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見える男
中には、いるのである。
物事がちゃんと見える男が。
女にもいるのだが、
その直感はちょっと怖い。

たとえば庵主は
お酒を口にしたとき
すなおにそれをあじわうのである。
その時呑みたいと思っている味にくらべてうまいかそうでないかである。

10点満点で、今夜は5ぐらいのお酒が呑みたいと思っているときは
7や8のお酒は必要ないということである。
5のお酒が出てくれば一番いい。
しかし、3や4ではさびしいのである。

期待している味わいを越えていればそれでいいのであって
必要以上にうまい必要はないのである。
期待値が5のときには
それ以上に大きなものが出てきてもその時はそれを受け入れる心の準備がない。

だから期待通りのお酒がでてきたら
それだけで満足してしまう。
そのお酒はうまいのである。
ほかの酒はどうでもいいのである。

しかしである。
分かる女はそのお酒をしっかり評価してしまうのである。
そのお酒の位置が見えちゃうのだろう。
このお酒はここが弱い、あの酒に比べるとこれが足りないとわかっちゃうのがすごい。

庵主はそれがわからないのである。
うまい、と思ったらそれで十分なのである。
他の酒と比べる気持ちはさらさら起こらない。
しっかりそのお酒の味わいを楽しませてもらうのである。

はっきりいって庵主は
超うまいお酒や、とんでもなくすごいお酒はそれなりに出会ったことがあるのである。
そんな化け物みたいなお酒と普通のお酒を比べてもしかたがないではないか。
そっちのお酒が今ここにあるわけではないのだから。

そこにあるお酒をしっかり味わうことができれば幸せいっぱいなのである。
出て来たお酒にケチをつけてもその代わりがないのだから
そこで酒がまずいと嘆くだけ無駄というものである。
なにもわざわざ酒をまずくして呑むことはないのである。

という余裕のあることがいえるのも
東京にいるからのことである。
口に合わないお酒が続いたら
口直しのうまいお酒を置いているお店があるからである。

日本酒の世界は懐が広いのである。
奥が深いというべきか。
見える男といっておきながらお酒の話になってしまったが
本題は雑多な議論の中でその中の本物を見分けることができる男のことである。

数多くの時間潰しでしかない論議の中で
肝心なことはこれだと指摘できる能力をもっている男のことである。
お酒でいうならばその本質を知っている男のことである。
酒は呑めなくても、お酒の本質を見抜くことができる男のことである。

もちろんその周辺のあれこれを語れるからお酒は楽しいのだが、
その本質を知らないというのはくやしい。
わからないというのはかなしいのである。
そういう物事の本質が見える男がいるのである。
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by munojiya | 2005-12-31 11:19 | Trackback | Comments(0)
135・250・350・500
タイトルの数字は
さらに1000・2000と続く。
缶入りビールの容量である。
それに大瓶・中瓶・小瓶が加わるとフルラインナップになるという。

アサヒの「スーパードライ」といえば
一世を風靡した、いや、いまもなお
日本のビール界で他を席巻している大ヒット中のビールである。
そのマーケティングを社内で主導した松井康雄という人が本を書いた。

庵主の周囲の人に聞くと
「スーパードライ」をけなす人が多い。
現に数多く売れているビールに対して
あんなビールはビールではないとさえいうのである。

そういう声はあっても多くの日本人が支持する味のビールである。
コクがあってキレがいい、ビールである。
瀕死の状態にあったアサヒビールを蘇(よみがえ)らせたビールである。
その時なにが起こったのか、知りたくなるではないか。

本の題名は「たかがビール されどビール」である。
たかが野球、されど野球と言ったのはたしか池田高校の蔦監督だったと思う。
その言い回しは重宝とみえてよく転用されている。
ついにビールにまで。

それまでの劣勢を挽回して
いけいけどんどんになってくると
アサヒビールの社内の雰囲気がみるみるよくなっていったという。
そのマーケティングを打ち立てたのが松井康雄だという。

それをやったのは俺だとその本で書いている。
エプローグにはそのヒットメーカーを排除した会社に対するグチが綴られている。
忠誠心を無下にするような会社の仕打ちが許せないという思いが、
すなわち会社に対する憤懣やるかたない思いが、一気にこの本を書かせたのである。

会社勤めで
自分がこの会社になくてはならない存在だと思うようになったら
その人はもう必要がない人なのだという。
そういう人がいなくなっても会社はぜんぜん支障がないということである。

アサヒビールはいいことをしてくれた。
そのおかげで
いま飲んでいる「スーパードライ」の正体が
明らかにされたのである。

その本によると
全飲み手の10%でしかないヘビーユーザーが
全ビールの50%を飲んでいるのだという。
それにつづく10%のミドルユーザーが全ビールの25%を飲んでいるという。

すなわち20%の人がなんとビールの75%を飲んでいるのだという。
だからヘビーユーザーの10%の好みを変えることができれば
他社のビールから自社のビールに大きく切り換わることになるのだという。
なるほど、と感心することが書いてある本なのである。

もっともそれを知っても「スーパードライ」のようなヒットは作れないという。
また、いくら市場調査をしても売れるビールは見えてこないという。
市場調査でヒット商品が作れるなら世の中はヒットビールだらけになるはずだ。
というのもビールの飲み手は自分が飲みたいビールがわからないからである。

飲み手には意識しているニーズと無意識下にあるウォンツとがあって
ウォンつはいくら調査しても表面にでてこないからである。
ヒット商品はヒットメーカーの緻密な分析に基づいて作られるものであり、
しかも自信をもって実行した仕掛けによって初めて生まれるものだからという。
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by munojiya | 2005-12-30 23:03 | Trackback | Comments(0)
以徳報怨
以前書いたことであるが、
世によく喧伝されているが(また馬から落馬をしてしまった)、
その出典がみつからないという言葉がある。
たとえば寺田寅彦の「天災は忘れたころにやってくる」である。

以徳報怨。
徳(とく)をもって、怨(うら)みに報( むく)いる。
あんたの悪事はすべて水に流しましょうという、寛恕の言葉である。
日本人の言葉ではない、中華の人の発言である。

蒋介石が言ったという。
先の戦争で、
日本人は支那の大地で鉄砲や大砲をぶっ放したものだから
その弾で何人もの現地人が殺されたのである。

家族や恋人を殺した日本兵を恨むのは当たり前である。
外国の軍隊が自国の国内に勝手に入って来て狼藉を働いたら怒るのは当然だろう。
日本はそのころアメリカとも戦争をしていて
そっちの方であっさり負けてしまったのである。

そのために
大陸に展開していた日本軍も撤退することになったというわけである。
そうなったら皇軍(日本軍のこと)の戦(いくさ)に大義があろうと、
皇軍はすでに逃げ帰る兵である、それまでの暴虐の怨みをはらさずにおけようか。

それを、
当時混乱の支那を治めていたと自称する蒋介石が
その罪を問うことなく
皇軍の兵士を親切にも日本に送り返してくれたのである。

そのときのキャッチフレーズが「以徳報怨」である。
日本人は涙して悔いたのである。
誤解していたのである、支那の人は心が広いと。
その言葉も蒋介石が言ったということが確認できないという。

あとから精算してみたら、
戦争の賠償金よりも
台湾や満州で没収された日本人の財産の方がずっとずっと多かったというのである。
支那人にかつがれたのである、当時の日本人は。

お米はお百姓さんが八十八度の手間をかけて作ったものだから
一粒たりとも粗末にしてはいけませんよ、
というのが日本人の躾け(しつけ)の第一である。
朝食をパンですませる人が多くなってから躾けができなくなったのである。

ところで
米は本当に88段階の手間をかけて作られているのだろうか。
米という漢字からひねり出した日本人の頓智だろうと思われるが
お米を作っている人にそのあたりのことを教えてもらいたいものだ。

元気の気という漢字は以前は氣と書いた。
气の中はメではなく、米だった。
だから日本人の元気の源は米を食うことなのだという、
農協の宣伝文句みたいな説がある。

それがいまは米の部分がダメのメの字に変えられてしまった。
日本人の元気をそごうという進駐軍(GHQ)の日本占領政策によるものだという。
でも一々米と書くのは面倒くさいからコメのメにしたのだともいえる。
さらに米を排斥してしかも×にしたのは排米の意志を暗に示したものだともいえる。

気の本体はキという音にあるのに文字を先に出されるとついそれを信じたくなる。
米造りは実は60手間ぐらいでできるのだという。
残りの手間数はというとそれにお酒を造るときの手間を加えると88になるという。
すなわち、お酒を呑む人こそが一番お米を粗末にできない人なのである。

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お酒造りの手間を加えて88になるという話は、庵主が蒋介石が言ったというホラ話に真似ていま庵主が作ったデタラメですから信用しないでください。
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by munojiya | 2005-12-29 22:29 | Trackback | Comments(0)
ウカールの季節
カールというスナック菓子がある。
庵主の定番である。
そのカールがこの時期には
ウカールという名前で売られている。

「試験に受か~る
さっぱり塩のうすあじ」のカールである。
本来カールはチーズをまぶしたものである。
ウカールを食べても不合格になった人にはそれはしょっぱい味なのである。

ウカールの袋の裏には
「カールでウカッタ」という志望高校に合格したお礼のハガキが印刷されている。
さらには、「カール合格神社」で合格祈願してもらおう、と
激励あり、神頼みありという至れり尽くせりのサービス付きである。

この時分、
ウカールは受験生の力強い味方なのである。
ならばウカールにあやかってお酒でもそれができないかと思ったが、
さすがに合格神社つきのお酒というのは販売できないのが惜しい。

お酒は子供には売れないからである。
ならぱ親に売るというのはどうだろう。
あなたのご子息を志望校にいれる酒、というキャッチフレーズである。
ご子息の大願成就のために呑む縁起のいいお酒というわけである。

合格祝いの前祝いにうまいお酒を呑みましょうというわけである。
あるいは合格祝い用の高いお酒というのはどうだろう。
合格祝いにはその喜びをいっそう大きくするいいお酒を呑んでお祝いしましょう
というわけである。

ふだんは質素なお酒を呑んでいる人でも
そういう時には奮発していいお酒を呑んでもバチはあたるまい。
うまいお酒を詰めた合格祝い酒を相場より少しは安く売り出してくれるとうれしい。
そうなったら庵主はそういうお酒を見逃さずにちゃっかりそれを買って呑む。

日本の予算制度は4月始まりだから、
学校の学期もそれに合わせるために
この厳寒の時期が受験勉強の追い込みということになる。
身が引き締まるのである。

寒いから体がすくむだけか。
寒さでこごっている体をほぐすには
お酒にまさるものはない。
ただ、体もほぐれるが、頭の中までほぐれてしまうから勉強にならないのであるが。

しかも子供には呑ませるわけにはいかないから
残念なことに受験勉強にお酒は実用的ではない。
厳寒といえば
いまお酒造りは最高潮である。

この寒さの中で着々とうまいお酒が醸し出されているかと思うと
ワクワクしてくるではないか。
日本酒は年々うまくなる今なお進化し続けている不思議な酒である。
これまで呑んだお酒の中でこれが一番うまいと思ってもそれは甘い認識である。

つぎにはそれを越えるうまいお酒が待っているからである。
上には上があるという言葉を庵主はお酒を呑みながら実感しているのである。
とはいえ普段呑むお酒はそういうお酒ではない。
もっと気さくなお酒でなくてはいけない。

庵主が求めるのはそういう気さくなお酒であってしかもうまいお酒である。
うますぎるお酒は必要ない。
もっといいお酒を、もっとうまいお酒を、といたずらに美酒を追い求めるのは
ウカレールといったところか。
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by munojiya | 2005-12-28 23:32 | Trackback(1) | Comments(0)
失礼なことなんかしないでください
燗酒を注文する。
ややあってお酒に燗がついて出てくる。
給仕が「失礼します」といってカウンターに燗がついた徳利を置いてくれる。
庵主はいつも、客に失礼なことをしないでくださいと心の中でつぶやいている。

北海道で旭川から軽快なデザインの特急ライラック号に乗って
終点の札幌に近づくと車内放送が流れる。
「ご乗車お疲れさまでした。まもなく終点の札幌です」という。
それを楽しむために高い汽車賃を出して乗った特急列車である。

「特急ライラックの旅はお楽しみいただけましたでしょうか」といってほしい。
通勤列車じゃないのだから。
北海道のJRは、わずか2時間足らず列車の旅を疲れさせてしまうような
つまらない特急を走らせているのかと苦笑してしまう。

客を楽しませるという気持ちが不足しているからである。
わざわざ東京から北海道に出かけて楽しい特急に乗りに行ったのである。
ああやっぱり北海道に来て楽しかったというイメージづくりをしてほしい。
乗って疲れるような特急なんか走らせるなというのは庵主のイヤミである。

ほんとうは
北海道の特急の旅は楽しいである。
言葉遣いをちょっと工夫してよというのが庵主の本意である。
それと同じように居酒屋やレストランの接客用語もつまらないのである。

給仕から、失礼します、といわれたら
高い銭を払って飲み食いに来ているのですから
失礼なことはしないでください、と答えたくなるのである。
せっかく大枚をはたいたのですから楽しく飲み食いをさせてください、と。

話は変わって、厳冬である。
寒いから外に出るときは外套を羽織ることになる。
その外套を掛けるところがないお店がある。
はっきりいって庵主が着ているコートは高級品である。

折って畳んで置くわけにはいかない。
きちんとハンガーに懸けてくれないと形が崩れる。
ところが、現実のお店はコートを置くスペースとか
広い化粧室が作れないというのが実情なのである。

そんな無駄なスペースを削ってでも
お店を広くしたいからである。
無駄なスペースは利益を生んでくれないからである。
その事情はわかった。

壁際に打ちつけたクギにハンガーでぶら下げてもいい。
だが、せめて、ハンガーはまともなものを用意してほしいのである。
洗濯屋から戻ってくる針金のハンガーみたいな代用品では困る。
ちゃんと洋服を下げることのできるものを使ってほしいのである。

またまた話が変わって、
最近店内にディスプレイがあって映像が流れているお店が目につくようになった。
庵主は映像が大嫌いだから
その手の流行には辟易しているのである。

とにかく映像はうるさいからである。
落ち着いて酒を呑んでいられない。
はいったお店の中にテレビが置いてあっただけでしまったと思うほどである。
カラオケのある店、映像が流れるお店は庵主は苦手である。

あと庵主が一番苦手なお店は
出て来た酒祭りに呑めるお酒がないお店である。
「クボタ」とか「ハッカイサン」とか「コシノカンバイ」が並んでいたら
愕然としてしまうのである、高そうで。
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by munojiya | 2005-12-27 22:53 | Trackback | Comments(0)
硯家の黒板
著作権という発想がある。
肉体労働にはそれなりに対価が支払われるのだから、
独創的な頭脳労働に対しても妥当な対価を支払うのは当然という考え方である。
考えることは無形であるが、形のないものにも対価を支払おうというものである。

でも、前者はいやいやながらであり、後者は楽しんでやっているのだから
楽しんでやっていることに金を払うというのもなんだなと庵主は思うのだが、
というより、庵主の頭の中は他人の考えたことばかりしか詰まっていないから
他人の独創的な考え方を無断で使ってはいけないとなると困ってしまうからである。

まず、いま庵主が使っている日本語が
庵主が考え出したことではない。
思考するための基本的道具が
そもそも他人の発想なのである、先人の考えたことをなぞっているだけなのである。

人が独創的に造った考え方を無断で使ってはいけないといわれたら
独創がない庵主はいてもいなくてもいいということになってしまう。
それよりも見苦しいと庵主が感じるのは
天から授かった才能を自分だけの物として金を取るといういやしさを見るからである。

独創的とはいっていも
所詮それは天から授かった才能である。
あんたがやらなくても
他の似たような才能を授かった人がやる仕事なのである。

それを
さも自分だけの努力のたまものだとかいって
思い上がっているところが噴飯物である。
しかもその才能を決定するのはそれを受け止める人がいてのことである。

すなわち、才能は本人に帰属するのではなく、
それを評価する人がいて初めて成立するものなのである。
その才能を素直に認めた庵主の方に対価を払ってほしいと思うほどである。
酒がうまいのではなくて、庵主がそれをうまいと評価するからうまいのである。

新しい言葉を考え出した人が
その言葉を独創的な発想による成果だから
ただでその言葉を使ってはいけないとなったら
文化の発展は望めない。

昔の支那では漢字を知っているのはごく一部の人たちだけで
それを読めない人たちを
漢文を呪文のように使って支配していたという。
その結果は中国四千年の停滞があっただけである。

また他人の発想を使ってはいけないとしたらそれは文化の破壊行為なのである。
発展しない文化は衰退へと向かうからである。
と、長い前振りのあと以下全面引用である。
庵主がそれを見て気持ちが惹き付けられた「硯家」の店頭にある黒板書きである。

“蓬莱泉”『夢筐』ゆめこばこ 特別純米ひやおろし 愛知・関谷醸造
夢山水・チヨニシキ55%精米
日本酒度・酸度とも非公開
貯蔵用トンネルで自然熟成させました。650円

『墨廼江』すみのえ 特別純米 中汲みひやおろし 宮城・墨廼江酒造
五百万石60%精米
日本酒度+4、酸度1.6
「特別純米中汲み」を摂氏5℃低温熟成 650円

『杉錦』純米原酒濃醇山廃・ひやおろし 静岡・杉井酒造
滋賀県産玉栄55%精米
日本酒度マイナス8、酸度2.0
高濃度仕込みにより甘口で濃醇な味わい。 730円
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by munojiya | 2005-12-26 22:32 | Trackback | Comments(0)
日本酒の起源
右翼も左翼も
やくざも警察(官僚)も
組織の中身は同じで
いまはどこも学閥が仕切っているという。

そりゃそうだろう、
みんな日本人がやっているからである。
やくざ業界は朝鮮系の人が多いから
やることが日本人より荒っぽいとはよく聞くことである。

日本人は性格がおとなしいから(ということにしておくが)、
柄の悪い朝鮮人を嫌う人が少なくない。
俺は日本人だという優越感からというよりも
喧嘩しても絶対かなわないその自己主張の強さには辟易しているのである。

が、しかしである。
アメリカとの戦争に負けたときにその日本人を元気づけてくれたのは
力銅山(あれっ、このワープロには力道山がないぞ)ではなく力道山であり
美空ひばり(これは一発変換)ではなかったのか。

お二人とも朝鮮人と聞いている。
朝鮮系といったほうが正しいか。
いま大晦日の夜の人気番組は紅白歌合戦ではなくK-1とかいう格闘技である。
格闘技業界も朝鮮系が多いと聞くからKはコーリアの意味なのか。

朝鮮系の柄の悪さに対してなにをという反発がひ弱な日本人を奮い立たせてくれる。
放っておいたら衰弱しそうなひ弱い文化を
しっかり補強してくれているのは実は朝鮮系のたくましさなのではないか。
首相がいま皇室典範にちゃちゃを入れようとしているのもその一端ではないのか。

日本の文化といっても
最初の歴史書は漢文で書かれていることから
当時は支那系の人たちが仕切っていたのではないか。
漢文というのは支那の言葉だから日本人がじょうずに操れるわけがない。

地理的にいっても
日本人は、朝鮮、支那はもちろんのこと
北はロシアから、南はポリネシアから流れて来た人たちが混ざっている
雑種であると考えた方がいいのだろう。

雑種だから強いのである。
一本の糸だと切れやすいが、
何本かの糸を縒りあわせると
なかなか切れない紐になる。

日本の文化は実は純粋でないから
切れることなく連綿と続いているのである。
なかなか表には出てこない支那系とか
戦後ご活躍の朝鮮系もまたしっかり日本の文化を支えているということである。

たとえば天皇家の系譜などもかなり入り混ざっているように見受けられる。
歩列(このワープロ、天皇の名前も書けない)、いや武烈天皇などは
日本語がわからなかったという説を読んだことがある。
朝鮮から日本にやってきた天皇ではないかというのである。

庵主はその当時を知らないので真偽のほどはわからないが。
それが万世一系になって、日本人は単一民族だということになってしまうのだから
東京大学の国史学者は罪なことをしてくれたものである。
それはいまでも続いているから同じようなことをやっているということは想像に難くない。

日本酒造りも
そのノウハウは支那から持ち込まれたものではないか。
昔はそっちの方が文化が高かったからである。
いまうまいお酒が呑めるのはそのおかげさまなのである。
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by munojiya | 2005-12-25 23:49 | Trackback | Comments(0)
いいお酒とうまいお酒

いろいろなお酒があるから面白い。
中にはひどいものもあるがそれもまた下手物として庵主は好きなのである。
一方に神業とも思えるこのうえないお酒があって、
その対極にちゃんとチープ(日本語が思いつかない)なお酒があるということである。 

庵主はそういうお酒を一通り呑んで楽しんでみたいのだが
なんといっても酒量がないのである。
一番小さい日本酒グラスに2杯が限度である。
それ以上呑むとへたをすると猛烈な肩凝りにさいなまされることになる。

それでいつもうまいお酒から先に呑むものだから
それだけで限界に達してしまいその続きがないのである。。
下手物まで辿(たど)り着かないのである。
くやしいのである。

本物のお酒はうまいものなんだよという話をすると、
うまいお酒というはなんですかと聞かれることがある。
そんなものは自分で探し出せとは思うのだが、
庵主は人が悪いからちゃんと教えてあげるのである。

うまいお酒ではなく、いいお酒を教えてあげるのである。
うまいお酒はそう簡単には教えるわけにはいかない。
そういうお酒は量が少ないから教えても簡単に呑むことができないからである。
いいお酒ならいくらでもあるからである。

その中から自分の口に合ったお酒に出会ってもらうしかない。
初心者、といっては語弊があるが
まともな日本酒を呑む環境にいなかった人には
「本丸」でこんなにうまいお酒を呑んだのは初めてだといってくれる。

その前に甘いにごり酒があればなお効果的である。
あまいにごり酒とか微発泡のお酒は食前酒ならぬ酒前酒となるからである。
日本酒がうまいということがわかれば
その後は多少味わいにブレのあるお酒が出てきても大丈夫である。

特徴的な味わいのお酒なら
それを個性ととらえてまずいとは評価しなくなるからである。
もっともその手のお酒しか置いていないお店に連れていくのだから
お酒には間違いはないのである。

うまいお酒があるということがわかってもらえば
あとはうまいお酒を教えるのではなく、
うまいお酒が呑めるお店を教えるのである。
それからは自分でお酒を体験してごらんというわけである。

いろいろ呑んで自分でうまいお酒に出会うしかないからである。
そうして美酒の海に船出させるのである。
そしてうまいお酒があったと聞いたら庵主はさっそくそれを呑みにいくのである。
口コミにまさる情報はないからである。

酒には二つの意味があって
一つはアルコール飲料としての酒である。
もう一つはそれを呑む場としての酒である。
いやその呑み方としての酒といったほうがいいかもしれない。

一言にお酒とはいうが、
そのどれを呑んでいるかということなのである。
この「むの字屋」では
その違いを考えながらお酒を味わっているということである。

だから一本のお酒なのにそれをいくつもの角度から味わっているので
たいしてお酒は呑んでいないのにいろいろな書き方をするものだから
「むの字屋」は延々と続くのである。
この世にお酒がなくなっても書けちゃうのである。 
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by munojiya | 2005-12-24 23:44 | Trackback | Comments(0)
男たちの大和 セットはでかいが大和の大きさが見えない
庵主は泣ける映画が大好きである。
いま公開中の映画「男たちの大和/YAMATO」は泣ける。
映画館で年配のお客さんといっしょになって心地よい涙を流すのは気持ちいい。
涙、涙のストーリーはかつては大映が母物映画でやっていたことなのだろう。

笑いたいときは喜劇と呼ばれる映画を、
スカッとしたいときは他愛のないドンパチ映画を、
エッチになりたかったらエロ映画を、
そして涙したくなったらこの手の感動映画を見るのである。

だから庵主の中では文部省(いまは文科省か)特選映画でもエロ映画でも
映画になんら区別はないのである。
まず見てみるということである。
そしてお酒と同様におもしろい映画とそうでない映画があるということである。

映画の面白さは長い映像を見た後の
われながらこんな長い時間をよく堪えることができたものだという
完走感にひたることができることにある。
だから最後の最後までじっと座席でフィルムが終わるまで坐っているのである。

忍耐、と思ってロールクレジットが終わるのを待っているのである。
役者や裏方の名前が延々と流れるのを見ているのはつらい。
知っている人が出てこない他人の名前の羅列なんかに興味がないからである。
しかもそのときに流れる音楽がつまらなかったら目も当てられない。

ところが「男たちの大和」はこのときもまだ映画はつづいているのである。
本篇には出てこなかった映像が、大和が、そこで映し出されるのである。
そこに流れる久石譲の音楽がまたいいのでもう一泣きできるのである。
これをやられたらだれもがきっと大和に親近感を感じてしまうだろう。

戦艦大和は呉を出航してその翌日には沈没してしまった「不沈戦艦」である。
海軍はあんな高いおもちゃをたった2日で海の藻屑にしてしまったのである。
庵主が関係者なら恥ずかしくて表に出したくない苦い記憶である。
信濃を就航10日目に沈めてしまったのもその海軍である。

大和3姉妹(大和・武蔵・空母に改造された信濃)はみんな不幸な艦だった。
庵主は大和も好きだが姉妹艦の武蔵の方が少しだけ好きである。
武蔵に乗り組んだ水兵の渡辺清が書いた本を先に読んだからである。
「海の城」「戦艦武蔵の最期」である。

強い敵とまともに喧嘩をしたら勝てないということをしっかり教えてくれるのである。
戦争に負けると60年後に涙なしではみられない映画が見られるということである。
日本人の技術の粋としての大和の誇りはいまなおけっして沈んではいないのである。
3333名(未確認数)の乗組員が命を懸けてその誇りを守ってくれたからである。

エンドマークのあとにクレジットが出るという。
「多くの方達が命を懸けて守った日本に、今私達は立っている」(伝聞による)と。
が、左翼団体からの抗議で劇場公開時にはそれをカットしてしまったという。
庵主はそれが見たかったのに、たしかに劇場版にはその部分がなかったのである。

洋画には原語版と日本語吹き替え版とが用意されていることがあるが、
この映画もそれがカットされていない完全版とカット版を用意してほしかった。
その一行があれば「佐藤純彌、ヨシッ」とスクリーンに向かって声をかけられたのだが。
見たあとにちょっと物足りなく感じたのはその決めのホーズがなかったからなのである。

ことこの映画に関しては長い長いロールクレジットは
なくてはならないのである。
映画を見ながら滂沱の涙を流した後始末に必要な時間だからである。
これがないといい大人たちが泣き顔で映画館を出ることになるからたまらない。

それにしても「左翼団体」というのは威勢がいいのである。
その勢いで、人畜有害のたばこ同様にアルコールも規制せよと声高に叫べば
まずいお酒も一掃されることになるのだろうか。
映画は興行上の都合もあるのだろうが、それをうまくかわしたというわけである。

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庵主がこの映画を見た感想はホームページ「むの字屋」の「土蔵」の下の方にある「シネマで一杯」の中にあります。
現在と過去を行き来する映画の中のお酒は、現在のシーンで「さつま白波」がどーんと見えるように置いてありました。

大和のセットの大きさはわかりましたが、大和の大きさが見えない映画でした。
ところが、「男たちの大和」には映画になったシナリオの前に書かれた別のシナリオがあります。採用されなかった野上龍雄・井上淳一版です。雑誌「シナリオ」の1月号に掲載されています。

そのシナリオには大和の大きさがしっかり書き込まれています。
庵主は泣ける映画であればいいので、映画になったシナリオでも十分満足できましたが、できればこちらのシナリオで映画を見たかったと思います。
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by munojiya | 2005-12-23 23:25 | Trackback(8) | Comments(0)
「ふくろくじゅ」を呑む
これは日本酒の旗手ともいえる株式会社フルネットに対する注文である。
お酒の値踏みについてである。
秋田に「福禄寿」(ふくろくじゅ)というお酒がある。
かつては7000石を醸していたというが今は1200石である。

1000石蔵と言えば
庵主などはちょうどいい造りの蔵だと思ってニヤッとするのである。
造るお酒のすべてに目が行き届くのはそれぐらいの造りだというからである。
大手酒造メーカーのお酒は同じ日本酒だといっても実は別の酒なのである。

庵主は大手酒造メーカーが造った日本酒ははっきりいって呑めない。
もっとも庵主は人間ができているからその手の日本酒が出てきても
莞爾として盃を口に運ぶのである。
まずいといって貶(けな)したところでその酒がうまくはなるわけではないからである。

大手酒造メーカーのお酒と1000石蔵のお酒の違いは
たとえていえば車なら大型バスと乗用車の違いといったところか。
個人で大型バスを買う人はいない。
運転して楽しめるのは乗用車である。

乗客としてバスに乗るのも楽なので便利ではあるが
やっぱり乗用車のほうがおもしろい、それがいい車ならという条件がつくが。
庵主が呑めるのはその面白い方の、いやうまい方のお酒である。
1000石蔵が醸す味わいがあって個性が感じられるお酒の方なのである。

「福禄寿」、庵主は初めてその名前を聞いた。
地元では有名かもしれないが庵主にとってはまだ無名の蔵である。
その蔵とフルネット社の中野社長が出会ったのである。
そしてその蔵にキラリと光るいいお酒があったのである。

蔵はまだ若い常務が仕切っている。
そして杜氏もまだ若い。
いくつものお酒を発掘して世に出して来た中野社長は閃(ひらめ)いたのである。
この蔵の酒はうまくなる、と。

そこで、その蔵が鑑評会用に造った純米大吟醸と大吟醸を一升瓶につめて
2本セットにしてそれを100セットだけ先進的な呑み手に提供したのである。
いまその酒に出会えた人はいうなれば先駆者なのである。
はっきりいうとこのお酒を買う人はモニターなのである。

それは番外品ということで酒銘は「ふくろくじゅ」とひらがな書きになっている。
その売値が
なんと1本3150円(税込)なのである。
一升瓶の値段がである。

物には適正値段というのがある。
フルネット社は酒の安売り屋ではないのだから
そのお酒に相応(ふさ)しい値付けをしてもらわなくては困る。
鑑評会の酒は四合瓶で3500円から5000円前後で売られているのである。

それと同等の酒質なのに
このお酒はお買い得品だといって安売りをしてはいけない。
お酒の価値を正しく判断できないというのでは
ただ安く酒を売ればそれでいいのだというお酒がわからない酒販店と同じではないか。

いいお酒にはそれに相応しい値段をきちんと値踏みして
その値段で呑み手にその価値を納得させるのが本来の酒販というものである。
それが価値がわかるということなのである、価値を創造するということなのである。
「久保田」をバカ高値で売る店同様、いいお酒をバカ安値で売るのはみっともない。

フルネット社が用意した100セットは
広くは宣伝しなかったというのにあと十数セットを残すだけだという。
破格値の「ふくろくじゅ」の2本セットを買う人は心して買ってほしい。
この蔵のお酒を育てる責任も同時に買わされるということだからである。
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by munojiya | 2005-12-22 22:22 | Trackback | Comments(0)