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余一会
寄席では、31日がある月の晦日(みそか)の興行を余一会(よいちかい)という。
寄席は10日間興行だから、31日がある月は1日余るので特別興行が行なわれる。
本日の「むの字屋」も余一会である、想像をたくましくする会である。
国体としての日本(にっぽん)と原住民である日本人(にほんじん)とは別なのではないか。

ネットを見ていたらこういう世の中の見方が書かれていたが、分断統治の手法である。
「戦後GHQはあらゆる分野で在日朝鮮人を利用した。
マスコミの世界にもそれとなく潜り込ませ、スパイのような役割をさせていたんだ。
しかし、その連中のネットワークが余りにも今日巨大化してしまった」

「パチンコ・マネーや消費者金融などの資金を在日が握り、同じく在日帰化人が牛耳る
大手広告代理店(電通)と結託して、今や在日利権がマスコミ界を支配しているよ」
「裏社会と密接な関係にある興行(中略)も在日に握られており、プロダクションの多くが
在日系であり、格闘技などもそうだ。テレビ番組はほとんど在日に汚染されてしまった」

 「テレビ・メディアは完全に在日利権の支配下にあり、日本人は排除されている」 
その前に、わが国の国号がなぜ「やまと」でなくて「日本(にっぽん)」なのかを考えれば
日本(にっぽん)は日本人(にほんじん)が仕切っている国でないことは確かなのである。
日本酒(にほんしゅ)というのは日本人(にほんじん)が造る酒だからこそうまいのである。
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by munojiya | 2008-08-31 00:41 | Trackback | Comments(0)
生暖かい目
世の中にはシャープ(本質を見通した)な物の見方ができる人がいる。
恋愛至上原理主義というのは下らない物を売りつける戦略で、西洋の植民地経営における
分断政治なのだ、と書いているのは橋前勇悟氏というブロガー(ブログの書き手)である。
そういえば商業雑誌の商売のネタがそれだと今頃気がついて苦笑しているのである。

恋愛に勝つためと称してつまらない服とか高いバッグを買わせ、家庭に入った女は
お金を使わなくなるので離婚や不倫を煽ってお金を使わせようという記事が並んでいる。
恋愛至上原理主義の欠点は多くの人が不幸になるということである。
それは日本人(にほんじん)の生き方の原理とは異なるからあほらしいのである。

日本のアニメ(動画映画)とか漫画が世界にじわっーと浸透しているのは、
恋愛至上原理主義という拝金思想から脱却しようという動きなのではないかという。
そうなっては既得権が侵される権力を持っている人達は、既存の宣伝メディアを
見限ってネットに傾注する人達を攪乱して分断する策を取るに違いないという。

ネットで発言する人に対して攪乱工作員が対立を煽ったり嫌がることをやるようになる
というのであるが、電通などはもうそういうことを請け負っているという説もある。
それに対応する態度がまたやっているなという「生暖かい目」なのだというのである。
「むの字屋」は生暖かい目で見ている人達をお酒を嗜みながら眺めているというわけである。
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by munojiya | 2008-08-30 00:54 | Trackback | Comments(0)
目が悪い
自分の作品が芸術でないのに、
それを芸術だと思い込んで同じような絵ばかり描いている作家のことを
目が悪いと彦坂尚嘉氏はいう。
しかし、凡人には自分の絵が見えないのである。

そこで批評家という商売が成り立つのである。
自分では描けなくても他人の作品は見えるという人が必要なのである。
何でもそうだが自分のことはわからないものなのである。
庵主は写真を撮るが、自分が撮った写真はどれも可愛くてその優劣が判断できない。

それができる人をプロというのだろう。
そして、自分の絵がしっかり見えてそれを緩急自在に操れる人を天才というのである。
絵は、同じ作品が見る人の思い込みによっては1流にもなるし8流にもなるという。
8流というのは彦坂氏の物差しだからその意味するところはブログを読んでいただきたい。

武満徹の音楽と森村泰昌の作品が8流の実例として挙げられている。
8流というのは信仰領域なのだというが、その物差しが庵主にもわかりやすいのである。
庵主の書くお酒の評価が読者の心にかなわないとしたら、
さしずめ舌が悪いということになるか、その文章は舌っ足らずというわけである。
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by munojiya | 2008-08-29 01:10 | Trackback | Comments(0)
面白い、と言ってはいけない
つい、言ってしまうのである、面白いと。
面白いという言葉は物を書くときには禁句である。
芸人の名前が思い出せないが、その芸を見てただ面白いというと怒る人がいたという。
面白いのは当たり前で、どこが面白いのか自分の言葉で語れというのである。

おかしいも面白いだし、心にしみるも面白いだし、泣けるも面白いだから、
面白いというのは何でも使えるので何も言っていないのと同じだというわけである。
文章を書くときは、好きだと書いてはいけないというのがセオリー(経験則)である。
好きという気持ちが読者に伝わる別の表現を考えるのが書き手の技の見せ所である。

吟醸酒を初めて呑んだ人が
「うぁーおいしい。まるでワインみたい」とお酒をワインにたとえることがある。
これも禁句である。
言った人は最高のほめ言葉のつもりなのだが、感想になっていないからである。

ただ、似たような美しいものにたとえただけだからである、お酒に対して失礼である。
前日の「ちょっといい話」の締めがよくなかった、面白いと書いてしまったのである。
庵主が書くお酒の感想が平面的だとすれば、彦坂氏の批評は立体的なのである。
だから、おお、こうすれば作品が浮かび上がってくるのかと知って感心したのである。

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なぜ、お酒をワインにたとえてはいけないのか。
お酒に対して失礼なのか。
ここに素敵な女性がいたとする。
吉永小百合に雰囲気が似ている女性だったとする。

それを、まるで吉永小百合みたいといったら、
その人は吉永小百合の二番煎じだということである。
その人のイメージはわいてくるが、
それは結局は吉永小百合を褒めているということなのである。

褒めるのは、吉永小百合ではなく、その女の人の魅力的なところでなくてはならない。
吉永小百合を超える、いや吉永小百合とは違う美点を讃えなくてはいけないのである。
それを、吉永小百合みたいに素敵だと言ってしまったら
吉永小百合以上の魅力がないと言っているようなものなのである。

最大限でも吉永小百合のデッドコピー(引写し)でしかないということである。
コピー(模倣品)はオリジナル(本物)よりよくなることはないという限界があるから
誰かに似ているというのでは褒め足りないというわけである。
その人の本当の魅力を何にも語っていないということなのである、手抜きでなのである。 

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by munojiya | 2008-08-28 01:30 | Trackback | Comments(0)
ちょっといい話
ネットで見つけたのである。
いや、出会ったのである。
彦坂尚嘉氏のブログである。
ブログをやっている人だから暇人である。

が、これがおもしろい。
画(え)が写っているのになんにも写っていないという写真を見たのである。
シンディ・シャーマンが撮った女性が写っている写真である。
写真というのは何かを撮るものだと思っていたのに何も撮らない写真もあるのである。

アルコール中毒の人々が、/アルコールを飲む原因が、/
時間管理の不適切であると言われます。/
自分が何をしたら良いか分からないから、/酒を飲むのです。(/は原文の改行部分)
という部分もあったが、庵主の飲酒もそれに近いのかもしれない。

氏ぱ、見た目には同じように見えるものの違いを見分けることができる目利きなのである。
そのブログとの出会いは期待しないで呑んだお酒が異常にうまかったようなものである。
拾い物である、儲け物である、庵主がこれまで見えなかったものを教えてくれるのだから。
うれしかったから、さっそく、ついこうして書いてしまったのである。

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ちなみにその写真が載っているブログはこちらである。
そこでは、また、人物を撮った写真はその空間の方に意味があると書いてある。
人物写真は写っている人物ではなく、被写体の回りの空間こそが写真だという。
本質は見た目の反対側にあることが少なくないという庵主の思いに一致するのである。

氏が、これは一流だと認定した芸術で庵主にはちっともうまくないものがある。
いいお酒とうまいお酒とは異なるように、
いいお酒であってもそれが必ずしもうまいお酒とは限らないように
一流の芸術にも、いいお酒とうまいお酒の違いがあるようである。

その実例はこちらである。
一流だからといってもそのことにひれ伏すことはないということは
庵主がお酒から教えてもらったことである。
お酒が分かると芸術も見えてくるということである。

べつにお酒を呑むことを勧めるわけではないが、
お酒が呑めると芸術がより豊かに楽しめるようになるということは確かである。
なんといっても芸術は呑めないが、お酒は自分の体に入れられるのだから。
芸術は心を酔わせるだけだが、お酒は身も心も酔わせてくれるのである。

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余談
いま、ふと心に思い浮かんだことなのだが、、
芸術というのは悧口な人はやらないものなのではないかと気づいたのである。
これは書いちゃいけなかったか。

彦坂ブログの面白いところは芸術をきちんと評価(格付け)するという点である。
その評価がなんとなく頷けてしまうから庵主には読んでいて楽しいのである。
お酒のうまさも一つにはその評価にかかっているのである。
お酒の場合はそのお酒の位置を定めるといったほうがいいかもしれない。

そのお酒の位置がわかるようになってくると面白いのである。
そのためには数多くのお酒を呑む必要があるが、量はいらないのである。
量を楽しむ呑み方はまた別の呑み方でそれはそれで一つの世界をもっている。
書いては差し障りのあることを忌憚なく書くところは、氏はまさに芸術家である。

さて、こういうお友達の作品の格付けをすると、/人間関係的にはまずくなるのですが、/
しかし、やるべきと、私は考えるにいたりました。/
でないと、《批評》という事の意味が見えてこない。
といって、己の信じるところを書くのである、その批評が面白いのである。

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by munojiya | 2008-08-27 07:44 | Trackback(1) | Comments(0)
無駄を嫌う人は自分を否定するキチガイの部類である
無駄という言葉があるが、
無駄こそ人間の存在証明なのである。
無駄を毛嫌いする人は自分自身を否定するようなものなのである。
生きている人間は無駄を大量生産する生き物だからである。

庵主に言わせると人間の定義は、考える葦なんかではなく、無駄そのものなのである。
庵主のように無駄が多い人間こそより人間的だということである。
無駄を物(ぶつ)にしたものをゴミという。
ゴミをたくさん出す人の方が生活水準が高いことになっている。

庵主はいまこれまでため込んだ本を捨てようとして、それがゴミであることに気がついた。
ゴミ、すなわち無駄である。
庵(いおり)に平積みになっている数多くの本(紙の山)は二重の意味で無駄なのである。
それを捨てることでゴミになる無駄と、本は知識を伝えるに紙を浪費するという無駄である。

もっとも庵主は無駄こそ人間性だと思っているので無駄を厭(いと)わないから、
ネットで得られる知識より本の方がずっと好きなのである、それの方がより美しいから。
お酒を呑むことも無駄だという人がいるが、酒は簡単に無駄を作れるからいいのである。
考えてみれば書くのも無駄だし読むのも無駄だが、そんな生き方はつまらないではないか。
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by munojiya | 2008-08-26 10:24 | Trackback | Comments(0)
8月24日はお酒の日?
なんでも、8月24日はお酒の日らしいのである、ならばお酒を呑む口実になる。
お酒をこよなく愛した若山牧水にちなんでこの日がお酒の日になったというのだと、
ラジオが言っていたから、牧水の誕生日か亡くなった日なのだろう。
案外、牧水が初めてお酒を呑んだ日だとか、初めて酒で失敗した日なのかもしれないが。

こういうときはネット(電能連鎖空間)というシステム(伝達手段)は便利なのである。
本屋業界や書き手業界はネットで探してきた情報を軽薄な知識といって馬鹿にするが、
手元にそれを調べる術(すべ)がない個人にとってはこんな重宝なものはない。
庵主が欲しいのは本(「有体本」)という物(ぶつ)ではなくその知識なのだから。

物である本を愛でるというのは知とはまた別の趣味なのである。
女が好きといっても、恋愛趣味と緊縛趣味とは異なるようなものである。
本の欠点はすぐたまってしまい、かつそれがなかなか捨てられないということである。
庵主はいま本を捨てることに苦労しているところなのである、本は無駄と同義語かと思う。

草森紳一(故人)はため込んだ書籍が崩れてきて死に損なったことがあるという。
本は凶器なのである、正しくは狂気というべきか、狂喜でも強記でもいいけれど。
で、お酒の日ではあるが、ネット(無体本)で軽く調べたら8月24日は牧水の誕生日で
「愛酒の日」なのだとあったが、もっと重く調べると誰が決めたかもわかるかもしれない。
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by munojiya | 2008-08-25 00:27 | Trackback | Comments(0)
純米大吟醸「車坂」鑑評会出品酒
鑑評会の出品酒というのがある。
鑑評会は美人コンクールみたいなものだから、入賞するお酒はどれも「美人」揃いである。
そういうお酒は最初は見た目が麗(うるわ)しくていいと思うのであるが、
二杯目は呑みたくない、すぐ飽きてしまうからである。

しかも、どの蔵のお酒を呑んでも似たように見えるから面白くないのである。
似たように見えるとはいっても、たしかに呑み比べてみると違いはあるのではあるが、
その違いが分かると己の鑑定能力は確かなものだと悦にいることはできるのだけれど、
赤と紅と朱の色の違いみたいなもので、青や黄といった変化がないからつまらない。

だから、鑑評会の出品酒はいい原料を使って手間隙掛けて造られた美しいお酒だ
とはわかっているけれども庵主にとっては呑む時にはあとまわしにする酒なのである。
お酒を呑む楽しさはそのお酒の欠点に惚れ込んじゃうところにある。
というより欠点が許せてしまうところにある、魅力は欠点の味わいにあるということである。

この味わいを自分は支持するという絶対の満足感がうまいのである。
和歌山の「車坂」の純米大吟醸鑑評会出品酒と神奈川の「相模灘」の純米吟醸とがあって、
なのに「車坂」の方を買ってきたのは、前者は四合瓶、後者は一升瓶だったからである。
庵主の鞄には四合瓶は入るが一升瓶を入れることはかなわないからなのである。
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by munojiya | 2008-08-24 12:51 | Trackback | Comments(0)
日本酒の終焉
北京五輪の開会式の映像で流れた巨人の足跡の花火(庵主未見)がCGだったという。
CG(コンピューター グラフィック)は、コンピューターで想像を映像化する技術のことである。
技術の進歩は早いから今では庵主の想像力を越えることがそれでできるにちがいない。
その気になれば物故(ぶっこ)した男優と女優が出演する新作映画も作れるのだろう。

その開会式に関しては、そこに人間が出ていてもそれ自体が本質的にはCGなのである。
大マスゲームというのはコンピューターがない時代のCGだったということである。
「ジュラシックパーク」で恐竜が実写のように動くのを見て庵主は映画は終わったと思った。
もうそれを越える感動はないからである、映画は越えてはいけない一線を越えたのである。

写真がフィルムからデジタル画像に変わったときも、庵主は写真はもう終わりだと思った。
写真に対する興味が急に失せてしまったのはただの加工素材になってしまったからである。
写真を撮るためのカメラから、カメラを売るために写真になってしまったといっていい。
瞬間勝負ではなく、暇人(尊称)のための時間浪費の趣味に化してしまったのである。

鑑評会に出品するお酒というのがあるが、庵主の興味の範囲外にある酒である。
もちろんそれらの酒は実にきれいなお酒なのであるが、残念なことにうまくない。
日本酒も技術に任せて一部のお酒はその一線を越えてしまっているのである。
本当にうまいお酒は一口接したときに気合が伝わってくる瞬間勝負の酒なのである。
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by munojiya | 2008-08-23 01:41 | Trackback | Comments(0)
缶入りの水割りウイスキー
ありがたい友の一人は物をくれる友だと書いていたのは鴨長明だったか。
記憶が定かでないのは庵主の常識が崩壊しつつあるからである。
常識に依存しないで生きていける年齢になったということなのかもしれない。
つまり、世間から相手にされない年齢になったということなのである。

それを自由の身になったというか、束縛という前提のない自由はないのと同じだ嘆くべきか。
セブンイレブンで交換してくれる缶入り水割りウイスキーの引換券をもらったのである。
人に物を贈るときは自分が要らないものを送っていけないという。
自分が欲しいものを、あるいは自分があこがれている価値ある物を贈るものだという。

自分にとって大切なものを相手に上げるということが贈るという意味なのだという。
そいうものを贈られる方もいい加減には受け取れないということなのである。
だから庵主には呑めないお酒の処分に困るのである。
そんな酒を他人(ひと)に上げることができないからである。

だから最後にはお風呂にいれてしまうのである、ああ勿体ないとも思うのだが。
物をくれる友からいただいた「サントリー特選白角水割」は果たしてうまいのか。
サントリーが「水割上手見事腕前」で造った水割りだから、まずいわけはないのだろう。
9度まで薄められたウイスキーのうまさを庵主は今は理解できないのだけれど。
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by munojiya | 2008-08-22 10:03 | Trackback | Comments(0)