである。
まず適量にとどめることができるようになった。
しっかり水を呑む。
そしてうまいお酒しか呑まない。

そういう呑み方ができる時代になったのである。
思えばお酒の呑み方が変わってきたのである。
それは世の中が豊かになったからなのだと思う。
とはいえ、いまなお普通酒の占有率は70%ちかいのである。 
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by munojiya | 2005-04-21 18:38 | Trackback | Comments(0)