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普通酒の方がうまい蔵
一般的には特定名称酒のほうが
普通酒よりもうまい酒だということになっている。
数ある蔵元の中には
その蔵の特定名称酒よりも普通酒の方がうまいというところがあるのである。

長いこと三増酒なり普通酒を造り続けてきたために
そのノウハウは極まったけれど
造りが慣れていない特定名称酒の方は
いま一つそのうまさを引き出せないという蔵元である。

普通酒のいいところは
あえて、いいところ、と素直に書くが
値段が安いということである。
だれにでも買いやすいということである。

そのうえ
はっきりいってまずいから
お酒を呑む気がしなくなるので
アルコールの害毒から逃れることができるということである。

そういうお酒のおかげで
いま日本酒の需要はどんどん減っている。
それは考えようによっては
過剰な飲酒を抑制する方向に世間を導いているということである。

日本の映画が不振になったときに
映画人はよく口にしていたものである。
これからはお客さんが見たくなるようないい映画を作ることが
映画の落ち込みを防ぐためにはしなくてはならないことである、と。

問題はいい映画と一口にいっても
そのいい映画がどんな映画なのかが分からないということである。
映画を専門に作っている人でさえ分からないのである。
まさか文部科学省の推奨映画みたいな映画がいい映画であるわけがない。

そういう映画では客が入らないからである。
儲かる映画といい映画とは違うということである。
売れる映画とはどんな映画なのか映画人はそれを模索して今でも呻吟している。
それというのも映画は水物だからである。

当たるか当たらないかはやってみなければわからないという要素が大きいからである。
その点いい酒を造るということに関しては映画と違って苦労が少ない。
いいお酒は容易に造ることができるからである。
普通に造るとうまいお酒ができてしまうからである。

蔵を継いだ若蔵元が基本通りにまじめに造ったら
最初の造りからうまいお酒ができてしまったということをよく聞く。
仲間うちではそれをビギナーズラックだといってからかっているというが、
それが多発するということはそれは当然予想できる結果であるということである。

今の酒造りは昔と違って失敗のない酒造りなのである。
香りを出すことも今では容易になってかえってそれが鼻につくほどである。
普通酒と称して普通に造っていないからうまくない酒ができるのである。
きちんとお酒を造ればうまい酒になるのは当たり前のことではないのか。

できあがったお酒がうまくないというのは
わざとうまくないお酒を造っているということなのではないか。
もっともいいお酒なのに必ずしもうまくないということもまた確かなのであるが。
逆に安いお酒なのにうまいお酒を造ってしまう蔵があるということである。

でも本当にあるのである。
普通酒であったり、ときには三増酒であったりするのだか、
それを承知で呑んでみると意外とうまいということが。
それなりの酒質で庵主の気持ちをきゅっーと掴んでしまうお酒が。
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by munojiya | 2006-02-28 22:21 | Trackback | Comments(0)
無粋だねぇ
粋(いき)という言葉がある。(裏も表も知ってて、すっきり)
いなせという言葉もある。(それを志向して、すっきり)
堅気という言葉もある。(それしかできなくて、すっきり)
いずれもすっきりした振る舞いをいう。

すっきりを英語でいえばスマートである。
スマートには賢いという意味もあるという。
スマートは軽量級の身のこなしをいうのだろう。
かっこいいと訳しても当たりなのかもしれない。

粋の反対語は野暮なのだろうが、
野暮ということば自体が野暮なのでそういうときは無粋(ぶすい)という。
ダサイという言葉がある。
それ自体がダサイ言葉である。

名は体をあらわすというが、
ダサイという言葉がそれ自体ダサイのに似て
野暮もそれ自体がやぼったいのだけれどこれはこれで逆に粋な表現なのかもしれない。
野暮をからかっている雰囲気がよく出ているからである。

からかうということは
自分が対象に対して優越感をもっているということである。
そのかわり、からかった対象に対しては
体を張って守ってやるという気構えを持っていなければならないということである。

その気構えがある人をいなせという。
ない人を単にやくざという。
からかうことは愛情の裏返しでもある。
また野暮は人の振りみてわが振りなおせなのである。

うっかりすると俺も野暮なことをやっているなという自戒なのである。
もっとかっこよく振る舞いたいという美意識の発露である。
そう、美意識なのである。
美意識は差別の根源であるというのが庵主の自説である。

日本人はけっこう美意識には敏感なようである。
江戸時代にはやった浮世絵は
庶民の間にもてはやされたという。
いいものがわかるのである。

日本人は買い物においても商品に対する要求水準が高いといわれている。
外国人からすれば過剰品質ともいえる製品でないと売れないという。
いい仕事にはお金を出すという気風があるということである。
しかしそれにしてはお酒に対する要求水準が低いのが解せないのである。

というのも昔はお酒の選択肢が狭かったからである。
今と違って大吟醸だの吟醸酒といった品質の多様性もなかった。
日本酒のそのような変化に日本人の感覚がついていけないということなのである。
だから「むの字屋」は現代日本酒を布教するためにこうして尽力しているのである。

無粋といえば、
客が、お店の符丁を使うというのがその代表的例である。
お客が寿司屋でお愛想、あがり、むらさきというのがそうである。
業界用語を部外者が使うのはみっともない。

普通酒という言葉も業界用語だろう。
普通酒と表示して売られている日本酒を見たことがないからである。
普通酒を下さいといってお酒を買いにいく人もいないからである。
その言葉を平気で使っている庵主は呑み手なのに業界寄りなのである。

そういうのって無粋なんだろうなと
はたと気がつくのである。
素人はそういう符丁で呼ばれる酒には近づかない方がいい。
だから庵主もできれば普通酒には関わりあいになりたくないと思っているのである。

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庵主の自説に興味がある方はこちらもどうぞ。
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by munojiya | 2006-02-27 22:17 | Trackback | Comments(0)
実はひそかに差別の美味を呑んでいる
差別という言葉がある。
庵主は北海道で育ったものだからその実感がない。
言葉では知っているのである。
部落差別であり朝鮮人差別である。

北海道でもアイヌを和人とは違うと見る目はあったし、
子供の時分には在日朝鮮人の子供をからかって囃す言葉はあったから
北海道にそれがないというわけではない。
ただ幸い庵主はどちらかというと差別する側にいたからさほど感じなかったのである。

純正北海道人だったからである。
もともと北海道人自体が
本州のことを内地と呼んでいたほどだから意識的にははみ出し日本人ばかりなのである。
いや、従来の日本人の因習にとらわれないおおらかな日本人ということにしておこう。

北海道人同士で差別をしようにも
3代もさかのぼれば
みんな内地から落ちぶれて流れてきたか訳ありの人たちばかりだから
出生の違いでは差別のしようがなかったのである。

庵主が育った北海道の千歳市は戦前は海軍の航空基地があった。
戦争に負けたから進駐軍がやってきた。
アメリカ兵である。
黒人兵(クロンボ=当時用語。今でもそうか)もいた。

アメリカ占領軍(進駐軍=当時用語)はなんと昭和27年まで日本を占領していた。
戦争をしていたのはたった3年と9か月なのに
占領期間が7年間である。
これは何かあると考えるのは当たり前のことである。

家庭内暴力で暴れる子供が出たときに矯正施設の先生がいう。
こんな子供になるのに十八年かかったとしたら
直すのにそれと同じ時間がかかります。
じっくり時間をかけてなおしていきましょう、と。

アメリカの進駐軍がそれに要した時間は戦争期間の倍の7年である。
ということは事前にそれだけの時間をかけて日本に罠を掛けていたということである。
馬脚をあらわすというのはこういうことをいう。
真珠湾のずっと前からアメリカは対日戦争を遂行していたということである。

そういう性格(たち)の悪い人種を差別することをしてはいけないのか。
庵主はしちゃうのである。
そういう性格の悪い人間はきちんと差別しないといけないのである。
洗練されていない振る舞いを目にしたらきちんと差別するのである。

日本では現在でも差別することが公然と奨励されている世界がある。
商品販売の教科書には他を蹴落とすために差別化を進めようという言葉がよく出てくる。
差別はしちゃいけないのじゃなかったっけ。
しかし市場においては買い手は差別する能力を試されているのである。

商品を差別化して売りまくれというのも、
客が、すなわち人間が本質的に差別することを好むからにほかならない。
庵主は自分の美意識が差別に根ざしているということを知っている。
大人の振る舞いというのはそれを知っている上でそれをあからさまにしないことである。

美意識とは美しくないものに対して美しいものの優越性を高く評価する態度である。
美はそれを評価する人の心の中にその基準があるということである。
その判断能力が美の実体である。
そして人間は美をこよなく愛するのである、美人は無条件に肯定されているではないか。

美の本質は快感である。
うまいお酒をそうでないお酒に対して高く評価するのも美意識による。
庵主はより快感を味わえるお酒を指してうまいお酒といっては憚(はばか)らない。
つまり庵主はいま差別の真っ最中なのである、差別の美味に酔っているのである。

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差別には上に向かう差別と下に向かう差別があって、この記事は両者を混同しているような気配があるような気がしますが、いずれも自分は他人より優れていると感じることが快(こころよ)いという人間性に由来するという話ですからその点には目をつぶることにしました。その感情をくすぐることが商品の差別化だというわけです。商人はあざといのです。

トリノオリンピックのフィギュアスケート女子で荒川静香が人種差別の壁(偏見のこと)を乗り越えて金メダルを取りました。白人も少しは大人の振る舞いができるようになったか、荒川静香がよっぽど魅力的だったのでしょう。こういうときにテレビがないとそれを生で見られないからさびしいのですが、そのためだけにテレビを買うほどテレビには魅力はありません。うるさいからです。

今回の金メダルは上に向かう差別が下に向かう差別を凌駕してしまったというわけです。差別をすることはいけないとはいってもその能力がない人のことを馬鹿といって差別するわけですから人間の心は複雑なのです。そういうふうにできているのです。やっぱり大人の振る舞いしかないでしょう。そしていいお酒でも呑んで下に向かう差別を超克するしかないのだと思います。
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by munojiya | 2006-02-26 22:05 | Trackback | Comments(0)
日本人はラム酒が大好き
国酒という言葉がある。
この場合の国とは諸外国のことなんか無視して
ひたすら日本のことである。
国語とはあくまでもわが国の言葉をいって外国語なんぞは念頭にすらない。

日本のことを指す漢字には和がある。
和服の和である。
和酒とは言わないが
百貨店の売場では和洋酒という。

邦(ほう)と書くときもある。
邦楽とか邦土などという。
さすがに邦酒とはいわない。
それはなぜかというと、残念ながら今はその駄洒落の回答が思いつかない。
                                      
国酒というのは
一つは日本酒である。
もう一つは焼酎である。
しかも焼酎には泡盛や黒糖焼酎などが含まれる。

黒糖焼酎はサトウキビから造る。
一般的にサトウキビから造った蒸留酒をラム酒という。
ラム酒というと
庵主などは海賊が飲んでいる酒というイメージがある。

黒糖焼酎を造っている奄美五島が海賊の本場だといっているのではない。
外国の海賊映画を思い出すというわけである。
奄美の黒糖焼酎は美酒である。
実は庵主は焼酎の中では黒糖が一番好きなのである。

というのも
いいかげんなもので、
たまたまその一番うまいものに出会ったからである。
どんな酒でもそのうまいものを呑んだらきっとそれを好きになる。

絵でいえば、いいものを見るということである。
お酒は、いちどいいものを呑んでみるということである。
そうすれば絵画もお酒もそこそこのものがほとんどだということがわかる。
すなわち自分の才能も数多い方の一つだとわかって安心できるからである。

庵主が呑んだその黒糖焼酎は本当にうまかった。
いまだかつて焼酎を呑んでうまいと思ったことがないとは言っているが、
そこでいううまさとは別の次元の感動を覚えたものである。
杜氏の技が、いやその心が伝わってきてそれがうまかったのである。

へたな絵を見るよりも
ずっと心をゆりうごかされる。
生きていてよかったという思いにひたることができたからである。
そのお酒と出会えた喜びを感じたからである。

生産量からみてもそれを好んで嗜んでいる日本人は少ないだろうが、
黒糖焼酎というラム酒を日本人は国酒として呑んでいるのである。
実は日本人は好むと好まざるに関わらず大量にラム酒を飲んでいるのである。
それが日本酒のアル添に使われている醸造アルコールである。

その正体はラム酒である。
ただし精度の高いラム酒である。
こんなこといっちゃそれを使って日本酒を造っている人には悪いが
下手な日本酒よりもそれを薄めて飲んだ方がうまいと感じる場合があるほどである。

日本酒の製造量の9割ちかくがアル添酒である。
そのラム酒がいっぱい使われている。
すなわち日本人はラム酒をいっぱい飲んでいる民族なのである。
そして庵主はラム酒というとなんとなくバイキングを思い浮かべてしまうのである。

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あれっ、バイキングとキューバあたりのラム酒を積み込んで海を荒らしている海賊(パイレーツ)とは違うものだったっけ。
庵主は外国事情に疎(うと)いもので。
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by munojiya | 2006-02-25 23:41 | Trackback(1) | Comments(0)
俺は聞いていない
サラリーマン川柳というのがある。
なるほどと頷いてしまうおもしろい川柳を集めた本が毎年出版されている。
その中で庵主が覚えている一句。
「聞いてない 稟議書見れば ハンコあり」

文書をちゃんと回覧しても
だれもしっかり読んでないということである。
話は口頭で確認するに限る、心で伝えるのである。
メールなどは相手が開いて見たかどうかわからないから確認には使えない。

なにかを知らせるということは難しいのである。
ナショナルの欠陥石油ストーブのことを書いた。
みんなにきちんと連絡するためにかけた費用が200億円だという。
そんなお金をかけるよりけが人が出たらそれを補償金に使った方が安上がりだと思うが。

人の命にかかわることをお金で計ってはいけないのだった。
周知徹底することはそれだけ大変で、また手のかかることなのである。
だから、
たぶん庵主も聞き漏らしたのだろう。

純米酒の定義が
平成16年1月1日からすでに変わっていたことを。
はっきりいって、
こと酒税に関しては庵主は納税者である。

長い間、といっても最近だけのことなのだが、
純米酒の定義はこうだったはずである。
概略「米と米麹だけで造った精米歩合70%以下のお酒」である。
ふつうの酒呑みならその程度の理解で十分である。

中にはアル添した純米酒もあるというのは知らなくてもいいことである。
それはあってはならないことだからである。
その精米歩合70%以下という条件がなくなってしまっていたというのである。
精米歩合80%とか、中には90%という酒も純米酒と表示していいという。

そんなことご存じでしたか。
まず、だれが勝手に純米酒の定義を変えたかのということである。
買い手の了解を得ないで製品の内容を変更することはよくあることである。
「本製品は改良のため予告なく仕様を変更することがあります」と書かれていることがある。

ニコンのカメラはロット(製造時期)が変わるたびに細かな改良を加えているという。
それは使い勝手を向上させるためのものであって使い手のための改良である。
オーディオ(音響)製品では最初は安全を見越して高い部品を使っていおいて
その部品でなくても目的の性能は実現できるときは安い部品に変えることがある。

それも改良のためである。
生産者にとって製造原価を改良するためではあるが。
日本酒の製品の定義を全蔵元にわたって変更するというのなら
日本酒組合中央会が呑み手に公告するのが筋だろう。

そのための中央会だろう。
それとも「純米酒は改良のため予告なく仕様を変更することがあります」か。
それは呑み手にとっての改良でないことはたしかである。
いい米を使わなくても目的の性能は実現できるからという生産者都合の改良なのである。

三等米以上の米を使っていれば
精米歩合が何%でも純米酒と呼んでいいということにしたという。
そんな不純な動機から生まれた定義ならこれからは不純米酒と呼べばいい。
そのかわり麹米の使用率は15%以上に限るというがそんなこと呑み手にわかるか。

そして、その純米酒の定義を変更したことを呑み手の庵主は聞いてはいない。
だから、一度だけ川柳のように言ってみたいものであ。
「俺は聞いてないぞ」。
もっともそんな稟議書が回ってきてもハンコなんか押しやしないけど。
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by munojiya | 2006-02-24 21:45 | Trackback(3) | Comments(0)
口先一つの商売
在来宗教の長期低落傾向はいかんともできないものがある。
長年に渡って築きあげてきた権威もその光がにぶくなってきたのである。
それというのも暴露趣味の新興宗教ともいうべき科学のせいである。
さらに教会などに独占されていた情報が広く知られるようなったことによる。

秘儀だの密教だのといって門外不出として隠されていた事柄が
科学によって暴かれたからたまらない。
それと新聞・映画・テレビ・スポーツと娯楽がどんどん増えたということが
宗教の存在価値を相対的に下げることになったということである。

庵主は
宗教というのは総合娯楽事業であると思っている。
昔はテレビもない映画もないのである。
その大袈裟な教義こそ一代エンタメだったというわけである。

聖書の中にはあらゆる胸躍るストーリーが書かれているという。
スペクタクルあり、ラブストーリーあり、SFありというその世界は、
いうならば聖書は娯楽の殿堂ハリウッド映画みたいなものだったのである。
それしか楽しみがないのだから一手に人を楽しませていたのである。

信教が神(宇宙の法則)との交信だとしたら
教会だのお寺だのといった教団はなくてもいいものである。
そういう組織がつくられるとそのよしあしは別にして組織を維持しようという力が働く。
そうなるとこんどはその組織を守るたことが目的となって組織が動き始めるのである。

一度そこに踏み込んだ信者を脱会させてはいけない。
信者はお金を貢いでくれるから多い方がいいからである。
そのためには、時には愛を語り、時にはウソを教え込み、時には恐怖を与えて
信者が離れていかないように束縛するのである、いや心を掴むのである。

いったん組織の中に入ってしまうと自分の位置がわからなくなってしまう。
組織の中には奇妙な空気があって
同じ空気を吸っているとそれが当たり前になってしまうからである。
香水をつけていると自分ではその匂いが感じなくなるのと同じである。

時代は変わっているのにいまだに昔の教義(だしもの)をやっているのでは
最近の人の心をひきつけることができるわけがない。
アメリカ映画の没落を見るのは
21世紀にはいったというのにいまだに20世紀のリメークをやっているからである。

なにか面白いものはないのかという倦怠感を打ち破るのが戦争である。
下手すると自分自身の肉体の破壊になりかねないが、
それは究極のエンタメ(快楽)なのである。
たぶん少なからぬ人がうすうす感じている今現在の気配はそこに向かう欲求なのである。

そうでなければ、この前の戦争が終わってからの60年間を通じて
わざわざ戦争(ドンバチ戦争のこと)をしなくてもやっていけることがわかっているのに
また戦争しやすくするために日本国憲法を改正しようという話が出てくるわけがない。
それがわかっていても抗えないものが人間の心の中にはあるということである。

宗教は自分が煽(あお)った戦争で亡くなった人の面倒までみてしまうのだから
マッチポンプの総合サービス業なのである。
しかもちゃんと御布施を取ってであるからちゃっかりしている。
けっしてタダではないということが庵主がそれを総合娯楽事業と呼ぶ所以である。

お酒はというと、いうなれば総合文化事業である。
酒自体はバイオであってそれは科学の最先端であるから装いはお洒落なのである。
そしてお酒にまつわる精神性は酒器、料理と日本の文化と密接につながっている。
日本人の生活に深くかかわりながらその心にしみこんでいるのである。

その日本酒の長期低落傾向もいかんともしがたくなってきた。
実は昔のお酒と今のお酒は形は似ているが内質は変わっているということである。
昔のお酒は酔っぱらうための酒だったが今は味わうための酒なのである。
その違いを布教しないことには日本酒の需要は伸びないことだろう、口先一つで。
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by munojiya | 2006-02-23 22:22 | Trackback | Comments(0)
スタッフ
かつて庵主はスタッフという言葉が発音できなかった。
その前に「かつて」を「かって」だと思っていた。
いまでこそ無意識のうちにスタッフと発音できるが、
そのときはスタッフと言おうと思ってもスタップになってしまったのである。

タッフという間の抜けた発音が当時の日本語にはなかったからである。
そして日本人の発音が以前と違ってきたということである。
昔はジーゼルカーといっていたがいまはディーゼルカーである。
日本人はディーの発音が聞き取れるようになったのである。

TDLのおかげかもしれない。
日本の英語教育は、「This is a pen.」で始まる。
よく考えたら、庵主はジスもイズもペンも発音ができないのである。
自信があるのはアだけである。

そもそも日本人は英語の発音で「日本」と言えないのである。
JAPANのPANが発音できない。
AはHAPPYのHAのAである。
イとエの中間の音である。

庵主が一番うれしかったことは
「サウンド オブ ミュージック」のレコードを何度も聞きながら
HAPPYが発音できるようなったことである。
「法被ィ」としか聞こえなかったものが「屁ッピー」と違いが聞き取れるようになったことである。
 
言語はまず発音だと気がついたのである。
声を出すということである。
頭で覚えるのではなく体で覚えるということである。
そういえばお酒もそうだなとうなずくのである。

庵主は「だぞ」が発音できない。
「俺はそういったことをやる奴だぞ」の「やつだぞ」がきれいに言えないのである。
そんなのは俺なら簡単にできるという人がいたときには
じゃあ、「あわれみ」の頭に「お」をつけて言ってごらんとからかってやるのである。

ところでスタッフとクルーはどう違うのか。
食堂はスタッフで船や飛行機はクルーだけれど
一つの仕事をみんなでやるメンバーだということだから同じではないのか。
その違いが庵主には分からない。

それでいえばみりんの本みりんとみりん風調味料の違いもわからないのである。
その点お酒の違いに関しては庵主は詳しい。
純米大吟醸酒、純米吟醸酒、特別純米酒、純米酒、大吟醸酒、吟醸酒、
特別本醸造酒、本醸造酒の区別がちゃんとつくからである。

そんなことはちっとも自慢にならないのである。
庵主は本みりんとみりん風調味料のたった二つの違いすらわからないのである。
それなのにお酒を八つにも分けられたのでは
普通の人がそんなものの違いを覚えられるわけがないじゃないか。

違いが分からないものをどうやって選べというのかということである。
現在の日本酒の売り方はどこか間違っているということである。
庵主が酒屋をやったらお酒を二つに分けるだけにする。
庵主が呑んでうまいと思うお酒とそうでないお酒である。

うまいお酒を呑みたい人はこっちのお酒をどうぞ。
うまくないお酒が好みの人はこっちのお酒ですよ、と分けて売る。
うまいと定評のお酒がいつも、すなわち毎年あるいはどのタンクもうまいとは限らない。
そのお酒がうまいかどうかを見極めてくれる人に頼るしかないからである。

お酒はラベルやデータで売るのでなくその味で売るものだということである。
お酒の売り方の発想を変えなくてはならない。
すなわち新しい売り方の洗礼を受けなくてはならないということである。
あっ、それでもう一つうまく発音ができない言葉を思い出した、バプテストである。
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by munojiya | 2006-02-22 21:46 | Trackback(1) | Comments(0)
酒瓶の大きさ
日本酒の容器については意見がわかれるところである。
通常は日本酒のシンボル(看板)ともいえる一升瓶で売られているが、
これが今日の生活では大きすぎるというのである。
家庭用の冷蔵庫に入れると邪魔になるからである。

だから
四合瓶なら買えるが
一升瓶なら買わないという人もいる。
とはいっても、いいお酒なのに四合瓶がないというものがあるから困るのである。

庵主の場合は四合瓶でも大きすぎるのである。
たまたま一合瓶で売られていた
新潟の「越の華」の鑑評会酒を呑んでそのうまさにすっかり魅せられたことがある。
淡麗辛口の新潟酒でありながらその艶のある味わいにその精華をみたからである。

それは一升瓶なら1万円のお酒である。
量は1合であるが、
1050円だから買えたのである。
300ML瓶でも値段を考えたらちょっと買うのをためらっただろう。

鑑評会のお酒といえばよくいえば美人コンクールである。
見め香りはいいけれど
味がいまいち物足りないというお酒が多いから
大きい瓶で買うとそれが外れだったりするとがっかりするからである。

3千円も出せば
十分にうまいお酒が一升瓶でいくらでも買えるのである。
ついそれと比べてしまうから
外れの鑑評会酒は悲劇なのである。

さすがにもったいなくて
いつものように最後にはお風呂にいれるということはできない。
かといって呑んでもつまらない。
値段のことさえ考えなければ悪いお酒ではないからと慰めるしかないのである。

そういうお酒だから大きい瓶では買えないのである。
もしそれが1合瓶にではなくもっと大きい瓶に入っていたら庵主は買えなかった。
ということは1合瓶売りでなかったらそのうまいお酒との出会いもなかったということである。
それはまたいいお酒が1本売れなかったということである。

いま庵主の近くのコンビニに
その容量をどうやって決めたのか
275ML入りの日本酒が何種類か売られている。
値段はワンコインの500円ぴったりである。

容量から逆算すると
一升換算で3200円ということになる。
ということは悪いお酒ではない。
もうちょっと正確に言うと庵主にとっては贅沢感を感じる値段である。

味見するためには1合半ではあるが500円という値段は買いやすい。
本当は割高なのだが口に合わない酒を大きい瓶で買ってきて
もてあますことを考えたら量などは二の次なのである。
275MLのお酒を売るならば1本だけで売るのは勿体ない。

なぜなら、お酒は呑み比べるといっそう楽しいからである。
味のタイプが違うお酒を2、3種類買い求めて呑み比べて楽しむことを勧めてほしい。
もっともそのためにはそれらの酒質にしっかりした特徴がないとだめではあるが、
一升3200円の酒ならそれは可能だろう。

お酒を売るということはそのうまさを売ることだと庵主は思っている。
そしてお酒のうまさを知るためには呑み比べることが必要だということなのである。
お酒を売るということはまた毒(体にはよくないもの)を売るということなのである。
コンビニがそこまで肚を据えたというのなら毒を味わい比べる喜びも売ってほしいのである。
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by munojiya | 2006-02-21 21:37 | Trackback | Comments(0)
66
2006年2月13日に
このブログのカウンターが
最高数字をはじき出した。
その数が66である。

庵主にはよくあることなのだが、
芝居やディナーショーを見に行くと
なぜかその入場券や座席の番号が69番であることが多い。
なんとなくわかるような気もしないではないがやっぱりおかしい。

聖書では666は悪魔の数字とされている。
6という数字が
どうやら碌でもないという意味を含んでいるようなのである。
まさか西洋人が六でもないという語呂合わせをしているわけではあるまいが。

その6が二つ並んだのだからなんともいえないのである。
それそろ酒の話なんかやめろという天からの声なのかもしれない。
このブログを書いている人の性格が6で
それを読んでいる読者の性向が6という意味ではないとは思うが。

実は66は庵主の酒量でもある。
60ccグラスで2杯である。
666ならちょうど180ccで一合になる。
6という数字はお酒にふさわしい数字なのである。

5勺じゃものたりない。
もうちょっと呑みたい。
そこで6勺である。
人間の気持ちを満たしてくれるちょっとの心遣いがその差の1勺なのである。

それを思えば6というのはきわめて人間的な数字なのである。
いまはお菓子は袋にはいって定量で売られている。
内容量が90グラムだったり(カール)、
70グラム(カルビーのポテとチップス・コンソメパンチ)だったりする。

昔は白い紙袋にお菓子を量って入れて売っていた。
で、たとえばぴったり100グラムを量ってくれたときに
気持ちだけちょっとおまけしてくれるのである。
プラスα(アルファ)である。

そのちょっとの気持ちがうれしいのである。
お菓子が2倍おいしく感じるのである。
酒呑みの気持ちもそうなのである。
グラスにそそいだお酒をちょっとだけ受け皿にこぼしてくれるとうれしい。

庵主などは
それをやられると酒が呑みにくいのとグラスの外側に酒がかかるから
やめてくれと思うのだがそう思うのは少数派である。
庵主は実は酒呑みではないということの証左である。

では何故(なぜ)お酒を呑んでいるのか。
いつも書いているようにその余韻を楽しんでいるのである。
はっきりいって呑んだお酒の味なんか覚えていない。
しかし、そのお酒を呑んで味わった気分はしっかり思い出すことができる。

お酒の味をみているのではなくて
そのお酒の気合を味わっているからである。
いい米をよく磨いて造ったお酒でもたいしておもしろくないものがある。
ぎゃくにたいしたいい米を使っていないのにうまいお酒がある。

その違いはお酒がもっている気迫なのだと思っている。
お酒の気迫なんかわるかのかと聞かれたらそれはうまいということでわかる。
体がそのお酒に共鳴するからである。
だからこのブログに共鳴してくれた66人の読者に感謝しているのである。
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by munojiya | 2006-02-20 22:11 | Trackback | Comments(0)
子供はお酒を呑んではいけない
美少年タレントを数多く抱えているジャニーズ事務所の
未成年タレントは幸せである。
悪い大人にすすめられてうっかりお酒を呑むことのないよう見守られているからである。
回りの大人がちゃんと未成年者の禁酒を窘(たしな)めてくれるからである。

庵主はテレビを持っていないから
ジャニー喜多川が率いるジャニーズ事務所の若い衆(わかいし)とはおよそ接点がない。
なのに時々世間に警鐘を鳴らす酒ネタでそのメンバーの名前を知るのである。
庵主のところまでその名前が流れてくるのだから警鐘効果は抜群なのである。

「NEWS」の内博貴メンバーの名前を知ったのでそれをブログで取り上げたら
なんとその日の記事はその頃のアクセス数の最高数字を記録したものである。
ジャニー喜多川といえばタレントに厳しいので児福に引っかからないのかといわれているが
もしそういうことになったらいまのテレビ局はなんと報道するのかが見ものである。

そうなっても庵主にはそれを見るテレビがないから楽しめないのが残念である。
ホリエモンが捕まった時にはそれまで時代の寵児だとばかりに持ち上げていたテレビ局は
掌を返したように悪党ホリエモンとして報道合戦をしていると聞く。
もっとも最初に掌を返したのはその兄であり父であると自称していた武部勤という人だったが。

テレビ局は節操がないのである。
ホリエモンにお世話になったフジテレビだけは
ホリエモンに味方するのかと思ったらそうでもないらしい。
ホリエモンの側につく一貫した人物はどうやらいないようである。

内博貴メンバーのときはまわりの悪い女に唆(そそのか)されたという。       
悪い女には気をつけようねということで
ジャニー喜多川は美少年タレントにはそうならないようしっかり躾けていると聞く。
その躾けというのがなにやらかにやらという噂も庵主のところに流れてくるのである。

内メンバーに続いてまたまた「NEWS」の草野博紀メンバーの名前を知ることになる。
チーム名が「NEWS」だから一生懸命ニュースを発信しているのだろう。
案外、Nは「飲んでも」、Eは「イーのよ」、
Wは「Whiskeyや」、Sは「Sakeを」、の略なのかもしれない。

今度は「KAT-TUN」の亀梨和也メンバーの飲酒疑惑写真だという。
成年前の飲酒は多くの人がやっているけれど一罰百戒なのである。
ジャニーズ事務所はそのタレントを動員して
未成年者の禁酒キャンペーンを張っているというわけである。

未成年者は酒を飲んではいけないという啓蒙活動である。
少年タレントを擁するプロダクションなので
子供たちの心身の健全な育成を思って
時折、未成年者はお酒を飲んじゃダメと警鐘を鳴らしているのである。

今回の「週刊女性」に載っていた写真はケータイのカメラで撮った写真のようである。
どんな写真かというと
亀梨メンバーがテーブルの前に坐っているところを正面にすえて撮った写真である。
そのテーブルの上に液体が入っているコップが置かれている。

コップの中の液体の上部が白いのはビールの泡か。
写真は亀梨メンバーの上半身をアップにしたものでどこで撮ったものか判然としない。
こちら側を向いている亀梨メンバーはコップを手にしているわけではない。
この写真についてジャニーズ事務所ではこう説明しているという。

亀梨が祖父母宅を訪れた際に叔父が携帯電話のカメラで撮影した写真で、
グラスは「祖父が飲んでいたもの」で叔父が友人に転送した写真が出回ったもの、だと。
庵主が思うにケータイで撮った写真なんぞは私生活の写真である。
そんなものを正義面して表に出す方が悪いのである。

今回の疑惑写真については「週刊女性」が軽率なのである。。
ケータイの写真は中身がどうであれ相手にしないというのが大人の振る舞いである。
そうでないと現在のような盗撮社会では安心して生活していられないからである。
今回の写真の件では「週刊女性」が一番悪い。

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ケータイに付属しているのカメラの画素数が、いまや400万画素という機種(ドコモD901iS)が出現して、普通のデジタルカメラの画素数をしのぐようになってしまいました。
昔はプリントアウトすると荒っぽい画質でしかないものだったものです。こうなってはケータイで撮った写真と普通のデジタルカメラで撮った写真との違いがわかりません。困ったものです。

携帯のカメラは盗撮社会の凶器なのですから、画面を覆うだけの画素数に限定しておくべきなのです。それなのに節操のないメーカーが、庵主の言葉で言えばアホンダラなメーカーがやってはいけないことをやってしまったということなのです。
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by munojiya | 2006-02-19 23:16 | Trackback | Comments(0)