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好きなお酒がだんだん見えてくる
初めのころはなにを呑んでも楽しかったお酒が
いろいろ呑んでいるうちに
好きなお酒だけ呑めばいいという気持ちになってくる。
わざわざまずい酒を呑むまでもないということが分かってくるからである。

とはいっても
まずい酒を呑まないとうまいお酒がわからないわけだから
それは結果論であって
日本酒を志した人はおおいにまずいお酒を呑んでいただきたい。

いろいろなお酒を知っているという経験があってこそ
初めて自分の好みが見えてくるからである。
もし結論がすべてだということなら
ほとんどの人間はいらないことになる。

人間をやっているということは
先人がすでにやったことをまた繰り返して生きつづけることだからである。
その繰り返しの過程こそが人間だということだからである。
お酒もまた結論にはではなく、そこにたどり着く過程にその意味があるということである。
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by munojiya | 2006-07-31 00:02 | Trackback | Comments(1)
天然繊維
庵主はお酒を呑んでいるのではなくて
お酒に自分の美意識を投影させているだけだとはいつもいっていることである。
だから、
たくさん量を呑んで酔っぱらう必要がないのである。

美意識とはこういうことである。
見えてしまうということなのである。
綿や麻などの天然繊維で仕立てたシャツがある。
そして一方に実用的なポリエステルのシャツがある。

普段着にはポリエステルのシャツが重宝である。
しかし、庵主にはその繊維の違いが見えてしまうである。
上質の綿や麻の生地で仕立てられたシャツを見るとほっとするのである。
手入れの面倒なシャツを着ている人の優雅に憧れるのである。

自分が着ているポリエステルに目がいくとがっかりしてしまう。
丈夫で長持ちそして手入れが簡単と実用的ではあるが生地に深みがないからである。
綿や麻に相当するお酒が庵主がいうところの真っ当な酒である。
そしてポリエステルに相当するのが実用酒なのである、呑むまでもない。
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by munojiya | 2006-07-30 00:36 | Trackback | Comments(0)
甘くてはいけない、甘くなくてはいけない
日本酒は基本的には甘くなくてはいけないと庵主は思っている。
超辛口の甘さを振り切ってしまったお酒が呑みたいのなら、
超超辛口といっていい焼酎を呑めばいいのである。
その方がアルコール本来の甘さが味わえるからうまいのではないのか。

とはいっても人それぞれだから呑むお酒はご自由にということである。
庵主ならそんな呑み方はしないということにすぎない。
だから庵主がお酒を呑むときは黙って呑んでいる。
甘いといっても庵主が呑んでいるのは+3~5ぐらいのお酒であって甘口の酒ではない。

小人(しょうじん)閑居して不善をなすというが、庵主のお酒がまさにそれである。
少量しか呑まないので呑んでいるときに暇をもてあまして能書きが多くなるのである。
どんどんお酒を呑む人は呑みながらそんなことを考えている暇はないから
ひたすらお酒の酔いに身を任せることができるのである。

庵主にとってはお酒を呑みながらあれこれこじつけを考えることが酒の肴なのである。
そういうときにはほんのりと感じられるお酒の甘さが思いをくすぐるのである。
米の酒、いや麹の酒を呑んでいるという文字通り甘美な満足感にひたれるからである。
だからお酒はきりりと甘くなくてはならないのである。
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by munojiya | 2006-07-29 00:21 | Trackback | Comments(0)
算盤(そろばん)
算盤の話である。
国内では今日では電卓に一掃された計算道具である。
その算盤は外国で人気があって算盤メーカーは海外に活路を見いだしているという。
算盤のいいところは脳を鍛えるというところにある。

指を使うことは脳にいいということはよく言われていることである。
子供のときの綾取りやおはじきなどは子供の脳の発達をうながすという。
年をとったときも指先をよく使うことは惚け防止になるという。
子供にも大人にも算盤は頭をいや脳を活性化させる道具なのである。

その算盤も機能だけならプラスチック製で2~3千円もだせば買える。
しかし、いいものは50万円を越えるという。
算盤を造る職人が少ないということといい材料を使うとそうなるという。
どっちの算盤を使っても計算の答えは違わない。

高い算盤を使ったからといって計算が早くなるとか間違いがなくなるということはない。
それでもできれば高い算盤を使いたくなるのである。
その方が同じ算盤を使っていても気持ちがいいからである。
それはまたうまいお酒を呑みたいという気持ちとなんとなく似ていると思ったのである。
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by munojiya | 2006-07-28 00:53 | Trackback | Comments(0)
いまどきの新聞がつまらない理由
お酒を造るということは神様に捧げることである。
そのおこぼれを人間がいただくということを弁(わきま)えていたら
どうでもいいお酒を造るという行為は間違っているということが分かるはずである。
庵主が呑めないお酒はなんてことはない人間様が呑むための酒だったのである。

最初から人間様が呑むためにつくられた実用的なお酒を商業酒と呼ぼう。
商業酒というのは酒自体を商品として造るという考え方をいう。
今新聞が売れなくなっているという。
大手商業新聞のこれでも売れているという発想が読者に飽きられてきたのである。

大手酒造メーカーが造るお酒と同じような状態になっているのである。
新聞は読者が求める肝心なものが載っていないので読んでもおもしろくないのである。
読み手の要求を満たせなくなってきて読者の新聞離れが進んでいると聞く。
大手酒造メーカーの酒は悪くはないがわざわざ呑むまでもないというのと似ている。

うまいお酒はいまやネットで探すのが当たり前になっている。
ニュースもまたネットで探すというのが新聞の記事に飽きてきた人たちの嗜好である。
今の新聞はお酒でいえば往年の三増酒のように三増新聞の観を呈しているようである。
売れているからいいのだという志のない商品であるという点では両者は同じなのである。
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by munojiya | 2006-07-27 01:25 | Trackback | Comments(0)
ネーミング(商品名)も酒の味の一要素である
山廃なんて文字を見たら産廃みたいな汚いゴミの山を思い浮かべないだろうか。
そういう業界用語をそのままお客さんに見せるということが間違っているのである。
警察業界がデカとかホシとかいうのはそれは内輪だけの符丁である。
それをそのまま外部に出されたら迷惑なだけである、不愉快である。

一般の呑み手向けのお酒の記事に平気で首吊りという言葉を使っている人がいる。
それは業界内だけの品のない用語なのである。
年間3万人の自殺者がでているときに首吊りだなんて無神経な言葉遣いだからである。
まともな神経の蔵元はラベルに書くときにはちゃんと袋吊りとしているのである。

すなわち商品はそのイメージが大切だということである。
とくにお酒はそれが入っている瓶によってうまくなったりまずく感じたりするものだから
容れ物やラベルに気をつかうということは当たり前のことである。
酒銘などのネーミングは実はお酒の味わいを左右する大きな要素なのである。

従来の日本酒の欠点は造り手主導で言葉遣いなり味の表現がなされてきたことである。
もっともお酒は一般の人は造ってはいけないことになっているからいた仕方がなかった。
しかしいまは呑み手がその主張と夢を語るようになったからそれではいけないのである。
そして、お酒をおいしく感じさせる一番楽な手段がネーミングなのである。
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by munojiya | 2006-07-26 00:42 | Trackback(1) | Comments(0)
なぜ「山廃」はいけないのか
山廃造りという醸造法があって速醸モトとはちょっと違うぞという主張で
ラベルには堂々と山廃造りと書かれている。
ちょっと違う造りということが主張になるなら普通酒は相当変わった造りなのだから
でっかい文字でそう書けばよさそうなものだが普通酒においてはそういうことはない。

すなわち山廃の方はプラスイメージだと造り手は思っているようなのである。
山廃なんていったって呑み手はその意味を知らないのである。
庵主などはお酒はうまいかまずいかでしか呑まないから
山廃の酒と聞くと身構えてしまう。

というのは老ね香みたいないやなにおいが出ていることがよくあるからである。
それがうまいのだという人もいるみたいだが庵主の好みではない。
人生いろいろではないが、人の好みもいろいろといったところである。
そして山廃がよくない理由ももう一つはネーミングがよくないということである。

山の中にある廃坑で貯蔵していたお酒かなといった人がいる。
山廃というのは業界用語なのではないか。
鮨屋でいえば、あがりとかむらさきのたぐいである。
業界用語をそのまま表に出してくるというのがよくないのである、美的でないのである。
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by munojiya | 2006-07-25 00:32 | Trackback | Comments(1)
庵主は日本酒原理主義である
お酒は純米酒でなくてはいけないと考える呑み手を
純米酒原理主義者という。
アル添と聞いただけでそれは間違っているという
原則をゆるがせにしない一徹な呑み手のことである。

庵主はアル添酒であってもうまけりゃ何でもいいという呑み手だから
純米酒にこだわることはさらさらない。
一生懸命造ったのだろうが結果的にまずい純米酒というのをいっぱい知っているから
それよりはうまいアル添酒の方がずっといいと思っているからである。

ただ一般的にアルコールを増量に使ったお酒では庵主が日本酒に求める味わいが
得られないことが多いからそういう酒よりはまともな純米酒を好むということなのである。
お酒造りも料理を作るのと同じで原料のよしあしもさることながら味をつくる技なのである。
庵主はその技を味わいたいということなのである。

庵主の立場はいうならば日本酒原理主義である。
日本の水と日本の米で造られた
そして日本人の酒造りの技がこもっているお酒を選ぶということである。
そういうお酒がやっぱりうまいからである、日本の気にこだわる呑み手なのである。
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by munojiya | 2006-07-24 00:26 | Trackback | Comments(0)
うまいお酒はいい酒ではないという説
うまいお酒は本物の酒ではないという説がある。
庵主がでっちあげた説である。
お酒が面白くて面白くてたまらない時は
これはうまいお酒、これはそうでない酒だと区別することが楽しかった。

このお酒はこれまでに呑んだ中では一番うまいお酒だと思っていたら、
日を置かずしてそれを越える味わいをもたらしてくれるお酒が出てくる。
そういうお酒を呑むと庵主の酒界は狭いということをつくづく思い知らされるのである。
しかし当分はこれを越えるお酒はないだろうと思ってもそれがまた甘いのである。

それまでのお酒はただうまいというお酒だったが
こんどのお酒はそのうまさに加えて気品のよさを感じるのである。
お酒の格がそれまで呑んでいたものとは違うということがわかるのである。
横綱相撲という言葉があるが、まさに横綱相撲を見ているようなお酒がある。

うまいのは当たり前で押しも押されもせぬ風格をたたえているお酒である。
うまいかまずいかなどということは考える必要がないお酒である。
そういうお酒を口にしていると、うまいというお酒は、呑み手に味をみさせるという
しなくてもいいことを迫る小賢しいお酒にしか思えなくなるということなのである。
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by munojiya | 2006-07-23 00:52 | Trackback | Comments(0)
《舟甚》(ふなじん)
銀座にある三平酒寮《舟甚》(ふなじん)の酒祭りは読みごたえがあると紹介した。
地下鉄銀座駅のB5出口を出るとすぐ右手にある
いま工事中の不二越ビルを確認したら(その後、完成したらアルマーニのビルになった)
その先の道を右に曲がると工事現場の隣のビルの3階に《舟甚》の看板が見える。

古いビルで1階の入口部分にはお酒のラベルが壁一面に貼られているからすぐわかる。
エレベーターで3階に上がる。
ここは年中無休だから土曜日、日曜日、祝日といつでもうまいお酒が呑めるからいい。
かてて加えていいところはお酒が安いということである。

酒祭りを見ると
呑むお酒に不足はない、どころか呑みたくなるお酒が多すぎて困ってしまうのである。
呑みたいお酒がない酒祭りからどれを呑むかをさがすのも大変だが、
呑みたいお酒ばかりの酒祭りからその日呑む1本のお酒を決めるのはもっと大変である。

PB限定酒の「長野屋」(福岡・杜の蔵)とか「太田」(三重)とか「御湖鶴」(長野)などが
混じっていたらそれも呑んでみたくなるではないか。
「磯自慢」の特別本醸造酒があったら、「磯」は本醸造で十分うまいと思っていても
それも口にしたくなる、そんな酒祭りなのである。
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by munojiya | 2006-07-22 00:19 | Trackback | Comments(0)