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静岡のお酒よりうまい酒
静岡のお酒が好きだといったが、
庵主がいま一番うまいと思っているお酒は秋田の「由利正宗」(ゆりまさむね)である。
齋彌酒造が醸しているお酒である。
おなじ蔵元の「雪の茅舎」(ゆきのぼうしゃ)である。

福井の「梵」(ぼん)にもすごいお酒があるがそれは別格である。
齋彌酒造のお酒はどれも満足できる味わいだからいい。
「開運」がどのランクのお酒もそれなりのうまさをきちんと味わわせてくれるように、
「雪の茅舎」もまたいつ呑んでも期待どおりのうまさが味わえる信頼できるお酒である。

庵主はいまはもうそういう酔っぱらうような呑み方をしないことにしたが、
秋田のお酒の試飲会に出席して気になるお酒を片端から味見してまわったことがある。
一通り錚々たるお酒を呑んだあと十分に満足したところで最後に「雪の茅舎」を呑んだら、
その一本でそれまでのお酒の印象がぜんぶ吹っ飛んでしまったのである。

庵主の場合は最初からこれを呑んでいれば十分だったと知ったのである。
「雪の茅舎」は酔っぱらって呑んでもうまいことがわかるお酒だからすごい。
庵主は酔っぱらうのが苦手だから、アルコールに弱いのですぐ気分が悪くなるせいだが、
いろいろなお酒を呑んでまで酔っぱらうことはないと悟ったのである。
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by munojiya | 2006-06-30 00:51 | Trackback | Comments(0)
静岡のお酒に出会えた幸せ
庵主が行き着いたと思ったお酒の例はいずれも静岡の酒だった。
つまり静岡のお酒が庵主の体質に合っているということである。
「志太泉」は高橋貞實杜氏の、そして「開運」は波瀬正吉杜氏のお酒である。
もっと正しくいえば、両蔵元が造ったお酒だということである。

黒澤明(くろさわ・あきら)が、小津安二郎(おず・やすじろう)が
いくらいい監督だといっても二人に映画を撮らせる人がいないと
その映画を見ることはできないということなのである。
お酒も杜氏が造るのではなくて実は蔵元が造っているということなのである。

静岡の蔵元は酒造りに対する姿勢がいいということである。
その期待に応える杜氏さんの性格と技術がいいということである。
だから呑んでいて気持ちがいいということである。
うまいお酒とは造り手の気持ちが伝わってくる酒のことである。

話によると昔の静岡のお酒はまずかったという。
まずいというよりは中途半端だったのだろう。
だから呑んでもちっとも面白くなかったということなのだろう。
そして静岡のお酒が俄然うまくなりはじめたときに庵主はそれと出会ったのである。
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by munojiya | 2006-06-29 00:09 | Trackback | Comments(0)
酒銘を挙げてもしょうがないのではあるが
庵主がこれがいい酒だという実例を挙げることにする。
庵主が行き着いたお酒だということである。
酒銘を挙げてももう現物はないだろうからそれと同じ酒は呑めないかもしれないが、
それと同じ主張のお酒はまた造られるはずなので全然心配はないということである。

同じようなうまいお酒を見つければいいだけのことである。
一つは「志太泉」のH10BYの大吟醸である。
山田錦35%の大吟醸と同じく40%の大吟醸をブレンドしたお酒である。
口にしたときにうまいとは感じないのである。

しかしまずいという抵抗感がいささかもなくていくら呑んでも飽きないのである。
庵主の体がもういらないというシグナルを送ってこない酒なのである。
飽きがこない飲み物というなら水が一番だろう、まともな水なら癖もない。
しかしその「志太泉」は飽きないというより体がつぎの一杯を求める魔力がひそんでいた。

口に含んだときに自分の体と一体になったような感じなのである。
うまいとかまずいとかいう感覚は実は違和感なのである、あえていえば拒絶反応である。
その「志太泉」にはそれがなかった。
そしておなじ感覚を純米吟醸「開運 波」で再び味わったのである。
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by munojiya | 2006-06-28 00:24 | Trackback | Comments(0)
能書きで呑むお酒は実は下(げ)の酒なのである
上手と書いて「じょうて」と読む。
下手は「げて」である。
これはうまいお酒だというのはほめ言葉ではあるが
それが本当にいい酒なのかというと必ずしもそうはいえないということである。

お酒を呑むのはなにも能書きや造り手の思い入れを呑むわけではない。
だから庵主は立派な桐箱にはいった高い瓶に詰めたお酒をからかうのである。
庵主は箱や瓶は呑まないから中の酒だけでいい、と。
ではなにを呑むのかというと、そのうまさを呑むのである。

そしてうまさとはなにかというとそのうまさに上手と下手があるということである。
上手と下手とはただ単にいいものとわるものということではない。
正しくは品のいいものとそうでないものということである。
つまり庵主は上手のうまさを知ってしまったということである。

例えば香りがきれないお酒や甘いお酒はうまいといえないこともないが実は下手である。
そういう化粧した美しさも悪くないが、素顔のきれいな方がほっとするということである。
お酒を呑むのにうまいだのまずいだのと能書きをとなえるのは面倒くさいではないか。
呑みつづけても飽きることのないうまさをたたえている酒がいいお酒だということである。
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by munojiya | 2006-06-27 00:19 | Trackback | Comments(0)
実は庵主の中では結論が出ているのである
さいわいなことに、
多くの日本人がそのうまさに気づいていなかったおかげで、
そして、真っ当な酒造りを志す数多くの造り手がいたおかげで
庵主は日本酒のうまいところをよりどりみどりで存分に堪能してきたのである。

しあわせなことに、
ちょうど日本酒がうまくなりはじめた時期と時を同じくして生きて来たから
きのうより今日呑むお酒がうまいという右肩上がりの時代の恩恵を甘受したのである。
いろいろなお酒を呑ませてもらったのである。

呑んでいるうちに
自分の好みの方向が見えてくる。
お酒を呑んではうまいだのまずいだの書いているが、
実はすでに庵主にとって一番うまいお酒というのは分かっているのである。

お酒がなんとなく見えてきたのである。
まずい酒は呑めないが、うまい酒もそれは化粧なのだとわかった。
なんでもないお酒が一番いいということである。
うまいとか、まずいとかを考えさせることなく呑めるお酒が一番なのである。
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by munojiya | 2006-06-26 01:31 | Trackback | Comments(0)
いいお酒とそうでないお酒
いいお酒と悪いお酒ではない。
いいお酒とそうでないお酒である。
どんな世界でもいい物とそうでない物とがある。
そしていい物は少ない。

いい物を知っている人がそれを広言することは
数少ないものを奪い合うことになるから
わかる人だけで内輪で話せばいいことである。
知る人が増えたら収拾がつかなくなるということである。

第一自分がそれを手に入れられなくなるだけである。
お酒のように数が少ないといっても本数があるものならまだしも、
絵画のような一点物ならそれこそ盗ってでもこなければ手に入らないことになる。
怪人二十面相はいい物に対する自分の気持ちに忠実だったのである。

希少価値が値を上げることがあるから時としていい物に高値がつくことがある。
多くの貧乏人、今は経済的弱者と言い換えるのだったか、にとっては叶わぬ夢となる。
その夢に代わるものを与えてくれるのがそうでないお酒なのである。
生きているご褒美に対するささやなか夢なのである。
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by munojiya | 2006-06-25 00:58 | Trackback | Comments(0)
地図がわり
庵主はお酒のことを書いているがお酒を呑んでいるのではないということを書いた。
客観的にはたしかにお酒を呑んでいるのだが、
その実態は日本酒という文化の中に自分の美意識を投影しているということなのである。
いや、逆だ、お酒の中にある美意識を探っているのである。

それはまだ庵主が知らなかった美しいものを発見する楽しみに満ちているのである。
だからそれまで気づかなかった美にふれたうれしさを書きつづけているのである。
それは発見の多い旅である。
呑むたびに新しい発見があるから面白くてやめられないのである。

まずはいろいろなお酒の違いを知るということだった。
そしてそのお酒を評価するということだった。
それをうまい酒といい、まずい酒といったら
まずい酒はないという反応が返ってきたことがあるということは何度も書いた通りである。

定規としてのまずい酒がないのならうまい酒もないということになるが、
うまい酒を知っている人がまずい酒はないというからそれは偽善だと貶したのである。
庵主はただ、いま呑んでいるお酒がどの位置にあるかということをみていたのである。
このブログは新たにお酒の世界に飛び込んでいく人のための地図替わりなのである。
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by munojiya | 2006-06-24 00:37 | Trackback | Comments(1)
「不撓不屈」
「不撓不屈」というのはお酒の名前ではない。
いま公開中の映画の題名である。
昭和37年、栃木県鹿沼市の税理士飯塚毅は節税のために導入した別段賞与を巡って
それを脱税と主張する国税局と対立し国税庁から執拗にいじめられるという映画である。

お上である国税庁が権力を笠にきて弱者である正義の国民をいじめるという映画だから
悪役がしっかりしていないとつまらないのだがそこにいい俳優を揃えているから面白い。
結局は正義は勝つという映画であるから大方の喝采を得るのである。
実はこの映画はいじめ映画であると同時に家族を描いた映画だから時に涙をさそう。

水沢渓が書いた「冤罪の構図」(健友館03年刊)という今は絶版になっている本がある。
昭和38年、良い酒を安く売ろうとした東北の東里酒造の専務古田良造が
酒税を握っているキャリア官僚の意向に逆らったためにいじめられるという話である。
その本をさがしているのだがいまだ読むことができないものの同じような構図なのだろう。

国税庁は自分たちが貢取りだと見られていることを感じていて負い目があるのだろう。
それが鬱積して憂さ晴らしに納税者いじめをやりたくなることがあるものらしい。
権力を持つと人間は堕落するという一面があるというわかりやすい例でもある。
国民はそんな権力なんかないものだから酒を呑んで悪口で憂さを晴らすのである。
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by munojiya | 2006-06-23 23:16 | Trackback | Comments(0)
ただうまいお酒が呑みたいだけ
誰かを指導したくてたまらない人。
誰かに導いて貰わないと不安でしかたない人。
いずれも東良美季さんの言葉である。
こういう本質をついた言葉がただで手にはいるのがブログのいいところである。

もっとも日本語をあやつっている人もその言葉自体の仕入れ原価は只なのだから
それに付加価値を付けて高く売るというのははったり意外のなにものでもないが。
こうして長い間お酒を呑みつづけてなんとなくお酒が見えるようになってくると
それは世間を狭くすることなのに酒を人に語ってみたくなるが自制しているのである。

一つの価値感だけが大きくなると生きにくい世の中になるということである。
その価値観が自分にとってはいいものだと思うものであっても
それを信奉しないのは間違っていると思うことはそっちのほうが間違っている。
庵主はうまいお酒しか信奉しないが、それは違いをいっているだけなのである。

そういう酒しか呑むなとはいわない、そういうお酒が多くなるといいなとはいうが。
ただ自腹を切って呑むのならうまいお酒がありますよと案内しているだけなのである。
自分が飲む酒は自分で選べばいいし、うまい酒は自分で決めればいいことである。
庵主はただ自分がうまいと思うお酒が呑みたいだけなのである。
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by munojiya | 2006-06-22 21:44 | Trackback | Comments(0)
いい酒ではできないこと
庵主はまずいお酒は呑めないからそういうお酒を視界の外に置いているのだが
料理に合わせて酒を呑むという人ならその手の酒の方がいい場合があるのである。。
そういうお酒というのはいわゆる普通酒であったり三増酒であったりする実用酒である。
庵主の呑み方はただ酒だけを呑むという呑み方だから酒のうまさだけが命なのである。

ところが呑んだときに甘くてまろやかな男心を甘美な思いにさそうそういうお酒は
煮込みとか焼き鳥などやんちゃな食い物と一緒に呑んだのでは酒が負けてしまう。
お酒だけを呑んだときに感じるそのうまさがそこでは場違いなものになるのである。
野球をやるときに背広を着てやっているようなものである。

焼き鳥とか、煮込みとか、鮨などというのはその不味さを食う物である。
その不味さを流すためにはいい酒ではかえって不味さが引き立つからだめなのである。
その食い物よりもっと格下のもっと安い酒でないといけない。
三増酒であったりちょっと奮発してアルコール臭い普通酒がいいのである。

そっちのお酒で食った方が断然うまいからである。
高級焼き鳥屋だの高級鮨屋だのというのは高級軽自動車と同じで喜劇である。
昔そういう酒ならうちの出番だといってサントリーが鮨屋にウイスキーを
売り込んだことがあったがそれでサントリーのお里が知れてしまったのである。
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by munojiya | 2006-06-21 23:31 | Trackback | Comments(0)