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お大事に
病院の接客用語である。
診察や治療を終えて帰る患者に対して美人の看護婦さんがいたわって声をかけてくれる。
「お大事に」。
急性アルコール中毒の患者には一番ぴったりの言葉である。

体が丈夫でないとお酒が呑めないから体をいたわって呑んでねという心遣いである。
その「お大事に」が出てこなかったことがある。
病気見舞いを認めていたときに、最後に締める言葉にそれを使おうと思ったのである。
ところが、それが記憶の底に沈んでいて、どうしても浮かんでこなかった。

で、手紙に書いた言葉が「ご大切に」。
あとからそれは違っていたと気がついたときは後の祭だった。
「ご大切」とは、キリスト教の「神の愛」を日本語に訳したときに使われた言葉である。
相手の宗派によっては呪いの言葉と取られかねない、ご自愛くださいでよかったのである。

病院では使えない接客用語が「どうぞまたお越しくださいませ」、特に大病をした人には。
居酒屋の中には、
暖簾をくぐると「いらっしゃいませ」ではなく、こういって迎えてくれるお店があるという。
「お帰りなさい」。
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by munojiya | 2008-12-31 00:57 | Trackback | Comments(0)
番外篇 管理人
ネット用語に管理人という言葉がある。
ホームページやブログの運営を技術的に管理している人のことかと思ったら、
その書き手を管理人と呼んでいるのである。
もともとはパソコン用語なのかしれないが、庵主には違和感が拭えない言葉である。

管理人といったら、マンションの管理人みたいに使用人のことだろう。
マンションの持ち主を管理人とはいわない。
HPやBG(ブログのこと)では、その持ち主を管理人と呼んでいるのである。
それをいうなら主宰者と呼ぶのが限度だろう、ブログ主という言い方もあるが。

版元という言葉がある。
本を企画して販売普及する人である。
自分がいいたいことを世に広める行動力のある人のことである。
HPやBGでいう管理人というのは版元と呼んだ方が近いのではないか。

コンピューターという技術に由来する味もそっけない言葉が管理人なる用語である。
人間の思いを著す出版文化からいえばそれは版元ということになる。
工業製品であるアルコールに依存した三増酒に由来する酒を普通酒と呼んでいる。
造り手の思いを込めて醸した清酒はお酒というのである、庵主はお酒を好むのである。
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by munojiya | 2008-12-31 00:55 | Trackback | Comments(0)
近ごろ都で流行るもの
鹿児島県産のさつま揚げの表示を見たら、
原料名の中に「地酒」というのがあった。
庵主は地酒といえば、つい清酒を思い浮かべてしまうが、
鹿児島だから、それは芋焼酎ということなのだろう。

都というのは、京都のことなのか、はたまた明治になってからの東京のことなのか、
ふと出典の時代が判らなくなってネットで調べてみた。
その検索サイトでは、近ごろ都に流行るもの、として出てくるのである。
都で、ではなく、都に、なのである。

庵主の日本語感覚が狂っていたのである。
がしかし、大方の人がいうそれもまた間違いだったのである。
此頃都ニハヤル物、が二条河原の落書の原文だった、このごろ、なのである。
みんないい加減に使っているということがわかったのである。

ネットという都では今、日本と対比して中国、朝鮮を馬鹿にするサイトが賑わっている。
真っ当なところは、馬鹿にする次元を越えて、日本の特質を見極めるようになっている。
馬鹿はそれを指摘しても直らないが、自分の美点はより磨きをかけられるからである。
普通酒を馬鹿にしてはいけないのである、真っ当なお酒を寿げばいいのである、明日は春。

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ブログというシステムを考えた人は多分こういうのを想定していたのに違いない。
コメントやトラックバックは罵声・非難のためではなく情報研磨のためにあるのだから。
それがこの中韓を知りすぎた男である、日本人でもできるじゃないかというブログである。
今年、それにめぐり会えたことを仕合わせと感じたという人が多いブログである。

「日本の繁栄は大東亜戦争で亡くなられた英霊の皆さんが守ってくれたのだと思っています。
家族を、村のみんなを、国民すべてを守るために
命を投げ出してくださった方たちの純粋な思いが、
GHQや中共の反日教育にも勝って、国民の意識に深く刻まれているためだと思います。

そして来年は、その反日勢力との決戦の年になりそうな気がします。 」
という同ブログのtaizou氏のコメントにコロリときちゃうのである。
陰謀史観では、その反日勢力の総本山がなんと日本政府だったという
どんでん返しがあるからたまらないのである。

現在のわが国がアメリカの植民地であるということは直感的に分かることであるが、
その中で憲法九条を守れという人達のいかがわしさも同じ直感が感じているところである。
庵主が、真っ当なお酒はうまいと感じるのも、その直感がかぎ分けているのである。
うまいお酒とはなにかという真実に迫ることが「むの字屋」の一貫した主題なのである。

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by munojiya | 2008-12-31 00:33 | Trackback | Comments(0)
ちょっとだけ、いいお酒を呑みたいと思いませんか
日常生活というのは平穏、平凡をもってよしとする。
いつもとなにも変わることのない生活が日常生活である。
きのうもそうだった、あしたもまたそうなるだろうという予定調和の生活のことである。
それをケという、漢字では褻と書く。

褻の反対が晴れである、ハレである。
晴れ着の晴れである、非日常ということである。
ケは質素に、ハレは豪奢にである。
メリハリである。

だから、質素には普通酒でもいいのである。
考えようによってはじつに惨めなお酒である、恨みを感じないでは呑めない酒である。。
庵主ならあれは人間の呑む酒ではないといいきってしまう。
うまくもなんともないからである、それを普通酒という。

しかし、ケはハレを引き立てる日常のことである。
ふだん、そんなお酒を呑んでいたら、ハレのお酒のうまさがいやますではないか。
庵主は普通酒の意味が長らくわからなかった、何が普通なのかがわからなかった。
いま、普通酒の定義を知ったのである、それはケの酒なのである、贅沢無用、斟酌無用。
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by munojiya | 2008-12-30 01:06 | Trackback | Comments(0)
お正月用のお酒
お正月用のお酒が届いた、「初亀」の新酒である。
雄山錦、精米歩合63%の本醸造原酒で、度数が18度。
そのうまさ、十分にして、贅沢至極。
こんなうまいお酒を呑んだら罰が当たるのではないかと心配になってくるほどである。

それまで、赤ワインのうまさに酔っていたのに、
日本酒のうまいのを味わうと、ワインの感興が吹っ飛んでしまうのである。
真っ当なお酒のうまさは、ワインのそれよりも庵主の心をくすぐるのである。
体に合っているということである、口にすると体がうっとりするのである、あー、うまぇ。

日本人の体を天から授かった喜びをひそかに感じる瞬間である。
こんなことは大きな声で言ってはいけないのだろうが、
日本人に生まれたことは、ことお酒に関しては最高の幸せを授かったのと同じである。
なのに、そのお酒のうまさをまだ味わったことがない人がいるということである。

そのような日本人を勿体ない生き方をしているなと庵主は思うがそれも天命なのだろう。
もっとも、うまいお酒に縁のない人はこの「むの字屋」とも縁がないだろうから、
そういう見方をされていることさえ知らないわけで生きていく分には何ら支障はないのである。
それを演歌では運命(さだめ)というのだろうが、演歌も日本人の心をくすぐるのである。

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いや、演歌の言葉にくすぐられる人が日本人というべきなのかもしれない。
お正月にはかねて買い求めて何年か仕舞っておいた「亀」の封を切るという人がいる。
三年の熟成をへて出るお酒である、それを数年寝かせた「亀」だから、うまそうである。
しかし、庵主はそれを見て羨望の気持ちはわかない、今度の新酒で十分だからである。

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by munojiya | 2008-12-30 00:55 | Trackback | Comments(0)
創唱権
ジャスラックの役員だか役員をやっているという永六輔がラジオで怒っている。
藤山一郎(故人である)の歌を聞いたという。
その歌手は、当世風のアレンジ(編曲)でその歌を唄ったのだという。
ちゃんと藤山一郎のように唄えという。

「君が代」を式歌として歌うときにジャズ風に演奏して首になった先生がいる。
なんでも国歌が嫌いだというのがその先生の自説らしいが首になって当然である。
葬式に真っ赤な服を着て参列するようなもので感覚が世間とずれているのである。
学校は世間の規範を教えるところだから芸術的演奏は必要ないからである。

さあ、著作権なるごろつき法律の話になる。
烏なぜ泣くの、烏の勝手でしょうと唄って訴えられた人がいる。
替え歌はいかんと、著作権者が訴えたのである。
ならぱ、その歌を正しい歌詞で唄っとも音痴だったら著作権法違反で訴えられるのか。

創唱権というのは、その歌の最初の歌い方をいうらしい、元の通りに歌えというのである。
古典音楽で指揮者によって演奏(味わい)が変わるのもやってはいけないことらしい。
そのお酒をまずいと書いたら、営業妨害で訴えられるようなものである、濫訴だろう。
庵主が邪推するに、烏の勝手のTV局はその著作権者に“礼”が足りなかったのだろう。
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by munojiya | 2008-12-30 00:49 | Trackback | Comments(0)
番外篇 笑い話のネタ
笑覧されてしまったことがある。
文字通りの忌憚のない感想だったのか、知らずにそう書いてきたものか判らないが、
庵主が「ご笑覧ください」と書いて送った「むの字屋報」に対する返事がそれだったのである。
案外、諧謔のつもりだったのかもしれないからそれ以上は詮索しないのだが。

安倍晋三首相に、安倍晋三殿と書いて手紙を送った国会議員の話がある。
総理大臣の敬称を何と書くか知らない議員がいるというからかいであるが、
しかして、庵主もそんな偉い人に手紙を書くことがないので
はたしてなんと書いたらいいのかわからないのである。

庵主は、漢字が読めないこと、総理の如く、教養がないこと、国会議員の如し、である。
猿でもわかるなんとか、といういい方があるが、その猿を笑えないのである。
TVの番組で現役の国会議員に今のロシアの大統領の名前を聞いたら、
ちゃんと言えない人が少なくなかったという目も当てられない事実がある。

プーチンは今は首相だから、庵主も自信がなかったのですぐさまネットで確認したものだ。
シュワルツェネッガーほどではないが、その覚えにくい名前を覚えたところで、おっと思った。
来年は、選挙もあるから国会議員にでも打って出ようかと野望がもたげてきたのであるが、
当選したら、祝酒は「當選」かと、話はやっぱりお酒に向かってしまうのである。
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by munojiya | 2008-12-30 00:41 | Trackback | Comments(0)
十分なうまさ
うまいお酒が呑みたい、と思うものなのである。
もっとうまいお酒があるにちがいない、と貪欲は尽きないのである。
そうなるとキリがないのである。
これでいいということがないから、日々心の平安が得られないということである。

自分はそれを知らないことで損をしているのではないかという不安のことである。
妥協、という言葉があるが、その言葉は心の安定剤なのである。
その言葉があきらめ点だからである。
それ以上深追いしないですむ地点なのである。

お酒でもなんでも、自分にとってはそれだけのうまさがあれば十分だという水準がある。
それ以下では味に不満が残るが、その水準に達していれば満足できるという線である。
その線を見つけたら、そして、その線に出会えたら、それは幸せということである。
自分が満足できる水準ということである、それなら妥協ができるという一線である。

精米歩合が70%でうまい酒。
アルコール度数が17度でうまい酒。
お酒がもっている甘さが味わえるうまい酒。
庵主が、それらを満たした十分にうまいお酒を持っていることは以前に書いたとおりである。

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スキーのジャンプ用語のK点は、それを越えて着地したら危険な地点という意味である。
お酒のK点はそれとは逆で、それを越えたら納得できる安心の味わいという意味である。
庵主が造ったお酒用語であるが、K点を越えたお酒なら庵主でも呑めるというわけである。
「ふなぐち菊水」の味わいと満足感をいうから、菊水からKIKUSUIのKである。

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by munojiya | 2008-12-29 09:42 | Trackback | Comments(0)
番外篇 いい活字は美しくてはいけない
久しぶりに本屋で立ち読みをした。
昔とちがって、ほんの数ページをめくってみるだけである。
一冊を読み切る気力がなくなったからである、おっとそれをやったら情報窃盗じゃないか。
いまはその本の版面(はんづら)を眺めるだけである。

それだけで、その本の気合を感じるからである。
造り手の気持ちがそれで、なんとなく伝わってくるからである。
版面が美しくない本を読みつづけるのはつらい。
どうせ中身はたいしたことは書かれていないのだから、読むなら見掛けが美しい本がいい。

中には見掛けだけで本当に中身がない本もあるがそれは絵を見ているとあきらめて。
美人がそうであるが、見掛けが美しいというのはそれなりの価値があるからである。
人の品格とはその見掛けを磨くことだからである、中身はどうでもいいのである。
そういえば、お酒も商品だから見掛けは美しいものがあるのは本と同じである。

それは内田樹(著者名敬称略)の本だと思ったがその中にそれがあった。
いい活字とは、美しいこともさることながら見飽きしないものである、という卓見である。
活字は美しいというのも目障りだということである、目立つ書体はすぐ見飽きるのである。
たしかに、うまいお酒よりも呑み飽きしないお酒というのがよりいいお酒なのである。

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活字に、美しいとされている精興社(せいこうしゃ)の明朝体がある。
一目見れば誰でもわかる独特のデザインであるが、すぐそれが鼻につくこと請け合いである。
庵主はそれを使っている本を見るとつい退いてしまうのである、書体がうるさいからである。
話は変わるが、庵主はこういう楽しい美しさが好きなのである、おあそびともいうが。

自分で書いた上の文章を読み返していてハタと気がついたのだが、
内田樹の本の中から、庵主の物の見方が変わる一行を読み取ってしまったら、
その本をまるまる立ち読みしたのと同じなのではないかということである。
立ち読みは業界の許容された慣習ということで、合法的情報窃盗ということにしておこう。

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by munojiya | 2008-12-29 09:10 | Trackback | Comments(0)
詩は結果 <日曜版>
歌手に二通りある、酒呑みにアルコールに酔う人と味わいに酔う人がいるように。
譜面を唄う歌手と歌を唄う歌手である。
譜面を唄う歌手は歳をとるのである。
歌を唄う歌手は、歳をとってもその歌が変わらない、かえって歌がよくなる。

若くて、下手くそな噺家も、歳をとったらそれなりに聞けるようになるという。
噺が体に溶け込んで違和感がなくなるからだろう。
譜面を唄う歌手はその肉体がさびていくのである。
往年と今との落差が大きいということである。

どっちの歌手がいいということではなく、そういう二つの類型があるということである。
譜面を唄う男の歌手は、女が唄う歌を唄えないが、歌を唄う歌手はそれができるのである。
歌の芯を唄うことができる歌手か、そのスタイルを再現する歌手かの違いでもある。
歌というスタイルに合わせて唄うか、その唄が結果的に歌となっているかの違いである。

歌というのは感情の吐露であるから、それが他人に伝わるかどうかということである。
スタイルなら、細めの人が着て美しいものでも太めの人には合わないのである。
感情なら肉体の肥痩に関係なく心を打つことができるのである。
詩というのは、スタイルをいうではなく、その感情が人の心にふれる詞藻をいうのである。
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by munojiya | 2008-12-28 02:04 | Trackback | Comments(0)