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散らかしますから
戦争は嫌でございます。
あれは散らかしますから。
三波春夫の言葉であるという。
三波春夫といえば富士山をあしらった天下泰平柄の着物を着て歌う国民歌手である。

紅白歌合戦がつまらなくなったのは
国民歌手を出さなくなってからである。
だれがそんなNHKに視聴料なんか払うものか。
元NHKのプロデューサーで私も払っていませんという人もいる。

庵主の庵にも定期的に視聴料を取りに集金人がやってくる。
仕事熱心なのである。
折角足を運ばれたのに残念なことは庵主はテレビを持っていないということである。
それを支払う栄誉に与(あずか)れないのである。

いまどきテレビもないのは貧乏の極みだと思っていたが、
時代は動いて今は
部屋にテレビを置かないということが心に余裕のある人の生活だということになってきた。
心の余裕はともかくその分部屋のスペースに余裕が出ることは間違いない。

テレビなどはスポーツの実況中継ぐらいしか見るものがないが、
スポーツやクイズ番組に入れ込んでいる階層はなんだからという評価なのだろう。
庵主はそこまでは言わないが、
日常生活に映像がはいりこんでくるのが嫌だからテレビを手近に置いていない。

街中の街頭ビジョン(アルタのビルにくっついているあの大きなスクリーンのこと)が
気に食わないのはそのせいである。
ホームページで今はやりのフラッシュ(動画)が使われていると
そんなものは見ないでスキップ(ボタンをクリックして飛ばす)してしまう。

人に文章を読んでもらおうと思うのならちょろちょろ画面を動かすなというのである。
もっともそれをやるとウェブページを制作しているところは儲けの材料にできるので
食っていくためにいろいろ工夫されて商売熱心ですねと事情は理解するのだが。
だから商売熱心なNHKの集金人に対する庵主の応対は丁寧なのである。

三波春夫は国民歌手という認識でとらえているのでは勿体ない人である。
舞鶴の引揚記念公園に行くと
記念館があって
その中にあるテレビでは三波春夫の話が流れされている。

戦後、シベリアに抑留されていたというのである。
その経験談、というより好きでやったわけではないから体験談といったほうがいいか、
棄民体験を語るというのが一番相応しいかもしれないが
その出来事をいまは笑顔で語っている(もちろん録画である)。

戦場で初めて人を殺すことは簡単だという。
最初は撃てないという。
自分が撃った弾が敵に当たったら相手は死ぬからである。
その時から人殺しの汚名がついてまわるから後味が悪い。

戦場だからその時の正当な戦闘行為での殺人は罪を問われないことになっているが
しかし、人を殺したという事実は当人には死ぬまでついてまわるからである。
でも簡単に敵(敵なら、ですよ)を殺せるようになるという。
隣で一緒に戦っていた戦友が敵の弾で倒れたら一気に敵愾心がわいてくるという。

こんちくしょう、と思って
敵が一気に憎くなるという、心底から許せないという気持ちが沸き起こってくるという。
現場の経験者である三波春夫が別のところでそういっていたから本当なのだろう。
そして、戦争は散らかすから嫌いだというのである。

酒呑みも
お酒を呑んだ後のあとかたづけがきれいでなくてはならない。
そうでないと
酒呑みは散らかしますから私は嫌いですといわれてしまうので。
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by munojiya | 2006-01-31 23:18 | Trackback | Comments(0)
お酒を2杯呑む
庵主はお酒を2杯しか呑まない。
うまいお酒ならそれで十分だからである。
しかも一番小さいグラスで注文するから
お店にとってはちっとも売上に貢献しないシケタ客ということになる。

酔っぱらってまで
酒は呑みたくないといったら
酒呑みの先達から
馬鹿、酒は酔っぱらうからうまいんだよと窘(たしな)められた。

お酒の量が呑めない理由の第一は
すぐ飽きるということである。
コップ一杯の一合酒が出てきた分には呑みきれないのである。
呑んでいる途中で飽きてしまうからである。

だから小さいグラスで2種類のお酒をもらう。
さすがに1杯だと物足りない。
これは絶対量が足りないのである。
そして違うお酒を呑み比べないと味が覚えられない。

その日の一杯目のお酒は
冷えて出てくるとなんでもうまく感じるものである。
それがはずれの酒であっても
2杯目にうまいお酒を呑めばいいという心の余裕がある。

1発勝負だと大外れのときは目も当てられないのである。
うまいお酒が呑みたいという欲求不満が残るからである。
口直しにいいお酒を呑もうという気持ちになるから
かえって酒代が高くつくことになりかねない。

そして2杯のお酒を呑む順番も大切である。
たとえば、強烈な個性を発揮しているお酒を先に呑んで
そのあとに静かなトーンの味わいのいいお酒を呑んだのでは
あとのお酒のうまさをしっかり味わうことができない。

その辺の順番はめんどうくさいからお店にまかせてしまうのである。
お酒頂戴、
一番小さいグラスで2杯だけ、
好き嫌いがないからなんでもいいので任せます、と。

理想的な形で2杯のお酒が出てきたことがあった。
本当はその2杯で庵主は十分に満足だったのである。
一杯目は
「明眸喜久盛のしぼりたて生原酒」(めいぼう・きくざかり)である。

搾りたての酒だからまだ味が粗いかと思ったが
それがまろやかな酒質だった。
そして一口呑んでうまかった。
アルコール度数が17~18度と高めだったからである。

庵主の癖で
それぐらいのアルコール度数のお酒がうまいと感じるからである。
そんなに高いランクのお酒ではないが
味にインパクトがあるから酒を呑んだという充実感が残るからである。

2杯目に呑んだのが「瀧澤」(たきざわ)の大吟醸である。
鑑評会クラスのお酒である。
これはうまいに決まっている。
うまいというより安心して呑めるいいお酒なのである。

その品のよさにうっとりしてしまった。
香りもうまさも押しつけがましくないのがいい。
実はこのあとも「瀧澤」シリーズが続いたのだが、
それから先はグラスに3分の1だけ味わわせてもらったのである。
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by munojiya | 2006-01-30 21:29 | Trackback | Comments(0)
満腹感はあっても満足感がない
食事をして量は十分に食べているのだが、
食後に、喰ったー、という満足感が残らないことがある。
頭では食事量はこれだけ食べれば十分だとは分かっていても
体が納得しないということがである。

もっと食いたいという思いが押さえられないことがである。
食事をして満腹感を感じるのは
それによって血糖値が上がったときだという。
食事をしてからそうなるまでに20分ぐらいかかるという。

だから食事をしても
食べてすぐには満腹感が得られないのである。
かえって
食事をとるという行動が食欲の増進を促してしまう。

タイムラグ(時間差)があるということである。
お酒もそうである。
酒を呑んだ直後はすぐには酔いがまわらない。
その時点で呑んだお酒がうまかったときにはいくらでも入るのである。

ところが
10分ほどして
酔いがまわってくると
呑み過ぎていたときにはその回復に手間取るということになる。

庵主がお酒を呑めるのはその約十分間なのである。
酔いが回ったら
自慢じゃないが
もう酒の味なんかわからない。

冷や(ひや)というと
冷蔵庫で冷やした冷たいお酒を思い浮かべるが、
冷やとは常温の酒のことである。
温めた酒が燗である。

冷やだの燗だのという言葉は
落語に出てくるのだから江戸時代には使われていた言葉である。
冷やといったら
当時は冷蔵庫を持っている人なんかいないから常温のことをいうのである。

冷や酒と親の小言は後になるほど効いてくるという。
親の小言はともかく
冷や酒が効いてくるというのは
燗で呑むより早いピッチで呑めるから後の酔いもその分きついというわけである。

お酒も
庵主の場合、規定の2杯を呑んだあとに満足感が残らないことがある。
アルコールの絶対量はその2杯で十分足りているのである。
しかしうまい酒を呑んだという満足感が残らないということがである。

いわゆる水のようなお酒とか、
淡麗辛口の悪口をいっているのであるが、
あるいはまずくはないがうまくもない印象にも残らない普通酒とかを呑んで
2杯とも庵主の好みに合わないお酒が続いたときがそうである。

そういう時にそなえて
庵主の場合は一発大逆転用として呑むお酒のために余裕をとってある。
すなわち、
3杯目までは心して呑めるように酒量に余裕をもたせてあるというわけである。

満腹感と満足感がイコールであるのが望ましいが、
満腹になっても満足感がないときには
それを満たしたいために人はわかっていても暴食という狂気の行動に走る。
お酒でそれをやると身の破壊につながるから庵主はまずいお酒は呑まないのである。
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by munojiya | 2006-01-29 21:49 | Trackback | Comments(0)
ポン酒も苦手だな
「週刊読売」という雑誌があった。
いまは「yomiuri weekly」とかに誌名が変わっている。
その「週刊読売」を
「週読」(シュウヨミ)と呼ぶ人がいた。

編集部に電話をかけると
「はい、シュウヨミです」と出る。
そのシュウヨミという言い方が気に食わないと書いていたのは某である。
この場合の某は庵主の記憶が曖昧なため。元読売の塩田丸男だったかもしれない。

やっぱり某はいけない、品がない。
書き直すことにする。
そのシュウヨミという言い方が気に食わないと言ったのはたしか塩田丸男だったと思う。
氏は元読売新聞の社員で、そんな下品な言い方をせずにきちんと週刊読売と言えという。

自分の会社の名前を略するのはみっともないという美意識である。
トヨタの社員が、
「はい、こちらヨタです」なんて言ってたら
会社の品性が疑われる。

もっとも最近の会社名はやたらと長いものがあるから
そうはいってもいられない場合があるが。
株式会社ソニー・クリエイティブプロダクツ。
庵主はためらわず、ソックリプロと呼んでいる。

ワープロで出て来ない漢字を使った酒銘なんか付けるなというのは
庵主の主張である、いや都合である。
いたずらに長い社名も迷惑である。
三菱東京UFJ銀行などは、庵主は寿限無銀行と読み替えているほどである。

おっと話はシュウヨミだった。
「日本カメラ」という写真雑誌は「ポンカメ」と呼ばれている。
だから「日本酒」をポン酒と呼ぶ人もいるのだろうが、
庵主はそのポン酒という呼び方が嫌いだ。 

なぜかは上に書いた理由による。
美意識による。
日本はニホンと読む場合とニッポンと読む場合がある。
どっちが本当なのかが心配で夜も眠れなくなる人がいるかもしれない。

どっちでもいいのである。
日本はいいかげんだからである。
そもそも本がいけないのである。
ここに徳利(とっくり)がある。

それが1本ならポンである。
2本ならホンである。
3本ならボンなのである。
ポンになったり、ホンになったり、ボンになったり変幻自在に変化する。

お酒を呑むときに
お銚子で1ポンしか呑めない貧乏人のことを
ポン酒だね、とからかったものか。
自分からそれを口にするときは零細酒呑みだと謙遜しているのかもしれない。

自分が書いた本を謙遜して拙著と書いたら、
若い読者から先生の拙著をおもしろく読ませてもらいましたという手紙がくるので
以後、そう書くのをやめたという著者がいた。
ポン酒がもしそういう意味なら庵主の精神年齢はとっても若いということになる。

呑むときもまた
1杯はパイで、2杯はハイで、3杯はバイになる。
だから、いつも2杯しか呑まない庵主のお酒の呑み方は、
呑み方だけいえばハイクラスなのである。
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by munojiya | 2006-01-28 23:30 | Trackback | Comments(0)
野田某
ある人を話題に取り上げるとき、
フルネームがはっきり記憶にない場合などに
たとえば小泉某と書くことがある。
そういう書き方はなんとなく品がないというのが庵主の印象である。

いかにもその人を馬鹿にしているか
軽蔑しているような気分を感じるからである。
しかしそのような書き方をすると跳ね返って
それを書いた人の品性をいかがわしく思わせる効果がある。

小泉総理の悪口をいうときに
政治家小泉某の発言は聞くに堪えないと書いてあるのを読んだら、
その書き手の感性も似たようなものだと感じるからである。
ホリエモンが逮捕されたときに昔の光クラブ事件と似ていると書いた人がいる。

その時の主役が東大の学生だった山崎某である。
と書いている。
これは多分その名前を失念したものだろうが、
文章を人前にさらすのならいただけない。

いまどきならネットで検索すれば
それが山崎晃嗣(やまざき・あきつぐ)だということはすぐわかるからである。
手抜きなのである。
みっとないと庵主は思う。

もっともネットで検索すると
ほんとうかどうかわからないが
池田大作や土井たか子の本名まで出てくるから
そんなものはあてにしないという冷静な態度なのかもしれないが。

芸能人などの噂をとりあげているブログなどでは
悪口にはよく伏字が使われる。
○江○文がついに逮捕された、という具合である。
しかもご丁寧につぎの行には堀○貴○となっていたりする。

だれにでも分かる伏字である。
ソニーの悪口を書くときに
S○NYと書いて、
これって伏字になるのかと自問自答しているブログもあった。

ほんとにヤバイことを言うときは
○○○○のバックには○○○という背景があるとか
○○○○の製品の初期ロットには○○が多いといったふうに書くものである。
わかる人にはやっぱりと分かるがそうでない人にはわからなくてもいいからである。

庵主の場合だと
具体的な銘柄を思い浮かべてお酒の悪口をいうときは○○○と書いている。
一つの文章の中でそれと異なる銘柄をあげるときはそれを△△△と書く。
これはもちろん3文字の酒銘ということではない。

それはそのお酒の悪口ではなく、
酒造りの姿勢に対する悪口であることが多いからだ。
庵主は人間ができているので
どんな悪い酒でも平気で呑めるからお酒には文句はいわない。

伏字といえば戦後の進駐軍は徹底的に検閲をやって、
進駐軍にとって少しでも都合の悪い部分は○や△にするのではなくて、
その文章をそっくり削除させたという。
その時に検閲に協力した日本人にはきちんとけじめをつけさせるべきだという声がある。

タイトルの野田某は
小松左京のSF小説「日本アパッチ族」に出てくる登場人物の名前である。
これはこれでいいのである。
某(ぼう)というのがその人物の本名だからである。 
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by munojiya | 2006-01-27 22:29 | Trackback | Comments(0)
テンポイント
テンポイントといえば
そういう名前の競馬馬(けいばうま)がいたことを思い出す。
名前の由来は
活字の大きさである。

そのころの新聞の文章は、8ポイント(文字サイズ)で印刷されていたが、
せめて、10ポイント(テンポイント)の活字で
新聞に載るぐらいの活躍をしてほしいという願いをこめて、
テンポイントと命名された、とある。

テンポイントの活字という意味なのである。
活字の大きさは
日本なら、号数活字という体系が古い。
新しくは写植の級数活字という体系がある。

英文活字なら
ポイントである。
1ポイントは0.375ミリだから
10ポイントは3.75ミリ角の活字である。

正しくいうと英文活字の字面は日本の活字と違って正方形ではないから
文字の上下の長さということになる。
日本文字の場合はその大きさの正方形となる。
もっとも活字の大きさと文字面の大きさも違うから文字面は少し小さくなる。

だから6ポイントというと
2.25ミリ角の小さな活字ということになる。
読むときにはそれはちっちゃな文字にしか見えないということである。
それが「未成年者の飲酒は法律で禁止されている」旨を表示する文字の大きさである。

表示というのはなんのためにするのか。
それがはっきりわかるように示して注意をうながすためである。
それなのに人目につかないような小さな文字で表示するというのは
なにか後ろめたいことがあるのかと勘繰ってしまうのである。

未成年者の飲酒防止に関する表示基準によると
『(酒類の容器又は包装に対する表示)
1 酒類の容器又は包装(以下「容器等」という。)には、
「未成年者の飲酒は法律で禁止されている」旨を表示するものとする。』とある。
   
『2 前項に規定する表示は、容器等の見やすい所に明りょうに表示するものとし、
表示に使用する文字は、6ポイントの活字以上の大きさの統一のとれた日本文字とする。ただし、容量360m以下の容器にあっては、
5.5ポイントの活字以上の大きさとして差し支えない。』という決めなのである。
   
さらにつづく。、
『3 第1項に規定する表示は、次の各号に掲げる酒類の容器等については、
表示を省略しても差し支えない。
(1)専ら酒場、料理店等に対する引渡しに用いられるもの

(2)内容量が50m以下であるもの
(3)調味料として用いられること又は薬用であることが明らかであるもの』
という配慮まである。
そこまで配慮できるならもっと大きい活字で表示する配慮がほしかった。

ほんとうに
利用者の安全を考えて
注意書きを書くのなら
はっきりわかるように書くのが当たり前である。

少なくても10ポイント以上の活字を使って
文字の色を赤色で表示せよ。
一色刷りの場合はその部分に
ゴシック体(太い文字)を使えというのが庵主の主張である。
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by munojiya | 2006-01-26 23:48 | Trackback | Comments(0)
いい絵といいお酒の共通点
見た目はきれいだけれどどうでもいい絵と
一見するといいのか悪いのかわからないけれど
わかる人はだれもがその真価を認める本物の絵との違いはどこにあるのか。
それを知りたくて庵主は絵を見るようになった。

泰西の名画は本当に名画なのか(写真の代替品なのではないか)。
ピカソの作品はすべて傑作なのか(その絵をみんな本当にいいと思ってるのだろうか)。
何億という値段がつく絵と安い絵の違いはどこにあるのか。
その違いはどうしたらわかるようになるのか。

庵主は前に芸術は説得力であると書いたから、
絵画もまた口先一つじゃないかと思われたら困る。
たしかにあるのである。
その明らかな違いが。

最初に目に飛び込んで来るのは
見た目がきれいな絵である。
絵には具象画と抽象画とがあるということになっている。
庵主にいわせると両者は同じ物である。

ただ描かれている形を見るとその二つに分けることができるということである。
具象画というのは描いてあるものがなんであるかが常識の範囲で理解できる絵である。
人物だったり馬だったり富士山だったりする。
私は模写がうまいでしょうという自慢をしている絵である。

抽象画とは画家が感じた印象や溢れ出るイメージを色で表現した絵である。
だから同じ人物を描いてもピカソの後期の人物は抽象画ということになる。
庵主は絵を見るときに形を見ない。
その色しか見ないから、具象画も抽象画も同じというわけである。

その画面の色が醸し出す雰囲気が絵である。
その画面が訴えて来る気分が絵である。
その味わいに共感できる絵がおもしろい絵である。
色が明瞭な絵やよくわかる絵はかえってすぐ飽きるのである。

深みがほしいと思うのである。
これってお酒と同じである。
すっきりした呑み心地のお酒はきれいなお酒というが
すぐあきるのである。

もっと深みがほしくなる、毒がほしくなるといってもいい。
絵を見るときの感興と
お酒を呑むときの満足感とは
よく似ているのである。

本物の絵と
そうでない絵の違いはどこにあるのか。
本物のお酒と
そうでないお酒の違いはどこにあるのか。

じつはそれがよく似ていることに庵主は気づいたのである。
一つの世界をつきつめると
その物差しが
他の分野を理解するために利用できることがある。

いい絵とそうでない絵の違いはどうやって見極めるかというと
気分が落ち込んでいるときにその真価がわかるのである。
そういう時に心にしみてくる絵が本当に力を秘めている絵なのである。
それが本物の絵である。

お酒も同様に
心が落ち込んでいるときに心にしみてくるお酒がいい酒なのである。
呑んだ後に心が軽くなっていることが分かるお酒は本物のお酒である。
そのお酒には人の心をゆさぶる力が秘められているからである。
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by munojiya | 2006-01-25 21:44 | Trackback | Comments(0)
HPはホームページでないと言い張る人
それがまともなことなのかどうかはおいておいて、
いまではホームページをもっていない会社は
やる気のない会社かなにかうさんくさいことをやっている会社のような
印象を受ける時代になった。

ライブドアやヒューザーでさえHPがあるのだから
まっとうなことをやっている会社なら
その氏素性をHPで明示することは当然という感覚が醸成されてきたのである。
検索したことはないが山口組のHPはあるのだろうか。

さらには時代の趨勢はブログだとはやし立てて
個人の情報(←いやな言葉。おっと情に報いると読んでしまった)を
おおっぴらに公開することを奨励するような変な時代になってしまった。
とはいえ、さるやんごとなきご家族のブログがあったなら興味津々きっと大ヒットすることだろう。 

ホームページは実はホームページではないと言う人がいる。
それはウェブページの最初のページということだから、
いわゆるホームページ(ウェブページのこと)を
ホームページと呼ぶのは間違っているという指摘である。

とはいえ、
いまやウェブページのことをホームページと呼ぶ人が多くなったから
その叫びも蟷螂の斧である。
それで困ることがある。

本当のホームページをなんというかということである。
トップページとかフロントページとかいう人もいる。
庵主の場合は玄関とか扉ページと呼んでいるが、
それはまだ一般的ではない。

ホームページをHPと書くのは当然の表記である。
ところがそれに対して異をとなえた人たちがいた。
HPといのうはヒューレットパッカード社のことをいうのだから
HPをホームページの意味で使うのは間違っているというのである。

ヒューレットパッカード社はコンピュータ関係の会社である。
多分そのHPからお小遣いでももらったライター(書き手)が
HPの意向に沿って義理でそういう与太を書いていたに違いない。
残念、ホームページはHPでいいのである。

CDとはなにか。
パソコンの話をしているから最初に思い浮かべるのはコンパクトディスクだろう。
しかし名古屋の人なら
中日ドラゴンズである。

都会の女の子なら
それはクリスチャンディオールである。
庵主なら
キャッシュディスペンサーなのである。

そこで
クリスチャンディオールが
CDはクリスチャンディオールのことだから
他の意味で使うのは間違っているといったらもの笑いの種になるだけである。

すなわちHP社はアホだったというわけである。
程度の低い会社であることを世間に喧伝してしまったのである。
ワンカップといえば登録商標だから正しくは「大関」のカップ酒のことをいう。
だから他の銘柄のカップ酒をワンカップと言うのは間違っているということになる。

そこで大関が
他の酒造会社のカップ酒をワンカップと言うのは許せないなどと声高にいったら
HP社に匹敵するところだったが、大関は大人なのである。
ワンカップを一杯呑んでしばし思案をしたからである。
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by munojiya | 2006-01-24 21:32 | Trackback | Comments(6)
雪の降った翌日に「雪鶴」
東京に雪が降る。
そして「雪鶴」を呑む。
しかも2本。
一つは思いがけないうまさの本醸造、もう一本は1年熟成の大吟醸である。

高田馬場に「トリックスター」という知る人ぞ知る小劇場がある。
だれも知らない小屋である。
ショースペースといったほうがいいか。
大人のしゃべり場ということになっているがそれを秘密クラブという人もいる。

世の中の裏を知りたいという好奇心の強い人や
本物の芸人を生で見たいという奇特な人や
俺は世の中の本流ではないと気取っている人や
面白くなくては世間じゃないというフジテレビみたいな人が集まってくるからである。

出演者よりもそれを見に来る客の方がおもしろい。
古い言葉でいえば不良の溜まり場なのである。
不良というのは個性が強過ぎるということである。
だからその場内に醸し出される淫靡な雰囲気がなんともいえないのである。

その日のネタ(演目)はミスター梅介である。
ミスター梅介はなんと司法試験の受験生相手の予備校の講師をやっているという。
実は法律家なのである。
他に類がないその法律漫談がおもしろい。

ゲストがNHKのテレビ番組「お江戸でござる」の作者である滝大作さんだった。
一言でいえば、老獪なプロデューサーというのがふさわしい。
NHKは昔はその出演料があまりにも安いので日本薄謝協会とよばれていた。
その記者から放火犯が出ていまは日本放火協会とからかわれている。

一時は韓国のテレビ番組で受けていたので
日本韓流(ハンリュウ)協会とも呼ばれ、
視聴料を組織ぐるみで横領していたということがバレてとうとう日本犯罪協会というのが
今日の定訳となってしまった。

ギャクの世界では、
昔からあれは日本変態倶楽部だといわれていたからそれに戻ってしまったのである。
滝大作さんはそのNHKの空気を吸って生きてきた人である。
秘密クラブというのにふさわしいゲストなのである。 
             
ミスター梅介の独演会である。
この日の芸の中身は濃い。
2時間たっぷりの芸である。
見ていて圧倒される。

お正月興行ということで
いつもは出ない振る舞い酒に庵主が用意したお酒が
新潟のお酒「雪鶴」(ゆきつる)である。
今回はお酒をよく知っているお客が多い中でこれが好評だった。

庵主の生まれた北海道では
女の子に対する最高のほめ言葉は
めんこい、である。
かわいいと言い換えたのではそのニュアンスが伝わらない。

性格の素直な女の子のことであり、
気立てのいい女の子のことであり、
きちんと挨拶のできる女の子のことであり、
そして清楚な女の子のことである。

そばにいるだけで楽しくなるきさくな女の子のことである。
それがめんこい女の子である。
庵主が「雪鶴」の味わいを一言でいうと
それはめんこいお酒なのである。 
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by munojiya | 2006-01-23 23:17 | Trackback | Comments(1)
うまいお酒だけ呑みたい
そうはいかないのである。
かりにうまいお酒ばかり呑みつづけているとする。
そのうちそれがうまいとは思えなくなってくるからである。
客観的にはうまいことはわかるのだがその感動がうすれてくるということである。

うまいというのは
感動の一つである。
まずいもの、あるいはまずくはないがうまくもないものと比べたときに
初めて沸き起こってくる感動である。

うまいというのは
まずいとの比較によることもあるが
ある程度は絶対値でもある。
そしてまずいものと比べたときにより際立ってうまく感じるということである。

と書いてもよくわからないだろう。
例によって
書いている本人も何をいってるのかわからないからである。
話はお酒のうまさにしぼる。

比較によるうまさとは
二つ以上のお酒を呑み比べたときに
どれがよりうまく感じるかということである。
この中ではこれが一番うまいという場合である。

とはいえ、
その一番うまいお酒が自分にとってうまい酒かとなるとまた別のことである。
うまいと感じるお酒にはある程度のうまさがあることが必要だからである。
すなわち、それがうまさの絶対値である。

いくつかのお酒を呑み比べて
これが一番うまいといっても、
うまさの絶対値が、いいかえるならば
うまいと感じる味わいの水準を越えていないとうまいとは思えないのである。

うまさの絶対値は
いろいろなお酒を呑んでみて
自分の舌でもって確立するしかないが、
多くのお酒を呑んでいる人の評価はおおむね似たような所に収斂されるようである。

庵主の絶対値をいうならば「開運」の味わいである。
その味わいの水準を越えているお酒ならばそれをうまい酒だと思うからである。
なぜ基準が「開運」かというと、
東京なら百貨店に行けば容易に手に入れられる酒だからという理由による。

それを呑んでみてうまさの絶対値を実検することができるからである。
お酒を呑んでうまいと感じるのはこういう味わいにひたれるときだとわかるからである。
うまい酒といってもそのうまさにもまた違いがあるからお酒は楽しいのである。
そうなるとそれはまた比較の世界である。

うまいお酒を呑み比べることでそれぞれのうまさの特徴が見えてくるのである。
お酒を知るということはその違いがわかるということであり、
それは呑み比べることによって会得できることなのである。
だからお酒は長くつづけられる楽しみなのである。

映画「男たちの大和」で戦艦大和の大きさがよくわからなかったのは
その大きさを際立たせる小さい艦船が画面には出てこなかったからである。
そして映画になったシナリオとは別に作られていたシナリオにはあった
大和の艦内の大きさを示す場面がそっくり削られていたからである。

すなわち、比べてみないとそのすごさがわからないということである。
お酒も比べてみないとそのうまさがわからないのである。
だからまずいお酒を知らないでうまいお酒だけ呑んでいたのでは
その本当のうまさもわからないということなのである。
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by munojiya | 2006-01-22 23:50 | Trackback | Comments(2)