生ビールについてくるもの
生ビールを頼むと
小皿に突き出しがついてくることがある。
ちょっとしたつまみである。
それがうれしい。

生ビール。
かきピーが出てきたことがあった。
乾き物である。
さびしいがないよりはましである。

生ビール。
きっちり冷えた白菜キムチが出てきたことがあった。
これは口当たりがいい。
キムチの辛さをビールで流しこむ。

生ビール。
一番うれしいのは冷や奴が出てくるときである。
そんなにいいのなら一皿別に頼めばよさそうなものだが
そんなにはいらないのである。

生ビール。
中華料理店では
メンマが出てくることがある。
それでもいいだろう。

生ビール。
同様に
ザーサイというところもある。
乾いていなければ問題なしである。

生ビール。
マカロニサラダが出てきたことがある。
意表をついていて面白い。
次回は何が出てくるかと期待させるのである。

生ビール。
しっかり炙ったチャーシューが出てきたのは
ラーメン屋だった。
たかが突き出しにしっかり手間をかけていたその仕事ぶりに感心した。

生ビール。
日替わりの突き出しが出てくるのは
ビールの専門店である。
これはちゃんとチャージ(有代)になっているからおもしろくもなんともない。

生ビール。
バーでは
ナッツがついてくることがある。
もともと一杯の値段が高いのだからありがたみがない。

生ビール。
うまいチーズが出てこないかな。
さすがにそうなると有代だろう。
それでもいい。

生ビール。
それだけ出てきてもいっこうにかまわないが、
なにか小皿がついてくると
おっと思う。

生ビール。
銀座の「勝兵衛」(既出)ではとんかつ定食と一緒に頼むから
食事にセットになっている小皿が同時に2枚出てくる。
それだけでなんとなく豪華な気分になるのである。
[PR]
# by munojiya | 2005-08-30 00:07 | Trackback | Comments(0)
ビール以上、日本酒以下
外気温27℃と
街頭の温度計が示している。
8月28日の午後4時過ぎの
涼風を感じる東京である。

午後6時、これまでの暑い日なら
ためらわずにその日の一杯目は生ビールだったが
今夜はビールよりちょっとしっかりした酒を飲みたいと思う。
それでいてとりあず喉の渇きをいやしたい。

はいったスペイン料理のお店に白ワインがあった。
ボルノス ソービニヨン ブラン 2003 ルエダ産である。
再び出会うこともないだろうから覚える必要はさらさらないのだが
飲んだ記念にメモしてきたのである。

純米吟醸無濾過生原酒中取り
といったお経みたいな日本酒の能書きは
普通の人には覚えることができないだろうと庵主は思った。
上に書いたなんとかワインが覚えられなかったからである。

庵主は
最近は
居酒屋へ行っても
銘柄を指定することはないと書いた。

お酒を注文するときに
呑みたいお酒の好みを聞いてくれて
それなりのお酒が出てくればいいのである。
一々お酒の名前など覚えても甲斐のないことである。

第一、それと同じお酒にまた出会える確率はほとんどないからである。
そりゃ、毎日、その一升瓶が空になるまでお店に通うという場合は別である。
第二に、庵主が甘いお酒を望んだとしても、
お店の人が心に浮かべる甘いお酒とは合致しないからである。

ただ、どういうお酒が呑みたいのか客の希望を聞いてくれるだけで
客は自分が客であるという地位を自覚できることでそれだけで満足するのである。
客としての気分の問題なのである。
だからどんなお酒が出てきてもよほどひどい酒でない限り文句は出まい。

ソムリエは料理に合わせてワインを勧めているように見えるが
あれはお客が選んだ料理と相性の悪いワインを合わせないように
チェックしているだけなのではないか。
というのも一般的にどんな酒も料理に全然合わないということはないからである。

日本酒なら肉でも魚でも蕎麦でもご飯でも何でも合ってしまう。
ワインがもし料理との相性というのがあるとすれば
それはいいワインはかえって欠点を持っているということである。
日本酒ならお節介な、いやご親切なソムリエはいなくてもすむのである。

といってもそれは普通ランクのお酒の場合ではあるが。
いい日本酒になると結構高級ワインにみられるような欠点が出てきて
欠点というよりはそれをお酒のわがままといったほうがいいかもしれないが
そのわがままをあやしながら呑むためにはお酒のことを知っておく必要はある。

それもお店の人に任せておけばいいことで
呑みたいときにそれに叶ったお酒が出てくるお店がいいのである。
今日はスペインワインのフェアだということで
白ワインを所望したらそのワインを勧めてくれたのである。

そのナントカの白ワインはきりりと冷えていて
少し夏の疲れが出ている庵主の気分をすっきりさせてくれた。
うまいものを食ってみたいという意欲がわいてきたのである。
それはビール以上、日本酒以下の快感だった。
[PR]
# by munojiya | 2005-08-29 00:16 | Trackback | Comments(0)
21グラム
「21グラム」という映画があった。
人は死ぬと21グラムだけ軽くなるという。
それが魂の重さなのだという。
その能書きはこうである。

アメリカで2000人の臨終に立ち会って統計をとったという。
患者を体重計のついたベッドに乗せて臨終前後の体重を正確に計ると、
誰でも21グラムだけ体重が軽くなったという。
それが魂の重さだという。

ツッコミどころ満載の能書きなので
映画用の宣伝文句だろう。
庵主にとっては
21グラムというのは別の意味がある。

庵主が呑めるお酒の量が21グラムなのである。
正しくは呑めるアルコールの量が21グラムである。               
すなわちアルコールの分解時間にして3時間分の量である。
それを越えると肉体に異変を生じるからである。

簡単にいうと
1時間に分解できるアルコールの量は7グラムといわれている。
細かく言うと体重1キログラムあたり0.1ミリグラムであるという。
理屈上はl太った人のほうがよりお酒を呑めるというである。

庵主は
酒を呑み過ぎると覿面(てきめん)に肩にくる。
肩凝りが始まるのである。
知っている人は分かるようにこの肩凝りはきつい。

肩凝りが深夜にかかると
肩が痛くて眠れないほどである。
睡眠不足になるから
朝がつらい、翌日がきつい。

だから、
庵主の酒量はアルコールにして21ミリグラムと決めている。
アルコールの重さを概算1ミリリットルが1グラムとすると
度数15度の日本酒なら約八勺(約140ミリリットル)というところである。

庵主の酒量は
60ミリリットルはいる日本酒グラスに八分目で2杯だから
120ミリリットル弱というところである。
もう一杯呑めるという余力を残してそんなものなのである。

蔵元さんを招いて開催する与太呂会では
6~8種類のお酒を呑むことになる。
庵主は45ミリリットルのグラスにそれぞれ半分しか呑まない。
しめて45×0.5×6杯=135ミリリットルなのである。

お酒の量は呑んでいないのである。
しかも仕込水をたっぷり飲むのである。
ある日とんかつ屋にはいってまずビールを飲んだ。
見た目泡が多いので300ミリリットルとして5%で15グラム。

それだけで庵主のほぼ定量である。
本当はこれぐらいの酔いごこちが一番おいしいのである。
しかしとんかつに合うワインがあるというからそれも一杯。
120ミリリットルとみて12%だから14.4グラムでしめて定量オーバーとなる。

酒がいけないのは酔いが酔いを求めるということである。
和風モスコミュール(焼酎+柚子+ジンジャーエール+おろし生姜)を呑みたい。
200ミリリットルとして度数は5%ぐらいと踏んで10ミリグラム。
しめて43ミリグラム。やっぱり肩に来たのである。
[PR]
# by munojiya | 2005-08-28 01:12 | Trackback | Comments(0)
与太呂会
いろいろなお店が
日本酒の呑み会を開催している。
主催者は居酒屋だったり、酒販店だったり、酒造組合だったりする。
蔵元さんを招いてそのお酒を呑む会というのもある。

与太呂会(よたろかい)というのは
そういう会の一つである。
新宿は荒木町にある居酒屋「与太呂」(よたろ)が毎月開いている。
その与太呂が庵主のホームグラウンドである。

蔵元さんを前にしてお酒を呑むと気を遣って呑むから
それまで見落としていたそのお酒のいいところがはっきり見えてくる。
造り手の顔を見ているという安心感から
お酒がうまく感じるのである。

またそのお酒の特徴を蔵元さんの口からじかに聞くと
それまで気がつかなかった味わいをとらえることができるから
お酒の味わい方の幅が広がるのである。
つまりお酒をいっそうおいしく呑むことができるようになるということである。

と同時に
文は人なりというように
お酒もまた人なりだということがわかる。
その人格ではなく、才能であるということである。

絵を見る楽しみは
自分には持ち合わせがない才能を愛でることができるということである。
それが分かるということが快感なのである。
その絵を見る人がいないとその絵の価値はないのと同じだからである。

その絵に価値があるとすれば、
それを愛でる人がいるからであって
その絵を評価する自分があってこそその絵の存在理由があるという
その作品の生殺与奪をにぎっているのは自分であるという快感なのである。

お酒もそれに似ている。
呑んだ人がうまいと思わなかったら
そのお酒はないに等しいのである。
この酒の魅力は自分が見つけるという気負いがお酒を呑む楽しみである。

今口にしているお酒の生殺与奪は俺がにぎっているという
神にも似た思いがうれしいのである。
お酒はそういう矜持をくすぐってくれるのである。
そのお酒を理解できる呑み手があって初めてお酒の評価は定まるということである。

与太呂会の出席者は
老いも若きも
男も女も
初心者もベテランの飲兵衛もお酒の楽しみ方を知っている。

お酒をよく知っていて
それでいて
酒を語らず
しずかにお酒を味わっているのである。

呑んでいるときの顔をみれば
そのお酒の評価は定まる。
そしてどんな呑み会でも同じだが、
うまいお酒から瓶が空になるのである。

贅沢をしていると思う。
いいお酒を、いい人たちと味わうのである。
翌朝のおしっこは原価が高いのである。
そんな勿体ない呑み会が与太呂会である。
[PR]
# by munojiya | 2005-08-27 00:46 | Trackback | Comments(0)
お酒の香り
いいお酒の条件を一つだけ上げろと言われたら
それは、香りだ、と庵主は答える。
庵主はモルトウイスキーやワインも
その香りを心から楽しむが飲むことはない。

日本酒の利き酒は
口に含んでひととおりお酒を感じたあとは呑み込まずに
吐器(はき)に戻すのである。
そういう試飲方法を批判する人は少なくない。

のどごしを知らずしてお酒を語ることなかれ、
と正論を吐く御仁である。
庵主もその考え方に与(くみ)するほうである。
庵主の場合は、一度口に入れた物を吐き出すのは勿体ないと思うからなのだが。

人は見かけによらないものだとはいうが、
本当は
見かけのほうがその人をよく表しているのである。
人は見かけによらないという言葉もそれが例外だからの驚きをいっているのである。

お酒も
その雰囲気は
その香りがよく表しているのである。
くせのある味のお酒はその香りもしっかり個性的なのである。

庵主は
お酒の品をその香りでみている。
香りは
庵主の心をときめかせてくれるからである。

全国新酒鑑評会の金賞のお酒が
その香りでまどわせているということは
それらを2、3本も呑めば
たいがい飽きてしまうことでわかる。

牧伸二の漫談に、
美人は三日で飽きるけど、
という諧謔があるが、
その通りである。

こんな香水みたいな酒が呑めるかと
その手のお酒を毛嫌いする人がいるが、
そういう人が呑んでいるお酒は
添加した醸造アルコールのにおいがしっかりただよっているお酒だったりする。

それもまた
お酒の香りではあるが、
庵主の心にはなじまない
香りである。

安香水という言葉があるが
お酒にもそれに似た雰囲気の酒がある。
だからまず出会ったお酒の香りをみるのである。
香りからお酒の性格や表情をあれこれ思い浮かべるのである。

香りはまたそのお酒の人柄そのものなのである。
いや、酒柄というべきか。
いいお酒はその香りもそれにふさわしいおちついた華やかさをたたえている。
香りはひかえめであとにその品のよさが心に残るお酒が好きだ。

庵主はお酒が飲めないこともあって、
モルトウイスキーもワインもその香りを味わったら
もうそれだけですっかり満足なのであるが、
残った酒は勿体ないのでつい口の中にいれてしまうのである。
[PR]
# by munojiya | 2005-08-26 00:54 | Trackback | Comments(0)
お酒が2倍売れる法
とよしろ、っていうお酒知っていますか。
みちもり、は呑んだことがありますか。
さらに、ばいきん、なんてお酒ごぞんじですか。
読めないんです、日本酒の酒銘は。

それが普通なのです。
「十四代」や
「三千盛」や
「梅錦」を、そう読んでも庵主は笑いません。

なんてったって
庵主は
「亀泉」を「きせん」と読んで注文したことがありますから。
「亀泉」(かめいずみ)の西原社長に叱られそうです。

なお、
西原社長の読み方は
さいばら、です。
ね、ふりがながないと読めないでしょう。

さすがに
庵主も噴き出した
読み間違いはこうです。
「やっぱりヤマダキンのお酒はうまいねぇ」

見ると
山田錦でした。
かえって
ほほえましさを感じたものです。

庵主は
いつもいっています。
お酒の名前には必ずふりがなをつけなさいと。
お酒を本当に売りたいと思っているならそうしなさいと。

ふりがながついていないと
お客は読み間違えることがあるからである。
「獺祭」ならばだれも読めないから問題ないが、
なんとか読める酒銘がいけない。

一生懸命考えたあとに
酒銘を読み間違えたら
お客は恥をかくことになる。
客に恥をかかせる商売なんてやっちゃあいけないことの第一でしょう。

「亀泉」は
音読みかな、それとも訓読みかなと
庵主も内心では葛藤があったのである。
鶴なら「鶴齢」(かくれい)で音読みだからそれにならったのである。

が、みごとにハズレだった。
居酒屋なら
指をさしてあのお酒ちょうだいといえばすむが、
酒販店で並んでいるお酒の読み方がわからないととっかかりがないのではないか。

居酒屋でも
酒祭りにちゃんとふりがなをつけているところだと
庵主はほっとする、いや、一目置くのである。
「きせん」を頼まずにすむからである。

読めない酒銘は記憶に残らないからそのうち忘れられていくということである。
思い出せないお酒が売れるわけがない。
なお、「獺祭」は「だっさい」である。
念のため、「じゅうよんだい」、「みちさかり」、「うめにしき」、である。「やまだにしき」も。
[PR]
# by munojiya | 2005-08-25 00:40 | Trackback | Comments(0)
酔虎伝
珍しく
大阪に出る機会があった。
大阪といえばタイガーズである、虎だ。
で、夜は酔虎伝で呑むことにした。

なにも大阪に行ってまでも
どこにである居酒屋のチェーン店に入ることはないのだが、
庵主の発想は昔からベタなのである。
梅田の東通りは土曜日の深夜でもやけくそのような活気にあふれていた。

その活気に押し込まれるようにして
酔虎伝に入ったのである。
玄関をはいったところにある勘定場に大きな太鼓が下がっていて、
入ったら、ドーンと太鼓を打って「たのもー」と告げる。

店員が
席を用意してくれる。
庵主はいつもいいお酒が出てくるお店で呑んでいるから
料理はお任せである。

その肴がいつも素敵なのである。
世の中にはこんなうまいお酒の肴があるのかと感心するような
庵主の質素な食生活とは次元を異にする美肴が出てくる。
お酒もうまいが、それがまた楽しいのである。

「よきにはからえ」とまるでお殿様のような
お酒の呑み方をしているから
料理を注文するということがないので
目の前のカラー印刷のメニューを見て目がくらんでしまったのである。

とりあえず、メニューを読む時間を稼ぐために
生ビールを頼んだ。
時間つぶしのための生ビールである。
一生懸命注文する料理を決めなければならない。

アサヒの「熟撰」である。
「スーパードライ」が味なんかはどうでもいいとりあえずビールの代表だとしたら
これは水のような味わいのビールだった。
お酒でいえば淡麗辛口、庵主にはなんとも頼りない味のビールである。

酒だ、と思う。
普段は呑めないお酒をドーンと頼んでしまった。
高知は「土佐鶴」アル添、14度。たんれい、さわやか、すかすか風。
京都は「月桂冠」しぼりたて生原酒、17度。さっぱり、すっきり、それだけ風。

そしてあこがれのお酒である新潟の「上善如水」。
女の子がこのお酒がうまかったというのをよく聞くからである。
これはいいお酒である。
ぜんぜん後に残らない。

記憶に残らないのである。
かおりほんのりのきれいなお酒だとは思って呑んでいたが
どんな味だったか全然思い出せないのである。
それを呑み過ぎだからだといわれたら謝る。

そしてうまかったのか、まずかったのか定かな記憶はないが、
ただ「上善如水」を呑んだという
甘美な記憶だけが残ったのである。
「上善」の勝ちである。

いずれのお酒も若向きの味わいというのだろう。
ライト感覚のモダン味でほのかなお酒なのである。
お酒はもういい、「うまい」を実感するために深夜2割増しのタクシー代を払って
「ビットブルガー」の生が呑める難波のバーを目指したのである。
[PR]
# by munojiya | 2005-08-24 00:10 | Trackback | Comments(0)
一白二蔵三杜氏
一金二米三水、だったか、
一麹二モト三醪、だったか、
一に水、二に水、三に水、だったか
いいお酒を造るときに心しなければならない三条件というのがある。

それぞれ造り手のお酒にかける気持が伝わってくる。
大手の日本酒メーカーなら
一も二もなく宣伝だけというところかもしれない。
それもまたお酒である。

庵主は
どんなモットーでお酒を造ろうと
そんなことはどうでもいい。
できあがったお酒が呑んだときにうまけりゃいいのである。

うまいかどうかを決めるのはもっぱら庵主の専決事項である。
そのときの気分であり、体調であり、そのお酒によせる思いなのである。
ただ一般的に大方が推奨するお酒はうまいことが多いということである。
ほんとうはお酒のわかる美女といっしょに呑むのが一番おいしいのだが。

そして、お酒は呑んでみないと
そのうまさは分からないということである。
老ね香はよくないとされているが
同じそれがうまいといって熟成香とよばれることだってあるのだから。

また、いろいろなお酒を呑んでみないと
新しいうまさに出会えないということである。
実際に呑んでみないと想像だにできない
うまさがあるということである。

一白二蔵三杜氏
というのはある蔵元のモットーである。
文字通り、精白、蔵の姿勢なり設備、
そして杜氏の気働きという意味なのだろうと思う。

しかし
庵主はそれを違う意味で読んでいたのである。
音楽の先生というのは
おかしな先生が多い。

おかしいというのは
どこかおかしいという意味ではなく
常識に縛られない
自由な発想をする人ということである。

で、庵主の音楽の先生が授業中に脱線した。
君たちがお嫁さんにしたい女性の条件を当ててみよう。
一に美人、二に金持ち、そして三に頭がいい女性、といったところでしょう。
そういう女と結婚するのはやめなさい、ときた。

なぜか。
いずれも自惚れの条件だから毎日がそれでは疲れるという。
そして男は直感的に自分より少し馬鹿な女を選ぶという。
それが安全だからだという。

一白二蔵三杜氏。
まず色が白くて、蔵があってすなわち貧乏やつれしていない娘で、
杜氏さんのように気働きのある女性と読んだのである。
いい女の条件と見たのである。

金賞受賞酒だ、究極の磨きだといったお酒は
毎日がそれだとたしかに疲れてしまう。
そして、男は直感的に自分の器量より少し下のお酒を呑むことを好むとしたら
自分が呑んでいるお酒の話を得々と話すのは少しヤバイかなとも思うのである。
[PR]
# by munojiya | 2005-08-23 00:20 | Trackback | Comments(0)
ご流儀
そのお店のやり方を庵主はご流儀という。
吟醸酒には燗をつけないというお店もある。
庵主が呑みたい吟醸酒のぬる燗を頼んだら
断ってくるようなやり方をである。

酒(しょうちゅう)を水やお湯で割って呑むのを拒絶しないお店が
日本酒に燗をつけるのを拒むというのでは一貫性がないではないか。
やくざ映画全盛の頃なら
庵主は「てめぇそれでも日本(にっぽん)人か」と心の内で啖呵をきっていたことだろう。

そういうときは
庵主はおだやかにお店と相談するのである。
お店のご流儀には反するかもしれませんが
丼にお湯をはって持ってきてくれませんかと。

お冷やと称する水は只で出てくるのだから
それがお湯になったところでサービスの範囲だろう。
持ってきてもらった湯の中に
庵主は徳利を付けて温めるのである。

別のお店でのご流儀である。
「開運」の祝酒を呑みたかった。
純米酒である。
一番小さいグラスでくださいと所望する。

あいにく
うちでは一合でお願いしていますときた。
庵主は酒では喧嘩はしない。
ああそれでいいですよと受け流す。

ただしお酒の量は半分でとどめてもらう。
それ以上呑めないからである。
そしてそれだけはどうしても呑みたいからである。
呑めない量を貰って酒を残すのは食い放題の店で食い残すのと同じでみっともない。

とある店では
ちゃんと店内に貼ってある。
呑めない方は最初から半分の量でご注文ください。
お酒を残すと杜氏に失礼ですから、と。

何がなんでも一合主義のそのお店は
いいお酒を揃えているのである。
だから庵主は立ち寄るのである。
そういういいお酒なのに呑み残すことがわかっていて一合で出すというのである。

客が呑み残したお酒は
捨てるしかないだろう。
それはもったいない。
だから庵主は最初から半分の量しかもらわないのである。

そのお店で水を頼むと「淀橋正宗」が出てくる。
東京都の水道水のことである。
さすがにそのお店のお酒の酒質に
それなりにいい水なのであるが水道水のちょっと癖のある味はそぐわない。

せっかく味わっていた美酒の甘美な境地が
その水を口にしたら一遍に現実に引き戻されてしまう。
そういうアンバランスなことを平気でやるお店なのである。
それでいてお酒の選択眼は優れているから困るのだ。

次回からは
やわらぎ水は持ち込みでいかにゃならない。
コップに氷だけもらってそれに持参した水をいれて飲むことにする。
それは庵主の流儀なのである、つべこべいわせない。
[PR]
# by munojiya | 2005-08-22 00:05 | Trackback | Comments(0)
お金持ちになると酒の味がわかるようになる
時に8月14日。
日曜日である。
奇しくもその映画が封切られた昭和45年8月14日と同じ日。
庵主は暇だから一日中その長い映画を見ていた。

上映時間約9時間余である。
映画は
日活映画、山本薩夫監督作品、五味川純平原作「戦争と人間」の全三部作である。
もちろん劇場で見たのである。

庵主は
お酒と映画は
昼間っから呑んだり観たりしないことにしている。
呑み終わったり観終わったときに空が明るいとせっかくの夢が白けるからである。

最近は
映画を見るときに
劇場の売店で売っている
生ビールを飲みながら見るということが習慣となってしまった。

映画を見るときには生ビールを飲むというのが癖になったしまったのである。
映画の上映は午前中から始まる。
習慣で
朝っぱらからビールを飲んでいた。

映画のストーリーは
架空の新興財閥伍代産業を軸にして
それにからめた戦前の歴史との虚虚実実が織りなす
反日本支配層かつ反軍国主義的心情を描いている。

最後は反天皇制にたどり着くのだろうが、
当時の日活は倒産寸前の経営状態だったから
そこに到達する前に
第三部で製作が打ち切りになってしまったのである。

資本家でお金持ちの伍代家が舞台である。
生活は優雅である。
自宅にグランドピアノがある。
浅丘ルリ子が華麗な演奏を奏でる。

食事のシーンには
ブランデーとかの洋酒が並んでいる。
ときには燗をつけた日本酒だったりする。
当主である滝沢修のグラスを持つ手はさまになっている。

昭和3年から対米戦争が始まるあたりまでの日本である。
貧乏人がブランデーを口にする機会は少なかったことだろう。
しかしお金持ちはそれを生活の中で楽しんでいたのである。
お金持ちになるとお酒の味がわかるようになるということである。

もっともそれは
いい酒を日常的に飲んでいるからである。
貧乏に生まれるとそういう酒に接する機会がないために
お酒のうまさを知ることがないというだけのことだけれど。

お金を出せばそこそこにいいお酒が手に入る現在にあっても
酒に興味がないという場合にはそのうまさを知ることがないということである。
結果的には昔の貧乏人と変わるところがない。
うまい酒がわかるということは懐具合よりもむしろ興味の有無なのである。

庵主は日本酒を輸出しても
外国人(欧米人)にはその微妙な味わいはわかるまいと思っていたのだが
実際は外国人でもうまいお酒はちゃんと味わうことができるという。
うまい日本酒との出会いが外国人の味覚を広げることとなったのである。
[PR]
# by munojiya | 2005-08-21 20:44 | Trackback | Comments(0)