お酒の名前
お酒の名前についての
ごく特殊な事情からの苦情である。
というのは
庵主はホームページの《写真版》というのを作っている。

庵主のホームページは写真を使っていない。
一部のカットを除いてすべて文字だけで作っている。
ダウンロードに時間がかかるのを避けるためである。
なかなか画面が出てこないとイライラするからである。

《写真版》というのは
ホームページの紙媒体版ということである。
写真を多用した記録をそういう形で残しているのである。
それを作るときに困ったことがある。

日本酒の酒銘である。
ワープロにない漢字を使ったお酒の名前なのである。
打っても漢字がでてこない。
作字することもできるがネットでは使えない。

ネットに乗らない酒銘を付けるのは
それも一つの主張なのだろうが、
そこまで凝らなくてもいいと庵主は思う。
《写真版》を作っていてそう思う。

ワープロのフォント(文字)には簡単な漢字がないことがある。
お酒のモトがない。
酉に元と書くモトである。
これは酒母と言い換えることもできなくはないがモトと酒母ではちょっと違う。

ニュアンスが違うのである。
庵主は醗酵を発酵とは書かない。
どっちでも同じじゃないかと思う人がいたら
純米酒もアル添酒も区別しないですむ人ならそれでもいいのでしょうがと窘める。

いまどき手書きで醗酵と書く必要がない時代である。
ワープロが勝手に変換してくれるのである。
手間は変わらないのだから正しく書こうよと
庵主は思う。

一番許せないのは「無ろ過」である。
漢字と平かなを混ぜて書くなと
庵主は本気になって怒るのである。
まあ、そのお酒がうまかったら許してしまうのだけど。

「秀峰キ久盛」で閉口した。
ないのである、「キ」の字が。
よくある字である。
「喜」の草書体で七を三つ重ねた字体がないのある。

新聞なら深センのセンは土編に川と書くところだが
それは庵主の美意識が許さない。
作字するのである。
ワープロにない漢字を作るのである。

七を三つかさねて
平体をかけたり文字の大きさを4分の1にしてとりあえずは作るのである。
しかし、それをやったら文字の太さが他の漢字と合わなくなるから見苦しい。
見た目にいかにも応急処置といった感じで庵主の美意識に悖るのである。

「清リョウ(リョウは口に暸の右側)」にはまいった。
ネットで見たら「清暸」と出ているのにその暸が代用漢字だったのである。
印刷の現場のことを考えると
あんまり凝らないほうがよろしいかと、小さな声でつぶやくのである。
[PR]
# by munojiya | 2005-06-19 21:29 | Trackback | Comments(0)
日本酒はなぜ売れないか
日本酒はなぜ売れなくなったか。
その理由ははっきりしているというのが庵主の仮説である。
結論から述べてしまう。
日本人がうまい日本酒を呑んだことがないからである。

ビールのうまさは誰もが知っている。
夏の暑い日に
仕事を終えて飲む
生ビールのうまいこと。

うまいということは快感なのである。
快感だということは気持がいいのである。
気持がいいからまた飲みたくなる。
日本酒にはそれがないのである。

多くの日本人の
日本酒との出会いがよくない。
それがお酒だと思い込んでしまう。
はっきりいって素人にはその味わいがわからないといっていい普通酒のことである。

普通酒の正体についてはここでは書かない。
知らない人はダメな酒だと思うかもしれないが、
庵主はそうは思ってはいないからである。
その評価は、決してまずい酒ではない、そのかわりうまくもない酒、である。

いくつもの悪条件が日本酒離れを引き起こしている。
まず、日本人が日本酒を知らないということである。
お酒のうまさを広めなければならないはずの大手メーカーが
それができない事情を抱えているからである。

親が知らないものを
子供に伝えることができるわけがない。
両親が日本語しか話せなかったら
その子供が英語を話せるようになるわけがないのと同じである。

初めて日本酒に出会う年頃というのは若い。
お金に余裕があるわけがない。
だから安く酒が呑める店で日本酒に出会うことになる。
いいお酒が置いてあることは期待できない。

さらに初めのうちはお酒の呑み方を知らない。
自分の酒量がわからないから
呑みすぎて
どうしても酒に対して嫌悪感を懐いてしまう。

うまい酒を呑んで呑みすぎたということならいいが
うまくなもない酒を呑んでそうなったら
それが先入観となってしまう。
日本酒は呑むと気分が悪くなると。

うまい酒がないわけではないのである。
現に庵主はうまい酒しか呑んでいないし、
そういうお酒は呑みきれないほどあるのである。
ところが世の中の日本酒の70%近くが普通酒なのである。

知らないで呑んだら
最初に出会うお酒が普通酒であるという確率は高い。
回りに日本酒を知っている人がいなければ
初めからうまい日本酒に出会うことは至難のことである。

まだうまい日本酒を呑んだことのない人や
日本酒がまずいと思いこんでいる人たちに
実際にうまいお酒を呑んでもらうことなのである。
うまいお酒ならまた呑みたくなるからである。
[PR]
# by munojiya | 2005-06-18 23:32 | Trackback | Comments(0)
番外編 ほかのブログを見てみたら
●16日はエキサイトのサーバーのメンテナンスのためアップできませんでした。

今回は番外編である。
いま、ブログが盛り上がっている。
ホームぺージもそれが世に出たころは
それを作ったということだけで雑誌の記事になったものだった。

いまは中身がないホームページでは話題にならない。
はやりすたりというのは世のならいである。
増え続けていたホームページもどうやら天井に達したようである。
いまはブログが流行っている。

庵主もその無料サービスを使ってこのとおりである。
「むの字屋の日本酒痛快速報」は
文字は綴られているけれど中身が軽いから
奇特な読者だけが覗いてくれるブログとしての地位をしめている。

それを物好きな人といっては失礼か、
わざわざご来庵いただく好奇心が旺盛な方には、
いや熱心な日本酒ファンの皆様には
庵主は心から感謝しているところである。

ほかのブログやホームページを見にいくことがある。
中にはかなり読みにくいものがある。
書いてあることの中身はあるのだろうが
見せ方がよくないのである。

真っ黒な地色に白い文字で書かれているものや
地色に真っ赤や真っ黄色を使っているものとか
緑色の地色にオレンジ色の文字といった
色の遣い方が悪いために見ていて目が疲れるものが少なくない。

人をよく右翼とサヨクに分けることがはやっている。
ホームページを見ていたら
右翼系のそれとサヨク系のそれには
それぞれ特徴があることに気がついた。

右翼系のホームぺージは
文中に拡大文字を使ったものが多い。
まるで街宣車の拡声器みたいな感じなのである。
目にうるさいだけで効果がないということに気付いていないようである。

大きさの違う文字が一行に並んでいると読みにくいのである。
しかも大文字を太字にして
かつ赤色になっているのだから
文中至るところ強調ありでどれが本当の強調なのかわらないほどである。

それと右翼系のHP(いまはウェブページというのだそうだが)は
レイアウトがごちゃごちゃしているものが多い。
一見して美的でないのである。
なんとなく性格が現れているよう思わずほほえむのである。

一方、サヨク系のホームページは
小さい文字で行間をとらずに書きつらねているものが多い。
読む人に対する配慮が全然ないというところが
書き手の日頃の対人関係を示しているようでおかしい。

その点、ブログはだまっていても行間をとってくれるようになっているので
そういう配慮不足が露呈しないですむのだが、
サヨク系はそれなのにそこで文中にやたらと太字を使うのである。
これもまた読みにくいことこの上ない。

さらに白地にグレーの文字というのも読みにくい。
その点、「むの字屋」のこのブログもそうだが、
自分のホームページに戻ってくるとほっとするのである。
ホームページ版「むの字屋」のなんと落ち着いていて読みやすいこと。
[PR]
# by munojiya | 2005-06-17 23:14 | Trackback | Comments(2)
まずいお酒は高くつく
自分の好みにかなった
うまいお酒を呑むことは幸せである。
一番いいのは、うまいと膝を打つようなお酒ではないが
いくらでもはいるというお酒である。

だらだらと
いつまでも
あきることなく
呑んでいられるお酒がほんとうはすごいお酒なのである。

うまいと感じるお酒は
すぐ飽きる。
ただし庵主はそういうお酒の方がいい。
2杯目を呑まないからである。

うまいお酒を一杯だけ呑みたい。
やわな味わいのお酒では呑んだ気がしない。
せっかちな人は塩分のある味を好むという。
すぐ感じるのは強い味だということである。

お酒もまた少量でうまいと感じるためには
それを2杯呑めといわれたら
ちょっと勘弁してほしいといいたくなるような
強い印象を残すお酒がいいのである。

どういうお酒かというと
こってりめの大吟醸とか純米大吟醸である。
酒質がしっかり重い、
そしてまったり甘いお酒である。

そういうお酒を一杯だけ楽しみたい。
とはいえ、庵主は浮気症だから、
どんなお酒でも好奇心を示すのである。
見たら呑みたくなるといったら酒嗜症という病名になるのか。

時にはまずい酒も口にする。
そしていつも後悔している。
なんで醸造アルコールを入れすぎた酒はうまくないのか。
醸造アルコール自体はうまいのになぜ酒がまずくなるのか。

うまいとは思えないお酒も呑むことがある。
怖いもの見たさの好奇心からである。
それらのお酒は
味わいに厚みがないからつまらないというのが庵主の印象である。

まずい酒を呑むと
口直しにまともなお酒が呑みたくなる。
最初からうまいお酒を呑んでいればそれだけですんだものを
つかわなくてもいいお金がかかるのである。

それよりも
酒量を押してもう一杯ということになるから
体に負担がかかるということである。
そこでうまいお酒を呑んでも絶対量を超過したお酒は酔いがきつい。

せっかくのうまいお酒をおいしく呑む方法は
適量ということである。
うまいお酒を呑んでもその前にまずい酒を呑んでいた分には
ここちよい酔いがただ疲れるだけの酔いになってしまう。

過ぎたるは及ばざるがごとし。
お酒は2倍呑んだら2倍楽しく酔えるというものではない。
最初からうまいお酒を選ぶことである。
まずいお酒を呑むことは高くつくのである。
[PR]
# by munojiya | 2005-06-15 22:27 | Trackback | Comments(1)
「富美川」の誘惑
猟師が鉄砲を撃ったときに、
獲物に当たったかどうかは直感でわかるという。
「手応えがあった」
という勘が働くのである。

人間の感覚は、
銃口をはるかに離れた先にある弾丸の働きまで
見えるということである。
感じることができるということである。

お酒の話である。
長年お酒を呑んでいると、
お酒の瓶を見ただけでうまいかどうかが
見えてくるようになる。

お酒の瓶が発しているオーラを感じようになるのである。
直感というのは
「経験的事実に裏付けられた客観的即断」というのが
庵主の定義である。

今うまいお酒を造っている蔵元かどうかを知っているということと、
経験的にうまいお酒の条件をいくつか知っていることもあって、
それらから判断しているからなんとなくわかるということなのだが、
ここで働くのは客観的ではなく主観的な即断なのである。

ラベルを見たときに「呑みたい」と思ったお酒が
うまいお酒に見えるのである。
オーラはお酒の瓶が発してるのではなく、
実は庵主の気持が発していることはいうまでもない。

「菊姫」「開運」「初亀」といったお酒が並んでいる
冷蔵庫の中で
庵主がオーラを感じたのは
「富美川」(とみかわ)の純米大吟醸である。

四合瓶で1860円である。
山田錦で無濾過生原酒である。
まず値段が安いと感じた。
そしてこれは当たりだという直感が働いたのである。

以前「富美川」のうまいのを呑んだことがあるからである。
実力があることは分かっている。
そしてそのお店のお酒の揃えを見れば
へんな酒である心配がないという保証付きだからである。

庵主は純米酒を真っ当なお酒だとは思っているが、
しかし純米酒がかならずしもうまい酒とは限らないのである。
アル添のうまいお酒も少なくない。
純米酒はうまいにちがいないと信じて呑のだけれどはそれは賭けなのである。

丁寧に造られているのはわかるが
庵主好みの甘味が感じられない純米酒によく出会うのである。
まさにお酒は好みだということである。
そういう純米酒よりもあまいアル添を庵主は好む。

「富美川」の純米大吟醸は
庵主の期待どおりのうまいお酒だった。
儲け物である。
この値段で大吟醸の品のよさと純米のうまさが味わえる。

そして、このお酒は
燗をつけても
その味わいが広がるのである。
お酒がうまいと感じる一本だった。
[PR]
# by munojiya | 2005-06-14 22:33 | うまいお酒あります | Trackback | Comments(0)
「花の舞」うまい
惚れてしまえばあばたもエクボである。
庵主は静岡のお酒が大好きなのである。
「開運」の「波瀬正吉」を呑んで
そのうまさに体が納得してからのことである。

その前に伏線があった。
庵主が生まれてはじめて呑んだ吟醸酒が
「初亀」だったのである。
庵主が知っている日本酒のにおいとはお酒の香りが全然違っていたのである。

ちょっと話はそれるが、
庵主がいまでも強烈におぼえてることがある。
銀座の松屋百貨店で物産展をやっていて
そこでお酒が売られていた。

一升瓶がいくつも並んでいる。
試飲ができるということで
そのうちの一本の栓を抜いたときのことである。
その瞬間、瓶の口からいい匂いが売場にたちこめたのである。

お酒の匂い、
いや米を醸したえもいわれぬ豊かな香りだった。
その時その香りに包まれたことが
庵主がお酒の世界に誘い込まれた瞬間だったのだと思っている。

お酒は愛媛の「梅錦」である。
「梅錦」と「初亀」との出会いは
どちらかが先だったかの記憶はもう遠い。
そして今、贅沢の極みのようなお酒を口にしているのである。

「究極の静岡吟醸を愛でる会」で呑んでいるのである。
静岡の蔵元の鑑評会出品酒を集めて
静岡のお酒が好きな呑み手で呑みほすという
蔵元も蔵元なら呑み手も呑み手といった豪快な呑み会である。

鑑評会のお酒というのは
いうならば美人コンクールだと庵主は思っている。
華やかだけれどつまらない。
というより、すぐあきる。

ただその雰囲気が楽しいといったところである。
その手のお酒をまとめて58種類も呑もうというのだから
これは贅沢の域を越えてもはや悦楽の境地である。
そのお酒がうまいのは当たり前でただ快感の世界に遊ぶのである。

それを見てあほらしいと思えば嗤えである。
この手の酒はやっぱり物がいいのである。
いくら呑んでも入るからである。
品のいいお酒を呑むことのよろこびにひたるのである。

静岡のお酒といえば、
その次の出会いは「花の舞」の純米酒である。
安くてうまいというのが雑誌に出ていた紹介文だった。
買ってきたらその通りだった。

その後も買ってきて呑む「花の舞」のうまさは
期待を裏切ることがないものだった。
だから「開運」「磯自慢」「初亀」「志太泉」「正雪」を横目にみて
庵主は「花の舞」のうまさに目をやるのである。

鑑評会用の「花の舞」には微妙な甘さが感じられて
その味わいに庵主は納得した。
好みでいうと
本日のお酒で一番これが庵主の波長にあったのである。
[PR]
# by munojiya | 2005-06-13 21:06 | Trackback(1) | Comments(1)
長生きするとお酒がますますうまくなる
人間はいくつになっても
自分は若いと思っているもののようである。
ほんとうは二十を過ぎたら十分老年期なのである。 
はたから見たらみんな十分に年寄りなのである。

庵主のツカミ(客寄せ)の一つにこういうのがある。
人間の肉体は十七、八のときが成長のピークなんです。
二十(はたち)過ぎたらもう老化に向かっているということなんです。
昔の女性は二十(はたち)過ぎたらもう年増と呼ばれていました。

いまは迂闊に年増とはいえませんがその見方は正しかったのです。
それなのに二十五歳がお肌の曲がり角というのは
女性に媚びている宣伝文句です。
二十五はすでに老化にはいっている肌だからです。

いまや二十(はたち)を過ぎても死ぬまでには数十年の時間があります。
その数十年間はすべて老年期なのです。
長い老年期の比較的若い部分を青年期と呼んでいます。
真ん中あたりを中年期と呼ぶのです。

子供の目からみたらみんな、おじさん、おばさん、なんです。
さらに長き生きしている人をおいぼれといいます。
そういう年齢の方がいないことを確かめましたので安心していいます。
それでもなお生きている人のことをくたばりぞこないというんです。

元気で長生きできるならそれもいいだろう。
しかし何の楽しみもなくただ生きているのは疲れるだろうなと
庵主はそれとなく想像するのである。
ただ庵主にはいくつになっても楽しめる酒がある。

年寄りを自覚して
それをいかに
美しく見せるかが
腕の見せ所なのである。

歳をとっていいことの一つに
お酒の味が見えるようになるということである。
昔からある酒、釣り、碁将棋といった道楽は
永遠のようである。

第一、電気がなくてもできる。
パソコンやテレビなどといった娯楽は電気がこなければ遊べないのである。
しかも一人でも楽しめる。
麻雀なら一人ではおもしろくないのである。

それらのいいところは恰好の時間つぶしだということである。
お酒を飲んだ分には
あっと言う間に時間が過ぎていく。
天才にとっては短い人生も庵主には十分長いのである。

改正という言葉に対してあえて改悪という言葉を考え出すひねた性格をサヨクという。
酒でもそうだが世の中には品格が感じられないものあるということである。
死に急ぎから生き急ぎという言葉を作るようなものである。
サヨクを真似して呑み急ぎという言葉を作ってみる。

お酒はなにも急いでいっぱい呑むことはないということである。
いくつになっても楽しめるからである。
歳をとると食べ過ぎと呑みすぎはいけない。
とりわけ呑み過ぎは。

ただそれで
きれいに
死ねたら
お酒ってほんとうにいいものなのだが。
[PR]
# by munojiya | 2005-06-12 22:50 | Trackback | Comments(0)
ワインとお酒
庵主はワインを飲まない。
ワインにまつわるごちゃごちゃした知識をひけらかさないと飲めない
ような雰囲気に気後れするからである。
それと1本は飲めないからますます疎遠になる。

とはいえ、それが、飲んでみるとまたうまいのである。
赤は日本人には渋く感じるというが、
庵主もこの歳になって
渋みがいいとわかるようになってきた。

だからぜんぜん問題ないのである。
むしろ舌の表面をすうーとながれていくほうが
物足りない。
日本酒の渋みも庵主はよしとする。

ワインの欠点は
値段が高いということである。
いまではどこの百貨店にでもある
ワインセラーにはいってみる。

3万円、5万円といったワインはざらにある。
日本酒でその値段のお酒といえば
芸術品である。
同じお金を使うのなら庵主は日本酒を買う。

ときにはワインを飲む機会があるが
庵主の年間のワイン摂取量は
四合瓶、いやワインボトルは750ミリリットルだったか、
それでせいぜい3本もあるかどうか。

だからワインを飲んでもその酒銘を覚える必要がない。
その気軽さがいいのである。
ひたすらその味わいが醸し出している
味わいにひたることができるからである。

日本酒でもそうだが、
庵主のように種類をたくさん呑むのでなければ
酒銘を覚えてもしょうがないのである。
ふたたび同じお酒に出会えることがないからである。

まさにお酒は一期一会である。
少ししか飲まないのなら
その都度知っている人にその時々のうまいワインを聞けばいいだけのことである。
二度と会うことのない人の名前を忘れてもさしさわりがないということである。

庵主が日本酒を呑むときはワインのようにはいかない。
酒銘、肩書、味わい、出来ばえを
しっかりと記憶に刻もうとするからである。
その上そういう呑み方をしながら酔わねばならないのだ。 

呑み続けるということは再会を喜ぶことである。
まだその蔵元がいいお酒を造っていることを寿ぐのである。
以前の記憶があるから
お酒が多少はよく見えるということである。

酒のうまさは
酸味が支えていると庵主は喝破した。
いまごろになって気付いたのである。
ワインの飲みやすさはその極致である。

実はワインは日本酒と相性がいいのである。
ていねいに造ったのだろうが生気のない純米酒に
ワインを一滴、二滴加えると
酸味が加わって呑めるようになるからである。
[PR]
# by munojiya | 2005-06-11 22:06 | Trackback | Comments(0)
お酒が合わない体質
青木雨彦(あおき・あめひこ)という物書きがいた。
あえて言えばエッセイストというのだろうが、
その軽妙な文章が、庵主は好きだった。
もうなくなって長いから文庫本でも読めるものやら。

お酒が好きな人なのである。
そしてこう書いたのである。
私はお酒が体質に合わないと。
いくら呑んでも酔わない、と。

庵主もお酒が体質に合わない。
本当に合わないのである。
すぐ酔ってしまうのである。
盃を重ねようやくお酒がうまくなるというときに呑めなくなってしまうからである。

「むの字屋」をやっているから、
知らない人は相当お酒を呑んでいるように錯覚するようである。
庵主にお酒を贈ってくれる
心遣い細やかなうれしい人がいる。

でもせっかくのご厚志が呑めないのである。
そんなに沢山のお酒は呑めない。
呑まない、のではなく
呑めないのである。

いつもそのお店の一番小さいグラスで
その八分目ぐらいにお酒をついでもらう。
それで十分なのである。
いや、それだけでもうまいお酒が呑みたいのである。

庵主はお酒を呑まないにこしたことがない持病を持っている。
肩凝りである。
普段は自覚症状のない肩凝りである。
お酒を呑みすぎると覿面に肩凝りが痛みを発するのである。

呑みすぎなければ問題ない。
庵主の酒量はその両肩が担っているというわけである。
逆か、両肩の負担にならない酒量が
庵主に許されたお酒なのである。

アルコールを飲むと
すぐ顔が真っ赤になってしまう。
真夏のランチタイムに出る
一番小さい缶のサービスビールが飲めないのである。

飲んでも酔いは回らないのだが
顔に出るから人前にさらせない。
だから、飲みたいビールを
ぐっと堪えるのである。

その点酒飲みとはいえ意志は強いのである。
ただし別のお店でランチタイムに出てくる
小さなグラスに大きな氷が入っている
食前の梅酒は飲める。

夏の食欲減退時の
一杯の梅酒は食欲をそそる。
梅酒はだから庵主にとってはお酒ではないのである。
そうだ、薬である。

庵主はお酒は呑めない、量は呑めない。
いつも呑んでいるお酒は庵主にとっては薬なのである。
プチ鬱を解消する妙薬である。
これで庵主がお酒を呑む正しい理由ができたのである。
[PR]
# by munojiya | 2005-06-10 22:42 | Trackback | Comments(0)
グラスの形
それを気分といっていいものかどうか。
居酒屋でお酒を呑むときに出てくる器の
容量のことである。
いいかげんなのである。

そして少ない方にいいかげんなのである。
一合徳利とあって、
大きさはそれらしいが
底が大きく上げ底になっている。

最初から小さい徳利もある。
それでもお店は一合と言い張る。
庵主はそれを健康徳利と呼んでいる。
お客が飲みすぎないようにとおもんぱかっているからである。

一合に満たないものを
一合と称して売るのは詐欺ではないのか。
お酒は気分で楽しく呑むものだから
それは許される嘘だと認めていいのか。

ビールのグラスの容量もわからない。
大とか中とかあるけど、
その容量が表示されていないのである。
注文のしようがないではないか。

アルコールは体に悪影響をあたえる飲み物である。
個人によってその適量が異なる。
飲み過ぎると体をこわしかねない。
いま呑んでいるお酒の量がわからないグラスではだめなのである。

ジョッキにいたっては
見かけの大きさと
容量がかならずしも一致しないのである。
笑い話がある。

ある居酒屋チェーンでのことである。
グラスは400円、ジョッキは500円である。
ジョッキの方がグラスより容量が多いと考えるだろう。
ところが見かけの大きさに反してグラスのほうが容量が大きかったのである。

みんなお店の良心を信じて勝手に錯覚していたわけである。
一袋100グラム入り220円、徳用袋350グラム780円
といった商品と同じである。
お店にとって徳用の袋なのである。

グラスのデザインによっても
見かけの大きさと容量を錯覚することがある。
お酒を呑むときには45ミリリットルの猪口を使う。
同じ容量なら円筒形が一番小さく見える。

容量は同じ45ミリリットルなのに
胴の部分をさりげなく細くして
猪口の深さの3倍ぐらいの高さにしたグラスがある。
両方を並べると絶対グラスの方が大きく見えるが容量は同じなのである。

庵主が好むのは
通常規格の猪口とか日本酒グラスである。
容量がわからない器が出てくると呑みすぎないように
気を遣わなければならないので大変だからである。

お酒の好きな女の子が
定量を守るために
200ccのビーカーを使っているといっていたのを聞いたことがある。
それなら間違いないと笑ったものである。
[PR]
# by munojiya | 2005-06-09 20:07 | Trackback | Comments(0)