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2016-12-31 4分50秒の絶唱に涙をこらえられか
熊本弁の歌である。
いい歌だね 泣けた!』(典拠甲米)。
……[庵主翻訳:ただただ]
泣ける』(典拠甲米)。庵主は、その1:16で落涙した。その歌詞に不意にこみあげてきた。

そのフルバージョン(全編歌唱)である。
その歌を聴いて、日本語の分かる黒人青年が大泣きしたというのである
彼女の歌声は俺の魂を嵐のように故郷まで運んでしまう、まるでパパとママの言葉のよう、
パパとママが俺に語りかけてくれるよう、こんな激しい歌声を、俺は他に知らない』(同)。

この歌唱力に泣ける』(典拠乙米)。
泣かせますね!』(典拠乙米)
“帰ってこいよ”と言うよりも“帰って来なくていいよ”と言うほうが胸にこたえる日本語の
繊細な表現は本当にいいものです。』(典拠乙米)。反日は馬鹿だが、反語は真情なのである。

泣ける、泣けた、涙した、と殆ど「君の名は。」状態の歌はこれである
フルバージョンでないとこの歌のすばらしさは伝わらないように思いますね。
亜矢ちゃんでないと歌いきれないでしょう、感激です。』(典拠甲米)。
旨いお酒を口にすると本当に涙がこぼれてくるのだ。心にしみる歌もそうであるように。 

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典拠:
典拠:
庵主はその歌を今大笑いをしながら聴いているのである。勿論、涙がとまらない中で、である。
泣かせのツボを衝いてくる技の見事さに快哉を覚えながら。その技に共鳴してしまったのである。

素晴らしい、この歳(66)になったからでしょうか、50代の頃、島津亜矢さんがカバーで
歌われた俵星玄蕃(オリジナル三波春夫さん)を聞いて、なんと素晴らしい歌謡浪曲だと思い
ました。また多くの演歌を改めて亜矢さんから教えていただきました。この曲も素晴らしい、
心の中に染みこんできます。亜矢さんお歌唱力には脱帽です。』(典拠米)。もう1度聴こう

객지에 보낸 자식을
생각하는 부모는 모두
동일할께요? 저도 그러닌까요?? 심금을 울려주네요. 정말로
잘 감상 했습니다.』(同前米)。何を言っているのか分からないものの、ここで翻訳できる

本文中で庵主が不意を衝かれた歌詞というのは日本人がやってはいけないその一言なのである。
“贅沢”私もよく言われて育った九州人です。熊本の皆さんも亜矢さんの歌声に救われている
方が多いと思います。いい歌手ですね。』(同前米)。
「贅沢」である。その「贅沢な」お酒を呑んでいる自分に忸怩たる思いを感じたからなのである。

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46歳にして初めて演歌に泣かされました。
紅白で観ました。
カナダから応援します。また次の紅白も出てほしいです!』(典拠米)。
コメントの投稿日が11か月前になっているから、この紅白とは2016年のそれだろう。

すなわち、今日のことである。今年(2016年)の紅白に出るのかどうかは判らないが。
このステージにいる何人かの人はこの歌を聴いて身につまされているのでは?
こういう思いで故郷を出てきたのでは?
この歌身にしみますねー。故郷を捨てて、都会に夢を求めてきた人には堪えられない一曲ですよ。

それにしても島津さんの歌唱力は凄い。
ステージにいる人、みんな負けたと思っている顔ですね。』(同前米)。
おそらく、みんな負けた、いや完敗したと思ってるはず。』(同前米)。絶唱に乾杯だ。
この映像の時代はもう古いが、現在第一線で人気と実力があるのはやはり島津亜矢さん。

この時代にすでに天賦の才を匂わせており、先輩方がいくら長年ステージに立とうとも、
天才には敵わず。』(同前米)。
熊本人です。歌詞がわかる分余計感動もんです。亜矢姫はじめ八代亜紀・石川さゆり・水前寺
清子と、情け歌の御所が熊本出身とは誇りもんです。』(同前米)。森高千里もいるけど。

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だめ押しである。今年貯め込んでしまった涙を全部振り絞ってしまおう。
ついこの前までは、親父とお袋を思い浮かべて泣きながら聴いてたのに、最近は子供たちを
思い浮かべながら……
泣けますよね~』(典拠)。

しかし、泣かせるのである。 
私は、この動画を見るまで、ばってん荒川という人を知りませんでした。
この人は、ものすごいプロ根性を持った人ですね。歌唱力もそのへんのベテラン歌手をはるかに
凌駕している。感動した。涙が出た。』(同前米)。

涙が溢れます。』(同前米)。
涙して聴いています』(同前)。
日本人の歌』(同前)
やべえ、荒川さんで泣いた』(同前)。

この歌の作者、関島秀樹さんの『生きたらよか』。
これが「帰らんちゃよか」の原曲です。ぜひ聴いてみてください。』(同前米)。
生まれも育ちも北海道の還暦過ぎの爺さんです。この歌を知ったのは一週間前、聞いて涙・涙
ばってん荒川さんの朴訥な語りかける歌い方、「じぃ~ん!!」ときちゃいます。』(同前米)。

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初めて聞きました。涙、涙、涙が止まりません。演歌に興味無かった私ですが、島津亜矢さん
の他の歌も聞き、凄い歌手であると、素人ながら確信しました。言葉が良くわかり、こんなにも
歌詞に感情を込められる歌手は、少なくなってきました。しかし、亜矢さんは、なにを取っても
最高です。』(典拠)。

自分は恥ずかしながら初めてこの人とこの曲を知りました
仕事の車の中でAMラジオから流れていました。そこでハンドルを握りながら、故郷で闘病して
いる母親を思い浮かべながら泣いてしまいました[。]
この曲に出会えたことに感謝しています。』(同前米)。

この動画の時からはや10年、現在の亜矢様は、多分自信にうらずけられた一層の落ち着き・
風格がにじみ出ておられて、大きく成長されたと感じます。
改めて、今の亜矢様にオーケストラを従えてこの歌を歌ってほしいと熱望します。
それにしても、おとこ歌・おんな歌・親子の情愛歌、はたまた歌謡浪曲、おまけにPops!

これだけ幅広いジャンルの歌曲を、全てにわたって魂こめて表現できる能力というのは
どういうものなんでしょうか? よくひばりさんが引き合いに出されますが、私にはひばりさん
をはるかに超えた存在です。多くの皆さんがおっしゃるように、我が国の宝・文化財です。
健康を大事に・のどを大事にされ、ますますの大成を祈ります。』(同前米)。

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これが決定版である
オーケストラをバックに歌う「帰らんちゃよか」よりギターだけの演奏のほうが
じっくり聴かして感動する。まして、関島さんのギター・ハーモニカが秀逸で、思わず泣けて
くる。ありがとう!』(典拠米)。引用文中のリンクは庵主。

島津亜矢が完成させた歌なのである。
関島秀樹氏の「生きたらよか」から故ばってん荒川氏へ、そして亜矢姫へと徐々に楽曲として
完成されたような気がします。
それにしてもやはり親とは有り難いものです。』(典拠米)。

初めて聞いて涙して聞きました!一昨年なくなった父親が語りかけているような思いがして
胸が熱くなりました。』(典拠米)。
涙が、何回聞いても流れます。詩も曲も歌唱力も素晴らしい~こんな歌に出会えて幸せを
感じています。遅まきながら、70歳にして亜矢ちゃんのフアンになりました。』(同前米)。

何度聴いてもよか! 何回聴いてもなみだする! 時の流れは島津亜矢に沿っていなかった。
演歌・歌謡曲の全盛時代なら、賞の全てを総取りだったでしょう、確信します。
声でケイウンスク、八代亜紀、唄で香西かおり。しかし、島津亜矢はもっと大きいかな。
そんな気がします。情の深い熊本の女、表現力もすばらしか!』(典拠米)。

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by munojiya | 2016-12-31 09:55 | Trackback | Comments(0)
2016-12-31 「君の名は。」を観てもらいたくない人
いま、若い人に、そして時代の変化を楽しむ事ができる古い世代の人にも大人気のアニメ映画が
新海誠監督の「君の名は。」である。
逆に、古い世代の人に圧倒的人気で、そこから若い人にも人気になっているのが片渕須直監督の
「この世界の片隅に」である。

〈じゃく〉から老〈ろう〉、そしてその逆の現象が同時に起こっているのである。
「この世界の片隅に」は誰が見てもいい映画だが、「君の名は。」は見てもらいたくない人が
いると新海誠監督は言っている。

見てほしくないその人の名は。
“君〈そ〉の名〈なまえ〉は”、「宮崎駿」だという。
正直なところ、宮崎[注:崎は立可の崎]駿監督には「君の名は。」を
観てもらいたくないです。

ありとあらゆる欠点が見抜かれてしまいますからね』(典拠1:06)。
庵主は、城戸〈きど〉四郎の「撮影所に小津安二郎は二人いらない」という言葉が好きだ。
アニメ映画も、宮崎駿は二人いらないのである。若い人に媚びた宮崎なんか観たくないから。
どんな旨いお酒だって、例えば「開運」でも、庵主は続けて2杯は呑みたくないのである。

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新海監督の上のコメントに対するコメントが可笑しい。
新海の蛇足だ』(典拠)。
そこまで手の内を明かす事はないよ、というわけである。
『[ロサンゼルスで行った試写会で]観客は泣いたり笑ったり。

実は映画制作時に観ている人達が
どういう反応を見せるのか
グラフにしていたのですが、
ピッタリでした。

うまくハマってくれたのは嬉しかったですが、あまりにもうまく行きすぎて怖くもなりましたね。
やりすぎたかも!』(同前1:43)。
それはともかく、景気の悪い今の日本で、日本人を元気と勇気を付けてくれる「君の名は。」と
「この世界の片隅に」は時の日本人が期せずして作り出したビタミン剤なのである。

いい気分で新年を迎えようよ、ということである。
どちらの映画も情報過多映画で、一回観ただけではその面白さを全部吸収しきれないという。
二回でも三回でも観れば観るほど面白くなるスルメ映画は年寄りの時間潰しには最適である。
まだ観てない人は、騙されたと思って二つとも観た方が得するみたいである。

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タイトルを見て「監督ご乱心!?」と思ったら、
ただただ謙虚な人だった。
ハリウッド[庵主ルビ:〈うぬぼれや〉関係者は
こういう部分を見習うべきだと思うの。[見習わなくてもいいけれど]』(典拠2:27)。

まぁ謙虚だよな。
「君の名は。」の成功で
図に乗るような人でないことが
分かってよかったよ。』(同前2:38)。「人」に「HM」というルビを付けたら嫌味になるか。

さあ、この人の直感にかけることができるか。
というか、
本当にこんな発言をしたってのが信じられない。
ネタじゃないの?』(同前3:47)。

AFP通信社とのインタビューで
「もう誰にも観てもらいたくない」
「健全な状態ではない」
などと胸の内を語っている』(同前0:24)というのがツカミであるが。

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by munojiya | 2016-12-31 00:02 | 世話物 | Trackback | Comments(0)
2016-12-30 韜晦
「韜晦」。「とうかい」と読む。
本を読み過ぎることを書淫〈しょいん〉という。
書淫になると覚える言葉が「韜晦」である。
自慢でないが、「韜晦」、庵主は書けないのである。

庵主は、「薔薇」はなんとか書けるが、「讒言」とか「纏う」になるともう書けない。
「韜晦」も書けない漢字に列しているのである。
庵主もいっぱしの「嫌韓人〈けんかんにん〉」だから「韋」の字を見るだけで辟易するのである。
「韋」は偉人の韋だから立派なことをいうのだろうに、「韓国」の「韋」は皮肉か嫌味か自虐か。

韓国も立派な国という意味なのだろうが、残念なことに国民のレベルが、以下省略。
「韜晦」。それは庵主が死ぬまでに一度は使ってみたい憧れの言葉なのである。
『[島崎藤村は]それが30歳をすぎて「破戒」を構想し、それを自費出版したのちに二人の娘
をつづけて失ってからは、しだいに漂泊と韜晦の二つに惹かれていったかに見える。』(典拠)。

「韜晦」は「きざ」と読むのかもしれない。漢字の読み方は自由なのだから。
次の言葉も一度は使ってみたい表現である。多言無用の境地のことである。
藤村はこの最も劇的な場面で、よけいな言葉を費やさない。』(同)。
言葉で言わなくても自分には分かるという韜晦である。旨いお酒もそうだからよく分かるのだ。

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松岡正剛の文書が面白い。その一端を引用しておく。
では、過誤ではない歴史とは何なのか。過誤を避ければ苦渋がないかといえば、そんなこと
もはや日本の歴史にはおこりそうもなく、たとえば三島由紀夫の自決のようなかたちでしか
あらわれないものかもしれないのだが、それでも藤村は結果的ではあるけれど、

唯一、「夜明け前」をもってその過誤を問うたのだった。答えがあるわけではない。むしろ
青山半蔵の挫折が答えであった。
いやいや、「夜明け前」には答えがある、という見解もある。このことをいちはやく指摘した
のは保田與重郎であった。

いまは「戴冠詩人の御一人者」(昭和13年)に収録されている「明治の精神」には、次の
ような意見が述べられている。「鉄幹も子規も漱石も、何かに欠けてゐた。ただ透谷の友藤村が、
一人きりで西洋に対抗しうる国民文学の完成を努めたのである」。
実はこの一文には、篠田一士も気がついていた。

篠田はこの保田の一文に気をとられ、自分の評価の言葉を失ったとさえいえる。しかし、さすが
に「夜明け前」を国民文学の最高傑作だというふうには言うべきではないだろう。
そこは徳富蘇峰とはちがっている。』(典拠)。
庵主はこれを読んでいて、意味が判らなくてもワクワクしてくるのである。又本屋に行こうかと。

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そういうわけだから、「夜明け前」を国民文学とか西洋との対決とはいえないのだが、それで
もこの作品は日本の近代文学史上の唯一の実験を果たした作品だったのである。われわれは半蔵
の挫折を通して、日本の意味を知る。もう一度くりかえてしておくが、その“実験”とは、
いまなお日本人が避けつづけている明治維新の意味を問うというものだった。

どうも「千夜千冊」にしては、長くなってしまったようだ。その理由は、おそらくぼくがこれを
綴っているのが20世紀の最後の年末だというためだろう。
ぼくは20世紀を不満をもって終えようとしている。とくに日本の20世紀について、誰も
何にも議論しないですまそうとしていることに、ひどく疑問をもっている。

われわれこそ、真の「夜明け前」にいるのではないか、そんな怒りのようなものさえこみあげる
のだ。』(典拠)。
引用文は、書名の「夜明け前」は“『夜明け前』”と二重括弧が使われているが、ここでは庵主の
引用規則に従ってシングル括弧にしてある。

したがって引用文最後の『真の「夜明け前」にいるのではないか』の「夜明け前」は書名のそれ
と区別する括弧だということである。
庵主がこれを書いているのは2016年も押し詰まった12月29日である。区切りの前には人
はセンタメンタルになるようである。昭和最後の秋のときも、人はそうだったようだ。

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「昭和最後の秋のこと」は、庵主はたまたま山下ヤスミンを知って初めて聴いた歌である。
名曲である。
作詞阿久悠、作曲浜圭介。
浜圭介が歌う「昭和最後」も味がある。

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by munojiya | 2016-12-30 00:04 | 世話物 | Trackback | Comments(0)
2016-12-30 南鮮のそれはほざく、日本のは嘯く
「嘯く」とか書いたが、正しくは「嘘吹く」と書いた方がいいみたいである。
マスコミの報道姿勢のことである。
南鮮のマスコミは「報道」ではなく、その歴史同様「ファンタジー」だというのである。
ファンタジーが発信する情報を「ほざく」というのである。

ただ願望だけを書いていて、現実を見る目がないからである。
同じ幻想をいだいていたいという読者には好評なのだろうが、本当の事を知りたいと思っている
日本人には何の役にも立たないということである。
知りたいのは事の善し悪しではなく、何が起こっているかということである。

その「何が」がそうなってほしいという願望で包まれた「事実」なら、読んでも仕方がない。
実際は黒い色なのに、白い色を望むというので、それを「白」だと報道するようなものだから。
本当の処が見えてこないからである。親分が黒を白だと言えば、白になる世界もあるけれど。
ならば、日本のマスコミは。

「嘯く」である。「嘘吹く」である。日本人としての自覚がない人がやっているからである。
本当はそんなことは思っていないのに、スポンサーのために、その言う通りに嘘〈よた〉記事を
書いているからである。スポンサーは、米国だったり、中国や南鮮だったりするのだろう。
今のお酒も9割方は醸造アルコールをまぜて造った紛い物である。自覚がないお酒なのである。

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by munojiya | 2016-12-30 00:03 | 世話物 | Trackback | Comments(0)
2016-12-29 今、安倍総理の真珠湾鎮話を聴いているが
いま、日本時間で2016年12月28日午前7時5分、庵主はラジオから流れてくる、
安倍総理の真珠湾での鎮話を聴いている。生中継なのか、アメリカ時間のことはよく判らない。
その内容は、庵主の耳には、広島そして長崎の原爆投下の瞬間の兵士や市民の、その非業を、
わざわざ真珠湾に出張して語っている嫌味のように聞こえるのである。

アメリカ国民に寛容を求めているのである。
お前らは短気だと指摘しているのである。
戦後の食料難の時に、食料を送ってくれたのは米国だったともいう。
そのあとで、請求書がきて、日本はきちんとそれを払ったという矜持は語らなかったが。

非常によくできている演説原稿である。
日本人の皮肉芸の精華を聞く思いで、庵主はその言葉を感心しながら聞き流していたのである。
表面的にはアメリカをたたえているが、その内容はアメリカ人の非をあげつらっているのだ。
この前の、安倍総理の米国議会での演説もそうだったが、スピーチライターの原稿はすごい。

時にラジオで聴くことがある、その演説原稿はどれもよくできているのである。
相手国での演説の原稿は、勿論、相手国を立てるヨイショ原稿なのだが、その中に十分な皮肉を
効かせているところが見事なのである。外交とは相手国より優位に立つことだからである。
いいお酒とは、呑み手がそのお酒の前で優位に立てる酒をいう。お酒の方が凄いと萎縮しちゃう。

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by munojiya | 2016-12-29 00:04 | 時局物 | Trackback | Comments(0)
2016-12-29 「君の名は。」を年寄りに勧めてもいいか問題
「君の名は。」を年寄りに勧めてもいいか問題というのはこうである。
新海誠監督のアニメ映画「君の名は。」が今、若者の中で大ヒットしている。
さて、そういう映画をご老人にも観る事を勧めてもいいものか、という不安である。
年寄りは、アニメを観て喜べるのだろうか、という疑問からである。

余計なお世話なのではないかという若い人の年寄りに対する思いやりのことである。
老い先短い人生を、つまらないものに浪費させることになるのではないかという危惧による。
でも、自分が観てこんなに楽しかったのだから、その喜びを少しでも多くの人に分け与えたいと
いう抑えがたい親切感の発露をどうしたらいいものかという問題である。

庵主も、アニメと聞いたら、身構えるのである。
2時間尺のそれに果たして耐えられるだろうかという不安がよぎるからである。
いうなれば、うまくもなんともないお酒を、おいしいよといって勧められたときに、果たして
それに耐えらるだろうかという不安と同じである。うまそうな顔をして呑めるだろうか、と。

そんなつまらないことに時間を捨てる勇気はあるかということである。
老い先は短いのだから。かといって残りの時間を大切に使っているかというとそうでもないのだ。
上の問題の回答は、「勧めて良し」だという。
この映画を観て何も感じない年寄りがいたら、もう生きている価値するらないというわけである。

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なかにはこういう不幸な人もいるのである。
先程君の名はを観ましたが、全然感動したせんでした。[原文どおり]』(典拠)。
それは50代の女性だという。
「それ、老化現象でしょう」でおしまい。着実にその日に向かっているということです。

鬱病になると、食べ物の味がわからなくなるという。
接待で、緊張して呑むと、いくらいいお酒が出てきても味がわからなくなるようなものである。
過度の緊張や、病状に陥ると、うまいまずいを判断することができなくなるのである。
お酒が旨いとか、食べ物が美味しく感じるときは幸せなときだということである。

「全然感動したせんでした」の人は実は大いに感動していたのである。その述懐。
質問した人からのコメント2016/10/21 04:22:42
今の日本かなりレベル低下ですね。この程度の映画に号泣とか、社会現象とか。バカバカしくて
考えたくも無いです。[庵主の場合は泣ける映画を目薬がわりにしているのである]

まぁ暇と言うか、ガキというか。戦争にでもなれば、イチコロですわ。文豪の作品を読んでいな
い。ワーキャーで即お終い。涙も怒りも悲しみも笑も全て浅い浅い。文学性、芸術性に乏しい。
こんな感想に更に深まりました。しっかりして欲しいものです。甘ちゃん日本。』(同前)。
そのタイムスタンプを見ると、その人が今不健康な境遇にあることは見て取れるのである。

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庵主が書かなかったことを、言ってくれる人もいるのである。
あなたのような方には江川さんの漫画が合っているのかもしれません。』(典拠)。
これは皮肉だろう。引用文の中にリンクを張ったのは庵主の仕業。行数を減らすための処置である。
江川達也は「君の名は。」を認めたくない派の筆頭だからである。後追い同士もいるのだ。

次のは質問者の不健全な生活による症状に対する指摘である。
字も満足に打てないんですか? 同年代として恥ずかしくて読めませんな。』(同前)。
質問者は満たされない生活を送っているためにストレスで映画が楽しめなくなっているという
ことをその症状から解析しているのである。人は健康でないと物事が味わえなくなるのである。

世の中には庵主の想定外の発想をする人がいるのである。
逆に言えば、庵主の発想は枠が狭いということである。
本を読んだり、映画を観るということは、自分の枠を超える発想に触れるということである。
次連のような指摘はちょっと気になったのである。そういう見方もあるのかと。

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非常に論点が多い映画ですが、例えば三葉のノートに書かれた「お前は誰だ」は、そのまんま
認知症の問題などにも繋がります。
自分自身が何者かわからないというのは、思春期の若者だけでなく、全ての世代が抱える
アイデンティティの問題であって、決して「セカイ系」なんて一言で片付く事ではないんですね。

そういう意味では、単なる映画の消費者ではなく、自分の人生を作る養分として取り入れると
いう態度を取りたいです。
まあ、新海監督が次回作つくるなら、やっぱり観に行きますけどね。』(典拠)。
映画は養分だというのである。そして「君の名は。」は若年性認知症の映画だとも見れると。

若い男と女の同時認知症という架空の病気があると想定すれば、この映画の矛盾は何もなくなる
のである。
かつて起こって一村全滅の隕石落下事件も、認知症による共通幻想だったのである。
そして、今、二人が街で出合っても、相手の名前が判らないのは、お互いに認知症だからである。

そうやって見ると、この映画は喜劇になってしまうという、なんでも映画なのである。
「君の名は。」を何度も観るという人は、頭が悪いから一度観ただけでは理解できないという
わけではなく、映画の情報量が多すぎて、すなわち『非常に論点が多い映画』なので、1回観た
だけでは消化できないからなのである。庵主も神楽の舞の場面はもう一度観たいのである。

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そして、糸森町は彗星の落下で全滅して、その時三葉は死んだはずなのに、映画のラストシーン
ではなぜ三葉は生きているのかという矛盾も、“きれいに”解説してくれる人がいる。
この世には、いくつもの世界が平行して存在していて、映画は糸森町が全滅した世界から、
全滅しなかった世界に途中から入れ替わっているのだというのである。

すなわち、この映画のストーリーは一本の列車でつながっているのではなく、途中で別の列車に
乗り換えて続いているのだというのである。
その乗り換え地点が、三葉の口噛み酒を瀧が呑む場面なのだという。なるほど。
そうするとまた矛盾が発生するが、その解明はまたのお楽しみという延々と楽しめる映画なのだ。

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デジタルのネット時代になると新作映画が簡単に違法に複製されてネットにアップロードされる
のだという。
日本人はそれを違法だというが、中国人は平気なのだという。
その言い分はこうである。

中国ではまだ公開されていないから、違法ではあっても、それが唯一その情報を手にいれる方法
なのだからいたしかたがない。いうならば緊急避難で、形式的には違法であってもその場合は
違法性を阻却されるべきである。その事は映画を商品としたら営業妨害、文化としたら融通無碍。
需要があるのに供給しないのは、またできないのは作り手が悪いともいえないことはないけども。

「君の名は。」も早速その洗礼を受けたという。
2016/9/28 21:20:19[映画の国内公開は8月26日]
君の名はの映画がフルで公開されてますが、動画視聴は違法なんですか?
ダウンロードが違法なことは知っていますが。見るのもアウトですかね』(典拠)。

法律を調べましたが見るだけなら合法のようですよ。』(同前)。
蛇の道は蛇である。
gogoanime.ioでKimi no na waで出るよ』(典拠)。
今も観ることができるかは判らないのである。

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「君の名は。」に関してはこういうネタもある。
「君の名は。」新海誠監督が○○出身を隠さないワケ』(典拠)。
庵主は、監督の出身が「破戒」の長野県だと聞いていたので、「〇〇」には、ためらわず
「部落」と入れてしまったが、正解はちょっと違っていた。“部落”には違いなかったが。

その出身は、人前では「〇〇」としか書けない業界〈ところ〉だったのである。
その「業界」もルビを振るなら「ぶらく」だろう。「大っぴらにはいえない」という意味である。
それでいえば芸能界はその多くが「ぶらく」者によって占められていると聞いているのである。
その場合の部落とは「在日チョウセン人社会」のことである。世に貴賤の種は尽きまじである。

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by munojiya | 2016-12-29 00:03 | 世話物 | Trackback | Comments(0)
2016-12-29 マスコミが「マスゴミ」に、害虫が「害中」に
南鮮が政策的に日本に「韓流」というゴミを撒き散らしたために、
「汚染」が「汚鮮」と書かれるようになった。
「マスコミ」は、ネットでは「マスゴミ」と書くのが標準表記になっているのだ。
そして、今度は「害虫」を「害中」と書くようになったのである。

語源はこれである。
北海道の新千歳空港で、
中国人観光客が乱闘騒ぎをおこしたことが
海外でも話題になっていました。』(典拠)。日本では辟易されている。

世界の害中シナ畜を早急に駆除しよう』(同米)。
シナ人は「シナ畜」と、チョウセン人は「キムチ」というのもネットの標準となっている。
「変態新聞」とあれば、それは「毎日新聞」のことだと誰もが疑問に思わないように、である。
それを「差別」だと叫ぶ人がいれば、その叫び人は「チュン」だの「チョン」だとされるのだ。

日本人は黙ってよけていくのである。関わり合いになることを避けるのである。
「静かにしたら」と親切に声をかける人もいないのである。それが日本流である。
だから、不味いお酒は「不味い」とはっきり言う庵主は親切心が旺盛過ぎるのである。
反省しているのである。味なんか好みだから「不味い」と言ってもはじまらないのに。

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笑い話に「笑韓〈しょうかん〉」というジャンルがある。
南鮮が日本人にちやほやされるのは、それが笑韓国ネタの宝庫だからである。
馬鹿にするというよりも、笑えるからである。
笑えるということは、そこに文化的な違和感があるということである。

笑える文化と共生することが「多文化共生」だと言う人は狂っているのである。
それは、日本人に笑いを堪える努力を強いることである。
ぐっと堪えた笑圧はたまりたまって、いつか大爆発することになるからである。
「笑韓」は日本の笑い話の一ジャンルだが、アメリカ人では「笑中」がそれに相当するという。

中国人観光客のことをよけのが
アメリカ人の自分にはやめられない
楽しみの1つなんだよ。
凄く笑えるから。』(典拠1:21)。

状況に一気に日がついたのは本当に凄かった。
グループが声を上げ始めると、まると騒動なような雰囲気になった』(同前2:21)。
そんな基地外(富士通のワープロには「気違い」がないので、これで代用)を、その後どうした
のだろうか。まさか飛行機に乗せたのじゃあるまいな。サムソンのスマホ同様爆弾並なのだから。

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「千歳」は庵主の「せいち」である。聖地でなくて、生地だが。
「せいち千歳」で暴動を起こすようなシナ蓄は、おっと中国人は中国の官憲が責任をもって
飛行機でも船でもいいから自前でそれを仕立てて引き取りに来い、というものである。
善良な乗客と一緒に、同じ飛行機に乗せるわけにはいかないからである。

そんな人民〈ゴミ〉を日本に送り出すなと注文を付けたいものである。
菅官房長官は、その暴動に「遺憾の意」を表明したのか。
中国の報道官は「お詫びと反省の弁」を発表したのか。
してないだろう。その程度の民度の国なのである。

観光なんかに入れ揚げていると「せいち」が異邦人によって汚されるだけなのである。
「日貨排斥」が中国の正義なら、「憎華〈にくか〉排斥」は日本の正義である。
郷に入って郷に従わない異邦人を擁護する必要はさらさらないだろう。排斥するのみである。
隣にそういう野卑な異邦人〈どじん〉がいるというだけでぞっとするではないか。

新千歳空港では大雪の為に飛行機が欠航。数千人の中国人(香港人と内地人との事)が足止め
を食らい、[中略]100人ほどの中国人が暴動さなからの騒ぎを起こしたとの事です。
典拠0:53)。北海道で「内地人」というと道外の日本人をいうので、庵主は中国人と日本人
が一緒になって暴れたのかと思ってしまった。この場合は非香港の内地中国人という意味だった。

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香港人か[中国]内地人かは知らないけど(どちらも参加してると思う)、
どうして一部の国だけ観光地のマナーが酷いんだろう。
他の国はそんな事ないのに。』(典拠4:30)。
観光で来る南鮮人でさえ問題をおこさないのに、である。「一部」は「ちゅうごく」と読むのか。

南鮮人の場合は、日本でテロをやるために来るとんでもないのがいるから似たようなものか。
「一部」とは「とくあ」と読むのかもしれない。
漢語は漢字は同じでも、その読みは現地読みしていいという便利な言葉なのである。
『空港てせ足止めをくらった観光客の中で、

警察官に対してデモをしたのは内地人だよ』(同前4:38)。
「暴動」を、現地語では「デモ」と読むらしい。
『絶対に“香港人”じゃないねぇ
暴れた100人が内地人って意味だと思う。』(同前4:59)。

『中国人は最悪な観光客だよ。日本で凄く嫌われてるのも無理はない。』(同前5:05)。
中国人とか韓国人の一般的なイメージがこれになってきてるよなあ。もはや。[中略]
一部の人間のない那須なイメージが強烈すぎる。』(同前6:32)。
中国人だもの。みつお[みつを]』(同前6:45)。

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by munojiya | 2016-12-29 00:02 | 時局物 | Trackback | Comments(0)
2016-12-28 殆ど笑い話の領域の「プラモバイク」
その緻密感はなんだ。「この」ではなく、「その」なのはそれと距離を起き平らである。
「歌唱力の無駄遣い」というのは庵主が思いついた言葉である。
つまらない歌詞の歌を、絶対的な歌唱力で謳う奇異の可笑しさのことである。
その伝で、この精密感は笑える精密加工なのである。

笑えるからといって馬鹿にしているのではない。
感心しているのである。
日本には、ここまでやる馬鹿がいるのだと。
この馬鹿も軽蔑しているのではない。

いな、かえって尊崇の念で笑っているのである。
こういう人達が日本人をやっているのだという人に乗った優越感にひたれるからである。
日本人である庵主は何にもしていないのにそういう人達の活躍で日本人としての自覚を新たに
しているのである。ただ、旨いお酒を呑んでいるだけなのだが。

モデルガンを作っている日本人もいる。弾が撃てると犯罪になる拳銃を作っているのである。
実用上は何の役にも立たない物を作る事に情熱を燃やしているのである。日本人たる所以である。
いうなれば、酔わないお酒を作ることに専念しているようなもので、モデルガンならともかく、
「ソフトのないパソコンはただの箱」というが、酔えない酒だったらただの水でしかないのだ。

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「ソフトのないパソコンはただの箱」というのは昔のいいならしで、当節なら、「ソフト」を
「アプリ」といった方がとおりがいいのかもしれない。
思えば、「ソフト」が「アプリ」になったときから、庵主は新しい携帯文化から距離を置いて
しまったのである。半径5メートルの生活に通信機器はいらないからである。

「夢」は実現した時から「夢」でなくなるのである。つまらなくなる。
一番のその例は「結婚」だろう。その夢が実現したときから、みんな後悔するのである。
庵主がCG映画はつまらないというのは、見た目に比してそのわくわく感が小さいからである。
庵主が、写真がフィルムからデジタル画像に変わって写真をやめたのもそれと同じ理由である。

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by munojiya | 2016-12-28 00:02 | 笑い話 | Trackback | Comments(0)
2016-12-27 「歴史」って本当に面白いですねぇ
「映画って本当に面色いもんですね」という言葉をキャッチフレーズにしていたのは映画評論家
の故・水野晴郎である。
「映画」は「はったり」と読むのである。いや「こけおどし」か。
もし、映画のいうことを信じるならば、人類はすでに数回以上滅びている筈なのである。

なのに、庵主は、幸いにして、今、こうして生きているのである。キーを打っている。
「我思う。故に我あり」という言葉があるが、庵主は「我書く。故に我あり」状態である。
書き続けていることだけが、自分が生きている事の確認行為なのである。
建設会社のように歴史に残る仕事はなにもしていないのである。競技場建設費の中抜きのような

言葉を換えれば、真っ当な庶民生活を送っているということなのだろう。
歴史って本当に、面白いですね!』(典拠米)。
面白いはずである。「こけおどし(スベクタクル)」なのだから。
歴史業界では、次から次に新しい真実が掘り返されるのである。

「真実」はこれだ、という新論は学者の新製品というわけである。次々に真実が出てくるという
事は歴史家が今言っていることはみんな嘘だという事である。「歴史」もルビは「はったり」か。
「聖徳太子」はいなかったという説が今の教科書には載っているらしい(事実未確認)。
「真実〈ほんもの〉」が面白いのは旨いお酒である。やっぱり真実のお酒が一番おいしい。

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虚栄心とはったりの歴史業界に対して、本家「映画〈はったり〉業界」は潔いのである。
この映画は[中略]歴史の事実から飛躍して自由に創作した物語である
(典拠:大映映画「日蓮と蒙古大襲来」冒頭)であると言い切っちゃうのである。
こんな映画〈でたらめ〉を信じる人は馬鹿だというわけである。

歴史書とか歴史の教科書もそれに似たようなものなのだろう。
信じる人は騙されるのである。映画を信じて見る人はいないから映画の方が高尚なのかも。
歴史の核心というのは、嘘の集大成からにじみ出る一つの真実のことである。
ただ、真実は一つだけではないということなのである。部分の事実ではなく全体像が肝心。

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ネットでは各宗派の宣伝映画を見ることができる。映画会社の営業映画ともいえる。
宗派〈スポンサー〉からお金を引いてきて作った映画である。リスクは金主持ちの映画だ。
「空海」は真言宗の映画だ。「弘法大師御入定1,150年御遠忌記念映画」である。
庵主は、一瞥して、うっかり「1,150年御用達」と読んでしまった。NHKの方が面白い。

日蓮宗はこれ。「日蓮」。中村登監督だという。
日蓮は親鸞の生まれ変わりみたいである。萬屋錦之助の以前の役を次の映画で見ることができる。
日本では日蓮宗が一番うざい仏教団体ですね。』(同前米)。創価学会がそれを受け継ぐ。
「ウザい」は漢字では「日蓮宗」と書くものらしい。日蓮の国策映画は「日蓮と蒙古大襲来」。

庵主が子供の頃に観た記憶に残っているのが「親鸞」。田坂具隆監督の映画である。
月形竜之介が演じる法然上人が庭先で語る場面だけが記憶に残っていた。
大トリはなんといってもこれだろう。「釈迦」。三隅研二監督である。日本初の70ミリ映画だ。
若い頃は女優だった市田ひろみも出演しているのである。庵主は市田ひろみの筆跡か好きだから。

各宗派がなぜ壮大な伽藍を要しているのかということは、青雲和尚が教えてくれる
仏教は、権力者による金持ちのための宗教だから、庶民である庵主などにはおよそ無縁な思想
なのである。「宗論はどっちが勝っても釈迦の恥」という川柳がある。諍うのが宗教なのだ。
西洋では、同じ旧約聖書の中でキリストとマホメッドが諍いしているのである。推して知るべし。

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by munojiya | 2016-12-27 00:04 | 世話物 | Trackback | Comments(0)
2016-12-27 新聞を読んで・「ありがとう」の反対語
庵主は、今、新聞を取っていない。加齢で活字にピントを合わせるのがつらくなってきたからだ。
日本人は、他の先進国に比べて新聞の信者数の割合が異常に高いと聞いていたものである。
他の国では、新聞が書いている事なんか少数の人しか信用していないのに、日本人は新聞記事を
信用する人が多いというのである。米の新聞でさえ、ヒラリー当選と大嘘を報じるざまなのに。

しかし、最近の調査では、日本人も新聞なんか読まない人が増えてきたと聞いている。
暇な年寄り世代の購読率、というか閲読率は高いが、多忙な若い世代は日常的には新聞を読んで
いない人が多いというのである。細かい数字は忘れたが、ネットで検索すれば出てくるだろう。
もし、それがネットで検索できなかったら、それがネット情報の限界だということである。

新聞の情報も役に立たないが、ネットの情報もその程度だという事である。民度に比例するのか。
情弱が手にいれることができる情報はそんなものだということである。
譬えるならば、大した旨いお酒は呑んでいない、いな、飲まされていないという事である。
情弱というのは、情報を知らないという事ではなく、量はあってもその質がよくないという事だ。

庵主が、今、新聞を読んでというときの新聞とは「聖教新聞」である。新聞といっても宗教団体
のチラシである。取っているのではなく、信者からご恵贈賜っているのである。
「ありがとうの反対語は何か」という記事があった。学会的には「どういたしまして」だという。
ところで、「廃仏派」の反対語は何か。「崇仏派」だという。「尊学会派」ではなかった。

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by munojiya | 2016-12-27 00:04 | 世話物 | Trackback | Comments(0)