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小沢昭一とお酒
小沢昭一が
新宿の末広亭に出るというので
連日、夜の部は
立ち見が出る盛況である。

落語ではないから色物である。
随談として出ている。
小沢昭一はお酒が呑めないという。
呑めそうに見えて呑めない人の一人である。

そのお友達である
永六輔もお酒は一滴も呑めない。
酒を呑めなくても
世間を渡って行けるのである。

さらにあの勝新太郎も
本当はそんなに呑んでいなかったという説がある。
豪快に呑んでいるようにみせかけていたが
実は量は呑んでいなかったのだという。

小沢昭一の随談は終戦後に逆上る。
人間国宝、関西落語の大御所米朝の話である。
いまや米朝は新聞の一面を飾るようになったという。
米朝和解とあるからよくみたら米国と北朝鮮だったといって笑わせる。

小沢昭一と米朝は
句会の仲間なのだという。
昔からのお友達なのだという。
米朝の本名は小野清だという。

終戦後のことである。
小沢昭一は戦災応急住宅に住んでいる。
戦災応急住宅というのは
バラックのことである。

まず屋根がない。
渋か脂を塗った紙が屋根替わりだったという。
雨が降ると家の中で
傘をさしていたという。

そして床がない。
筵を敷いていたという。
米朝が上京した折りにはその戦災応急住宅に
泊まっていったという。

その米朝が
お酒が好きなのである。
寝酒がないとだめなのだという。
その時に大阪の事情をよく聞いたという。

小沢昭一はそれが勉強になったといっていたが、
その時にどんなすごいお酒を呑んでいたのかというところにまで
話が発展しなかったのは
たぶん小沢昭一がお酒を呑まないせいだろう。

小沢昭一は最近惚けを感じるようになったといって老齢客の気をさそう。
米朝に用事があって電話を掛けたときの話である。
「今、末広亭に出て昔の落語家の話をしているのだが、
惚けてきたのか、名前が出て来ないんだよ」

すると米朝が
「ぼけ防止のいい薬ができたんだよ」
「その薬の名前を教えてよ」
米朝、やや間があって、「忘れた」
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by munojiya | 2005-06-30 23:15 | Trackback(1) | Comments(0)
うまいお酒は一番になくなる
うまいお酒とそうでない酒の違いの見分け方である。
値段の高いお酒がうまい酒か。
そうはいかない。
有名なお酒がうまいお酒か。

そういうこともないのである。
ではうまいお酒はどうやって見つけるのか。
お酒は呑んでみなければ分からないというのが庵主の実感であるが
どれがうまいお酒かということはすぐ知ることができる。

二つのお酒がある場合、
うまいお酒の方から早く減っていくという経験則があるからである。
もっと多くのお酒が並んでいても同じことである。
うまいお酒から早くなくなっていく。

いろいろお酒を呑んでいると
そのお酒の評価が耳にはいってくる。
呑み手の大方の感想であるが
さすがに実際にお酒を呑んでの意見だけにそれはよく当たっているのである。

酒呑みはよくお酒を知っている。
注目のお酒というのが知れ渡っているのである。
いまは中年男性向け雑誌を見ると
毎月のようにどこかの雑誌に日本酒の特集が載っている。

あるときは居酒屋の特集だったりするが
うまいお酒を呑みたいという
まともな味覚の持ち主の読者から
お酒の記事は支持を得ているのである。

逆か。
いい年になったら
まともな日本酒がわからないようでは
みっともないというのが時代が求めるセンスなのだろう。

洗練された知性と
中身の豊かな財布に
貧しいお酒では
悲しすぎる。

うまいお酒を愛でることができるということが
男の器量なのである。
酒を呑むのではない、
嗜むのである。

酒のうまさは知識ではなく、
自分の体が教えてくれる。
庵主はうまいお酒なら呑めるのに、
そうでないお酒はなかなか進まないのである。

めったにないことだが、
庵主が買ってきて呑んだお酒で
四合瓶があっと言う間になくなってしまったお酒が
「波瀬正吉」である。

高いお酒だから大切に呑もうと思ったのではある。
少しずつ呑もうとは思っていたのである。
しかし、一杯口にすると見事にきれいなお酒で、
うまいと感じる間もなくすうーっと喉元を過ぎていく。

味わおうと思って
もう一杯呑んでみると実に気持のいい味なのである。
舌で感じるうまさというよりも体がそのお酒になついてしまうような感じである。
お酒はあっと言う間に減ってしまった、いや呑めてしまったのである。
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by munojiya | 2005-06-29 23:27 | うまいお酒あります | Trackback | Comments(0)
酒師(さかし)
また一つ「むの字屋」だけの言葉を造ってしまった。
酒師(さかし)である。
うまい日本酒を
真っ当に造る人たちのことである。

それは杜氏をはじめとする造る人のことである。
そしてそういうお酒を見つけてくる人のことである。
さらにそのお酒を呑ませてくれるお店の人のことである。
うまいお酒に憑かれた人たちのことである。

うまい酒を造る奇特な人がいる。
その酒を見つけてくる酔狂な人がいる。
それを呑ませてくれる親切な人がいる。
と庵主はホームページの入口に書いたのである。

うまい酒を求めてやまない人たちのことを酒師と呼ぶことにする。
そしてそれを評価するのが呑み手である。
酒は呑まれたときにその評価は定まる。
いくらいいお酒を造っても呑み手がいなければ無いのと同じである。

むかしゴッホの絵は
ゴッホが生きているときには1枚しか売れなかったという。
が、死後その作品は
高く評価されるようになったことはよく知るところである。

ゴッホの絵もまた
描かれてからすぐのものは新酒なのでだれも呑まなかったが、
何十年かの熟成をへて
やっと呑めるようになったというのであろうか。

そうではあるまい。
その絵を評価できる人がいなかったということだけのことなのである。
いいお酒もまた
それがわかる人がいないと宝の持ち腐れなのである。

呑み手こそがお酒の質を決める最大の要素なのである。
ようするにうまいお酒を呑みましょうということである。
庵主が、お酒が呑めないのにも関わらずまるでそれが好きかのように呑み続けるのは
日本酒というわが国の文化をより高めたいからにほかならない。

それを支持する人たちの要求水準が低いと
いいものができないからである。
テレビ(受像機)がそうである。
電器店にいっても魅力的なテレビがない。

身近に置きたいと気持を起こさせるデザインのテレビがないのである。
虚仮威しばかりで、5分で見飽きる絵画のようである。
もっともテレビの場合は
その番組自体がどうでもいいという致命的な欠陥があるのだが。

お酒の
文化としてすばらしいところは
それが
呑んだらなくなってしまうというところにある。

滅びていくものを造り、
それを愛でて、
その心を語り伝えるのである。
しかもそれが味わえるということがすごいのである。

美しい宝石もせいぜい見るだけの楽しみである。
しかし、お酒は呑めちゃうのである。
すなわち芸術を自分の身の内にすることができる。
お酒を呑むということは芸術の心を知るということなのである。
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by munojiya | 2005-06-28 23:26 | Trackback | Comments(0)
ぷはーっと「正雪」酒門ラベル
庵主にとって
それは魔法としか思えないお酒がある。
「正雪」(しょうせつ)の純米酒である。
酒門のラベルが貼ってあるものである。

水のように呑めるのである。
いや、呑むのではない。
お酒のほうから体の中に飛び込んでくるといった感じなのである。
一口そのお酒に触れるとすうーっとお酒が流れ込んでくるのである。

普段なら呑めないはずの
グラスにいっぱいのお酒が
一息で入ってしまう。
はっと気がついたときにはグラスは空になっているのである。

トンとグラスをカウンターの上にもどすと
お酒の勢いにおされていた自分に気付いて
はっとして一息つくのである。
ぷはーっと我を取り戻すのである。

まるで生ビールを呑むように
お酒が喉にひっかかることなく入っていく。
うまいのである。
いや気持ちがいいのである、のどごしのなめらかさが。

お酒の一気呑みを勧めるわけではないが、
体がそのお酒を熱烈歓迎してしまうのである。
一瀉千里にお酒がからだの中にはいっていく。
肉体にではなく、呑み手の心にはいっていく。

水のように呑めるとは書いたが
水は、この酒のようには呑めない。
水は、案外重いのである。
存外喉につかえるのである。

グラスに入ったお酒と水を飲み比べたら
お酒のほうがなめらかに喉をすぎていくことがわかる。
ただ、お酒を一気呑みしたらその反動がこわいので
理性のある人ならやらないだけである。

しかし、それを知っていても
からだは「正雪」の純米酒門ラベルを一気に受け入れてしまうのである。
呑んでしまってから我に返るのである。
ぷはーっと、われに返るのである。

酒門の会にお酒を納めている蔵元さんがいっていた。
酒門の会は品質に対する要求水準が高いと聞く。
また酒質のチェックもきびしいという。
それが信用なのである。

「正雪」は庵主が好きな静岡のお酒の一つである。
静岡のお酒はどの銘柄にも活気があるからうまい。
気魄がこもっているお酒はうまいのだ。
いま静岡のお酒は乗っていると思う。

その「正雪」が、しかも酒門の会のそれがあったのは
新宿ハルクの裏辺りにある居酒屋である。
女酒徒まき子さんが教えてくれた。
まき子さんの嗅覚は鋭い。

うまいお酒を置いてあるお店をよく見つけてくるのである。
いまは日本酒の世界でも女の方が好奇心も元気もあふれているようである。
男も負けてはいられない。
「正雪」の純米酒・酒門ラベルでぷはーっ、である。

(注)
グラスにいっぱいのお酒というのは庵主の場合120MLです。なお、この文章を真に受けて一気呑みはしないでください。そんな呑み方をしたらお酒に失礼ですから。

ぷはーっの「ぷ」は、「ふ」に半濁点「○」です。「PU」です。文字が小さいのでねんのため。
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by munojiya | 2005-06-27 23:43 | うまいお酒あります | Trackback | Comments(0)
待ち合わせ
待ち合わせは時間厳守とメールを打ったら、
時間原酒と変換された。
酒のことばっかり書いているから
庵主のワープロはお酒モードなのである。

要確認と打つと
酔う確認とくる。
庵主のワープロは酒好きの酔っぱらいかと
思ったら実はそうではないのである。

第一、庵主のワープロはきき酒をしない。
酒を「きく」という字が書けないのである。
口偏に利という字である。
その字がない。

酒を呑まないコンピューターなのである。
非人間的なコンピューターなのである。
うっかり「ききさけし」と打って変換したら危機酒死と出る。
お酒を呑むのがなんとなく恐ろしくなるではないか。

反アルコール主義者なのである。
アメリカの禁酒法を思わせるのは、
このコンピューターの出自がアメリカ精神に
(のっと)っているからなのか。

検索サイトYahoo! JAPANで
「大東亜戦争」を検索すると
なぜか
「アジア・太平洋戦争」という項目に繋がる。

思想を統制しているのである。
コンピューターシステムには
罠が仕組まれているということである。
そういう便利なシステムなのである、コンピューターというのは。

Yahoo! JAPANで「アルコール依存症」を検索したら
「アルコール呑みま症」に繋がるのかもしれない。
いや酒を呑まないコンピューターだから
「アルコールやめま症」か。

パソコンではまた、
「モト」という字が書けない。
「酉に元」という漢字である。
モトがないと日本酒は造れない。

酒を呑まないから
肝心な字に思い及ばないのである。
それを酒母と書いてもいいが、
モトと酒母では意味がちがう。

パソコンは
明らかに日本酒文化を狙い撃ちしていることがわかる。
日本人は漢字で物事を考える。
そして評価する。

だから漢字を使わせないということは
日本の文化に掣肘を加えるということである。
庵主は醗酵を発酵と書くこともよしとしない。
発酵と書かれると酒がまずく感じるではないか。

待ち合わせの時間に
その女の子は約束の場所で待っていた。
お酒の好きな女の子である。
お酒の味が分かるところがうれしいのである。
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by munojiya | 2005-06-26 21:07 | Trackback | Comments(0)
神楽坂あたり
JRの飯田橋駅で降りて
神楽坂下口から
神楽坂を登っていく。
夏場ならば十分に汗ばむ上り坂がつづく。

本多横丁を右にまがり
最初の十字路を左折し
ちょっと行ったところの右に
その店に通じる小道がある。

お店は串焼き屋である。
いいお酒が揃っている。
お酒は何があるとか問うと
小さな笊(ざる)が出てくる。

笊の内側に紙が貼ってある。
それが酒祭りである。
酒祭りには本醸造いくらから、純米酒いくらからと値段だけが書かれている。
純米大吟醸、大吟醸と一通り揃っているが酒銘はわからない。

純米酒から頼んでみる。
「神亀」だという。
それでいい。
冷蔵庫から取り出してきた一升瓶はほどよく冷えている。

ほかの客の注文を見ていたら、
「東洋美人」「十四代本丸」「麓井」などが冷えているようだ。
お酒の揃えに筋が通っている。
はずれがないといったほうがいいか。

ガラスの小皿の上に
120MLの日本酒グラスである。
グラスにいっぱい注(つ)いで
さらに皿にもあふれるほどにこぼしてくれる。

普段なら
グラスの七分目あたりで
とめてもらうところだが
今夜は目一杯にそそいでもらった。

しめて150MLと見た。
串焼きのコースを頼んだので
五勺では時間が持たないと踏んだからである。
久しぶりに会う酒友との語らいである、夜は長い。

「神亀」である。
とうぜん純米酒である。
純米酒しか造らない蔵だからである。
ずっしり重量感がある純米酒である。

一、二年の熟成をへた「神亀」は
落ち着いた味わいをたたえている。
お酒の楽しさに満ちている。
おいしいお酒だった。

小さなお店だが客は多い。
庵主が店を出たときに
入口の長椅子で席が空くのを待っていたのは
ふたりづれの女の子だった。

そこは繁華な表通りから
ちょっと離れた
道筋にある小さなお店。
神楽坂あたりである。
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by munojiya | 2005-06-25 22:08 | Trackback | Comments(0)
本質は陰陽だが人間は三様で生きる
物事の本質を陰陽と見るのは東洋思想である。
たとえるならば紙の両面のようなものである。
表面だけで裏面がない紙はないように
物事には表の要素と裏の要素があって成り立っているという見方である。

ただしそれは人間にはあてはまらない。
いや確かにそれは当てはまるのである。
しかしそれだけでは何かが物足りない。
第三の要素が生きるためには必要なのである。

世の中を白と黒で割り切ってしまうのは西洋思想である。
デジタルがそれである。
そのほうが効率的だからである。
しかし人間はけっして効率を求めてはいないのである。

白と黒の間には多くの灰色があるのに
それを切り捨ててしまうのは
そうやって割り切ることで
仕組みが簡単になるからである。

人間の場合はそうはいかない。
人間を効率ではかったら
一番無駄なのが
その人間の存在だからである。

人間は合理化のために生きているのではない。
すぐ疲れる、すぐ飽きる、すぐ目移りするというほうが人間なのである。
無駄と見られている方が人間の本質なのである。
勤勉というのは緊張度が高い異常値なのである。

肉体でいえば高血圧のようなものである。
精神の場合はそれを勤勉というのである。
中庸というのはおもしろくはないけれど正常値という意味なのだろう。
高血圧だ低血圧だというのはいずれも異常値なのである。

勝ち組負け組という言葉がある。
いずれも異常値である。
その中間があるということを
念頭からすっかり忘れてしまうと疲れるのである。

西洋音楽の楽音が
ひらすら純粋音を求めるから
一見きれいに聞こえるが
ながく聞いていると疲れてくるのと同じである。

純粋に近いはずの
醸造アルコールをいれた
アル添酒を呑んでもなぜ物足りないかと言えば、
極端は人間性にはあわないということなのである。

人間にはグレーの部分が必要なのである。
すなわち第三の要素がないと
息苦しくて
やってられないのである。

ときには極端を味わうのもいいが
それがいつもでは人間は疲れる、いや飽きる。
中庸というグレーゾーンが落ち着くのである。
いうならばそれが緩衝材となっているのである。

二人で酒を呑みたいという電話があった。
もう一人加えていいかと聞いてきたから
ぜんぜん差し支えないと答えた。
お酒を楽しく呑むときにも第三の要素があったほうがいいからである。
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by munojiya | 2005-06-24 22:07 | Trackback | Comments(0)
曙橋シリーズ おかだ
庵主(あんしゅ)の庵(いおり)がある曙橋(あけぼのばし)のお酒事情を
おりにふれて書いてみる。
身近でうまいお酒が呑めればそれに越したことがないからである。
まずはお酒が呑める居酒屋「おかだ」に足を運ぶ。

お酒が呑めるとは
もちろん真っ当なお酒が呑めるという意味である。
呑んでも甲斐のないお酒を
庵主は呑みたいとは思わない。

それ以前に、
長くお酒を呑み続けたせいで
うまくなさそうなお酒には
気が惹かれなくなってしまったのである。

お酒を見れば
酒銘と
造り(特定名称)と
世間の評判とを照らし合わせて即断できるようになってきたからである。

呑みたいお酒と
呑むまでもないお酒が
見ればわかるのである。
見当がつくのである。もっとも往々にしてはずれるけれど。

「おかだ」は
店頭に「十四代」をはじめとする
酒呑みの目を引く銘柄の空き瓶を
並べてあるからそこがまともなお酒を出す居酒屋だということが分かる。

酒祭りには
定番のお酒として
「久保百」(くぼひゃく=「久保田」の百寿)と
「久保千」(くぼせん=「久保田」の千寿)がほぼ定価仕入れの値段で載っている。

さらに「お勧めのお酒」は
「来福」、「浦霞」、「黒龍」、「出羽桜」、「鷹勇」である。
前頭上位から小結、関脇級のお酒が揃っている。
ちなみにこの日庵主が選んだのは「鷹勇」である。

さらに「特選のお酒」というのがいい。
「来福」の純米吟醸を米違いを5種類並べているのである。
山田錦、雄町、八反錦、愛山、亀の尾である。
このお店は呑ませるという気合を感じる酒祭りである。

実は「十四代」もこのお店では定番のお酒なのである。
人気が沸騰して
他のお店にはなかったころから
「おかだ」には当然のように「十四代」が並んでいた。

庵主は日本酒の揃えがよくないお店では
お酒を呑みたいとは思わない。
いつもいっているように呑めないからである。
まずいお酒を呑んで呑み直しをするということができないからである。

とはいえ、ご馳走してもらうお酒というのがある。 
断れないお酒である。
そういう席ではうまいお酒が出てくるとは限らない。
しかしそれを蹴るほど庵主は偏屈ではない。

ほかでそういった口に合わないお酒を呑まされたときには
曙橋にたどりつけば
まともな一杯が呑めるお店があるということで
ほっとすることができるのである。
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by munojiya | 2005-06-23 23:00 | うまいお酒あります | Trackback | Comments(0)
安い酒が呑みたい
いまもそうだと言っていいのだろうが、
吟醸酒ブームというのがあった。
吟醸酒、大吟醸酒がうまいといって
持て囃されたのである。

しかしそのうち
その美しさに飽きて
呑み手はまたもとの純米酒なり
本醸造酒に戻ってしまった。

確かにうまいのある。
上手(じょうず)が造った吟醸酒は。
しかしそればかりを呑んでいたら飽きるのである。
そして普段はそこまで極めたお酒はいらないと思うのである。

庵主は
お酒を1杯しか呑まないから
最初から大吟醸を呑む。
言うなればベートーベンの「運命」型の酒呑みなのである。

開巻からクライマックスのお酒を呑む。
それだけで酔いが回るから
その次が呑めないからである。
一杯しか呑めないからうまいお酒を口にしたいのである。

が、いまはそんな高いお酒を呑まなくてもいいと思っている。
値段が2倍なり3倍なりに高いからとって2倍も3倍もうまいかというとそうはいかない。
高いお酒は期待も大きいから
かなりうまいお酒でも想定内に納まることが多いからである。

ところが
期待しないで呑んだお酒が
予想以上にうまかったときは
うれしい。

値段以上にうまく感じるのである。
そっちの方がずっと楽しいということに気付いたのである。
それと賭けの要素もある。
高いお酒ならうまいのは当たり前であるがそうでない酒は当たり外れがある。

時には外れるのである。
大きく外れるのである。
能登杜氏の四天王が醸したというお酒でも
安いものには庵主の好みに合わないときがある。

いま庵主が求めているのは
精米歩合60%でうまい純米酒である。
いや純米酒には限らない。
アル添酒でもいい。

じつはこれは結構賭けといってもいい選択なのである。
この基準では期待にとどかないお酒が多いからである。
ただし当たったときはそのうまさにはまってしまうのである
これが。

米を磨いて40%も糠にして造ったお酒が往々にしてうまくないのである。
安全線は精米歩合が50~50%のお酒である。
ここまで磨くと造りにも気を使うのだろう
十分に納得できる味を出したお酒が多い。

中には、いるのである。
安いお酒のほうがいいという人が。
庵主が貰い物のいいお酒を持って行ってもこんないい酒でなくていいという人が。
ただし庵主がいう安い酒というのは、あくまでもお酒といえて安いものなのであるが。
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by munojiya | 2005-06-22 21:04 | Trackback | Comments(0)
キキ酒師という資格
キキ酒師という資格がある。
キキは口へんに利と書く。
ワープロでは出てこない漢字である。
「ききざけし」ではなく、にごらずに「ききさけし」と読む。

その資格を認定しているのは
酒サービス インスティチュート(SSI)である。
講習会を受けて受験して、合格したら会員になる必要があり、
資格を取るのになんだかんだで10万円ほどかかる。

10万円用意できればだれでも取れる資格である。
キキ酒師は年間1000人ぐらい認定されているから、
10万円を掛けると1億円の年商となる。
口の悪い人はそれを資格商売という。

さらにキキ酒師の資格を持っている人は
一つ上の資格である酒匠(さかしょう)という資格が用意されている。
資格商売と言われる所以である。
クレジットカードのゴールドカードを思わせる。

もちろん庵主も酔狂だからキキ酒師の資格を持っている。
庵主が取れるのだから軽い資格である。
居酒屋や酒販店を回ってみると
深くお酒を知っている人がいる。

そういう人の話をただで聞くほうがずっと勉強になることは間違いない。
映画学校というのがある。
映画の学校は映画館に決まっていると伊丹万作が書いていた。
映画学校は学校ごっこということになる。

そんな学校に行ってくだらないことを習うより、
同じお金を遣うのなら
映画館でたくさん映画を見れたほうが
ずっと役に立つというのである。

一理ある。
たが、庵主はキキ酒師の資格を
資格商売と思いながらも
その意義を認めている。

それなりにひととおり日本酒のことを
知ることができるからである。
これまでの日本酒の売り方があまりにも杜撰だったのである。
小売店の権益が保護されていたからである。

お酒の児童販売機がある。
子供でもお酒が買えるという機会である。
自動販売機と機械の誤変換をやってしまったが、
そんなものがあるということ自体おかしいということに業界は気がつかないのである。

保護にあぐらをかいて
お酒のことを全然勉強してこなかったからである。
いまでは酒販店より
呑み手の方がお酒にくわしいということが少なくない。

そういう危機的状態の中で
キキ酒師の資格は最低限の知識を
酒の販売に関わる人たちにたたき込む
いい機会なのである。

10万円という金額も頑張らないと損をするという金額である。
本気になって勉強せざるをえないというところがニクイ。
ただし、資格は取っただけでは何の役にもたたない。
現にいいお酒を呑んでいる人の実体験には適わないのである。
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by munojiya | 2005-06-21 23:53 | Trackback | Comments(0)