お酒を造る人
昔、「私作る人、ボク食べる人」というテレビのCMがあった。
その発想が男女差別だというような因縁をつけられて
テレビから消えたことがあった。
お酒に関してはだれもが「あなた造る人、私呑む人」である。

造る人は呑む人より低い地位にあるという発想があるなら、
酒造りも酒造会社がもっぱらにするということも解放しなくてはいけなくなる。
物をつくることは差別だということなのだから。
差別はいけないのである。

今の酒造りは
造り手に対する呑み手の優位を肯定する社会構造だから
造り手の奴隷状況を解消するために酒造りを人民に解放せよという
因縁をつけてくれる人はいないものか。

差別を助長する社会通念を醸成するCMはいけないのである。
したがってお酒のCMはやめろということになる。
それはいいことである。
たばこのパッケージの規制はきびしい。

見るとパッケージの3分の1はたばこの有害性の表示になっている。
お酒のCMもそのぐらいのスペースを使って
アルコール常飲の有害性を表示せよという主張が出てこないともかぎらない。
それを思うと今のお酒の広告の状況は天国なのである。

呑み過ぎて体を壊した人だけがバカを見ることになっている。
飲酒は自己責任なのである。
家庭内暴力がなかなか表面化しないように
アルコール依存症の家族を抱えた家庭の崩壊もなかなか表に出てこない。

家族に酒癖の悪いのがいるために苦労している家庭は少なくないはずである。
家族の問題は家族の責任とはいってもそうはいかないこともある。
親の面倒は子供が見るのが当然だという考えも老齢化の世では無理が出るように
惚け老人や重度の要介護者をその家族だけで支えよと言う方が間違っている。

もっとも自動車事故でなんと年間百万人(国民の約1%)の死傷者が出ているのに、
それを見越した上でそれを見て見ない振りをして社会が成り立っている程だから
家庭内のその程度の負担は軽いということか。
それともそういう家族は前世のたたりとでもいうのだろうか。

自動車事故に対して自動車メーカーがその救済処置をとっているということを
聞いたことがないように
酒メーカーもアルコール依存症や飲酒に起因する家庭崩壊に対して
なんらかの救済処置をとっているということを聞いたことがない。

もうけは自分だけのもの、
その被害は社会負担という構造になっているのである。
自動車事故の死傷者などは病院が患者を確保するための既得権となっている
のではないかとさえ思えるほどである。

信憑性はないが、
酒税の上がりよりも
酒を飲んで治療にかかる費用の方がその数倍も多いという説もある。
だから飲酒を勧めることは社会的損失の拡大であるというわけである。

その伝でいくと、
うまいお酒があるから日本人ならぜひそれを味わってみてほしいて書いている
この「むの字屋」などは
戦犯といわれてもおかしくない主張だということになる。

ようするに酒を飲むということは自己責任なのである。
だから庵主はいうのである。
お酒は呑まない方がいいですよ、と。
うまいから、である。
[PR]
# by munojiya | 2005-10-26 00:13 | Trackback | Comments(0)
ちょっと呑み過ぎ
市販酒のきき酒会があった。
初めて目にするちょっとうまいお酒もあったが、
多くの酒は
期待通りの、いや期待しない通りの味わいである。

それらのお酒はけっして悪いお酒ではない。
庵主にも呑めないことはないのだが、
何かが物足りないのである。
うまい、という共感が、である。

だからあえて呑むまでもないと思ってしまう。
いうならば絶望の酒である。
庵主が呑んでいるお酒は希望に満ちたお酒なのである。
こんなにうまい酒を造る人がいるのかという感動があるからである。

酒は飲み比べてみるとその違いがよくわかるということを再確認してきた。
ある時は格の違いを知り、
ある時はその酒にこめられている気合の違いを知り
ある時はまた造り手の姿勢の違いを知るのである。

お酒を呑むことの楽しさは
案外、その違いが一つ一つわかっていくという過程にあるのかもれしれない。
それがべつに呑まなくてもすむ庵主がお酒をやめないでいられる理由に違いない。
わかるということは面白いからである。

市販酒というのは庵主が普段呑んでいるお酒とは
似て非なる世界であるということである。
そういうお酒を好んで呑むことはないが、
庵主は好奇心をそそられるのである。

たしかに、
やはり評判の蔵元のお酒には
市販酒とはいっても個性を感じさせるものがある。
世間の評判は当たっているのである。

いいものを造れば
ちゃんと聞こえて来るということである。
そのことがわかっただけでも
わざわざ足を運んだ意味はあった。

規格通りの大吟醸というのがある。
米を50%以下に磨いて
一応吟醸造りをすれば
大吟醸と名乗っていいことになっている。

その大吟醸にうまい大吟醸とそうでない大吟醸があるということである。
大吟醸にはそれなりの風格がほしいということである。
純米酒こそ本物の日本酒だという主張もあるが
純米酒だから必ずしもうまいとは限らないということもわかる。

そういう状況の中にあっても
しっかりした味の市販酒を造っている蔵があることがわかる。
ここでいうしっかりした味というのは庵主が好きな味ということである。
そういうお酒に出会うとうれしいのである。

これから先は贔屓の引き倒しだから話半分に聞いてほしい。
静岡の酒「花の舞」の純米酒が並んでいたのである。
庵主に静岡の酒はうまいという確信をいだかせた純米酒である。
ここで呑んでもやっぱりうまいのである。

気取った酒ではないのに飽きることなく呑めるのである。
きき酒会だから量を呑む場ではないのについじっくり呑んでしまったのである。
ここは居酒屋じゃないのだから2杯も3杯も呑むところではないとわかっていても
それを呑みながらホッとしていたのである。
[PR]
# by munojiya | 2005-10-25 00:05 | Trackback | Comments(0)
名セリフ
「君は君たらずとも、臣は臣たらざるべからず」
と山崎闇斎(やまざき・あんさい)は説いたという。
一応学問の道ということにはなっているが
いうなれば後世に残った名セリフである。
 
セリフというのは磨き抜かれた不自然のことである。
ほんとうは間違っている内容でも
よどみなくセリフで語られると
そのまま心にしみてしまうのである。

映画やテレビの場合は
これは作り話だという前提で見ているから
見終わったらすぐに忘れてしまうが、
報道とか学校の教科書でそれをやられると本当に信じてしまう人が出てくる。

疑惑の銃弾の主役をはった
三浦和義(本ブログは敬称もしくは蔑称は略しています)の話を聞いたことがある。
報道で語られていたことが
本人の口から聞くと全然解釈が違うのである。

同じ状況を語る言葉が
二つ以上あるということなのである。
第三、第四の解釈があってもおかしくない。
セリフというのは自分が主張する一つの解釈以外に目を向けさせない技術である。

日本酒は純米酒こそが本物だと語る人がいる。
しかしいま目の前にある日本酒というのは
そのほとんどがアルコールを添加した酒なのである。
現実を見ていない意見であるといって一笑に付すこともできないことではない。

アルコールをまぜて造ったお酒もまた日本酒の風情を保っているのである。
よくいえば日本酒の世界が広がったということなのである。
国の領土が広がったのと同様
よろこばしいことではないか。

それをなぜ指弾しようとするのか。
世界が狭い人だからである。
狭い世界で生きていける人だからである。
それは意志の強い人だからなのである。

いま日本酒は
外国から買ってきた安いアルコールをたっぷりまぜた
普通酒とか
水っぽい酒ならぬ、日本酒っぽいアルコールである経済酒が約7割を占めている。

純米酒を見つける方が難しいのである。
そういう酒を呑む人をどうして非難できようか。
生れたときからそれが日本酒だと思わされてきたのである。
そういう酒は疑うことなく日本酒なのである。

冒頭のセリフは
君主は君主としての能力がないときでも
臣下はそれに合わせて馬鹿をやるのではなく、
臣下としての立場を弁えてしっかり補佐しなさいという意味である。

上の人がちょっとたよりないときでもに
下の者はおろかな上の地位に代わって
世の中をよくしようとしてはいけないという
いったん上になった人にとっては大変便利な惰性的な考え方である。

酒の質はひどくても
呑み手はその惨憺たる現実を覆えそうという考えを起こすことなく、
すなおに甘受せよという意味だと解釈すれば
その言葉のいいがけさんが一遍にばれてしまうのである。
[PR]
# by munojiya | 2005-10-24 00:08 | Trackback | Comments(0)
ビール酒造組合が立ち上がったものの
ビール酒造組合というのがある。
そういう組合があることを知っていますか。
そのホームページを読むと昭和28年に設立されたとあるから歴史は古い。
平成16年11月現在の組合員はビールの大手5社だけだという。

活動目的の中に
「ビールに課せられる酒税の減税活動」
そして「未成年者の飲酒防止の推進」というのが掲げられている。
その一環として今「ビール酒税減税要望キャンペーン」をやっている。

庵主はそんなことより
「ビール会社はまともなビールを造るキャンペーン」をやってほしい。
ビール会社を正道に戻すキャンペーンである。
日本人に代用ビールなんか飲ませるなという思いからである。

たかだかビールの税金すら適正にできない組合だから
たいして力のある組合ではない。
ビールを売るために宣伝費をふんだんに使えるのなら
それを減税キャンペーンに使えばいいのに。

昭和28年の酒税法の改正ともに制定された
「酒税の保全及び酒類業組合等に関する法律(酒類業組合法)」により
設立されたとあるから、
おおよそ大蔵省の天下り先の一つなのだろう。

警察が交通安全協会という何をやっているのかわからない
天下り先を作るようなものである。
ビール組合が「未成年者の飲酒防止の推進」という目的を本気で掲げているなら
街中にビールの自動販売機が氾濫しているわけがないのである。

「ビール酒税減税要望キャンペーン」は
冒頭で「私ども 『ビール酒造組合』 は、
消費者およびメーカーの立場に立ち、
減税を要望していきます」という。

あれっ、ビールの呑み手とビールメーカーは共通の立場だったっけ。
大豆だかナントカから造った得体のわからない
代用ビールをビールの呑み手は歓迎しているとでも思っているのだろうか。
みんな苦笑しながら飲んでいるのだと庵主は思っている。

その苦笑を頼りない味である代用ビールの苦味として味わっているのである。
大手のビール会社はその看板の大きさをわきまえているのなら
その考え方において大人でなくてはならないはずである。
ビール会社が今度の邪道に踏み込んだのはサントリーの「ホップ」がきっかけだった。

サントリーが酒飲みから軽蔑される理由がそこにある。
そこには酒に対する愛情が全然感じられないからである。
広告だけはうまいところの酒の販売会社だというのが酒飲みの共通の認識だろう。
うわつらの美しさを飾ることだけは上手なのである。

だから多少は酒の味がわかる人はサントリーの酒を相手にしない。
日本酒呑みが「久保田」を相手にしない気分と同じである。
飲むときはあとまわしなのである。
ビール会社はそのような思潮に流されてしまったのである。

日本酒の大手酒造メーカーが
ブラジルではガソリン代わりに使っているというアルコールを
大量に混ぜた「日本酒」を臆面もなく造っているのと同じ構造である。
大き過ぎて小回りがきかなくなっているのである。

大量生産酒の致命的な欠陥が
代用ビールとか、法定日本酒に現れているのである。
安けりゃいいのか。
酒も含めて口に入れるものはなによりも安心であることが前提なのである。
[PR]
# by munojiya | 2005-10-23 00:15 | Trackback | Comments(0)
話のつづき
銀座にある板前BARでのことである。
東京の地酒「澤の井」の大辛口を呑んでみた。
大辛口である。
庵主の好みとは正反対のところにある酒である。

それなのにあえてそのお酒を選んだというのは
そのお店のお酒の揃えが悪くはなかったからである。
酒祭りに売値は高いが庵主が呑めるお酒がずらりと並んでいたからである。
だから「澤の井」の大辛口もうまい酒かもしれないと甘い期待を抱いたのである。

しかし、出てきた「澤の井」の大辛口はやっぱり予想どおりの味だった。
呑めない、庵主には呑めないお酒である。
その店ではそれが一番安かったから安心して頼んだのである。
ショーを見たあとに呑むちょっと一杯だから大枚をはたく気はない。

「黒龍」の「しずく」級のお酒がずらっと並んでいる酒祭りは
それらは一杯が2500円なのである。
冗談はよしてくれという提供方法だったからそれは避けて選んでのである。
「澤の井」に限らずこの手の大辛口がうまいという人がいるのだろう。

そういう味も一つの流派をなしているということなのだろう。
庵主には、そのニオイは貧乏神の臭いとしか思えないのである。
その暗い性格のというか、偏屈そうな味わいのお酒が苦手である。
でも怖いもの見たさでこうして呑んでみることもある。

ゆっくりお酒を呑むためにた立ち寄ったのではない、
楽しいショーを見たあとにちょっといいお酒を口にしたかっただけなのである。
だから肴も一番安い珍味の三種盛りを頼んだ。
これでまたびっくりしてしまった。

いや、うまかったのである。
なんだこのお店。
サービスと出てくる料理のうまさがアンバランスなのである。
真っ黒いイカはイカスミを絡めたものである。

シコシコのなまこは新鮮そのもので歯触りが心地よい。
そしてホヤもフレッシュである。
生臭さとは無縁の味わいである。
海の幸のうまさがそこにあった。

改めてまともな料理を頼んでみたくなる不思議なお店だった。
そして最後に頼んだデザートで
また楽しませてくれた。
シャーベットと焼きリンゴのデザートである。

庵主は
使っているコンピューターはウインドウズマシンであるが
ほんとうはリンゴが好きなのである。
焼きリンゴには特に弱い。

デザートに焼きリンゴがあるとつい食べたくなってしまうのである。
出てきた皿には炎の演出が施(ほどこ)されていた。
炎が消えてからお召し上がりくださいという。
うまかった。

汚れている酒祭り、ミントのにおいがきついおしぼり、高いお酒、掃除の手抜きと
けなしたくなることが四つあったお店だった。
そして「四季桜」の「聖」(ひじり)があるなど酒の揃え方に気合が感じられること、
料理の素材のうまさ、満足感にひたれるおいしいデザートと、美点が三つ。

加えて、お勘定の時にちゃんとレシートが出てくるという
明朗会計で美点がもう一つ。
それに立ち寄ることを勧めてくれた店員さんが美人だったからさらに1ポイントプラスだ。
一か八かで入ったお店でのできごとである。
[PR]
# by munojiya | 2005-10-22 00:25 | Trackback | Comments(0)
一か八かの話
博品館劇場で
ケン正木のマジックショーを見たあとの
夜の銀座である。
ショーの余韻を楽しむために一杯呑もうと思って入った新しい感じのお店でのことである。

お店の前にはお品書きがおかれている。
見てみるといま流行りの焼酎をとりそえた板前BARである。
庵主が呑める日本酒もあるのかと思って見入っていたら
中から美人の店員が出てきてどうぞといわれたものだから一か八かで入ってしまった。

日本酒もありますという。
一人なのでカウンターに腰をおろす。
まず日本酒の酒祭りを見せてもらったら
これが十分に汚れているのである。

銀座である。
しかも店は最近開店したような感じのきれいなお店である。
いわゆる当世風のモダンな料理バーといったところである。
そこで出てきたメニューの汚れ具合が感動的だったのである。

カウンターの前には焼酎の一升瓶がずらっと並んでいる。
スポットライトでその一部が照らし出されているが
その焼酎の黒い瓶の表面についている小さな埃が
くっきりと光って目に入るのである。

瓶についた埃を拭いていないということである。
オーセンティックバー(正統派のバーのこと)では毎日店を開ける前に
数多くの瓶を拭くことから仕事は始まるという。
その手を抜かない仕事に裏付けられたお店に身をまかせるから気持ちがいいのである。

酒祭りを見てみると
一目見て値段が高い。
本当は高くはないのであるが。
例えば「波瀬正吉」が2430円である。

一升一万円のお酒だから
一合が千円で
それに2.5倍だから
普通のお店の倍掛け率と変わらない。

正一合で出てくるとは思うが
しかしである。
2500円のお酒をほいほいと呑めるほど
庵主は金持ちではないのである。

こういうお酒はがぶ飲みする酒ではないのだから
五勺でいいから1200円で出すものなのである。
それなら一杯呑んでみようという気も起こるが
この値段では堅気の客は呑めない。

そしておしぼりが出てきたのである。
それがミントのにおいがついているおしぼりである。
これから日本酒を呑もうというのである。
しかも安い酒ではないのである。

薄荷(ハッカ)の強烈な匂いがついた手で
高級酒の酒などは呑めない。
ハッカがくさくてお酒の香りが
そして味わいがわからなくなるからである。

人前での贅沢は品がないと思っているから
酒祭りを隅まで目を通してやっと見つけたのが
一番安いグラス売りの740円の東京の酒「澤の井」の大辛口である。
ひょっとしてうまいかもしれないと思ったのである。〈この話は続きます〉
[PR]
# by munojiya | 2005-10-21 01:00 | Trackback | Comments(0)
清酒である
3リットル入りの紙パックに
ドーンと「清酒」と書かれている。
売値は税込で1150円である。
ただしアルコール度数は13~14度である。

救世主みたいなお酒である。
3リットル入りの紙パックはずっしりと重い。
この重みがこのお酒にまさに重みを付けているのである。
そうでなければ1合70円のお酒に庵主の目が行くわけがない。

三増酒である。
それでも清酒である。
焼酎なんかではないのである。
でもなんとなく気恥ずかしいのは三増酒が今ははやらないからである。

日本酒のマニアでもないかぎり
三増酒(さんぞうしゅ)という言葉を知らないだろうが、
いまなお、日本酒の中で
隠然たる勢力を占めているお酒が三増酒である。

人に言わせるとそれはトンデモない日本酒なのである。
庵主も三十年ほど前、三増酒批判の本を読んでから
それに対する憤りから日本酒の道に踏み込んだのである。
大義は日本酒を正道に戻すためである。

そういう点では
三増酒は庵主と今日のうまいお酒を結びつけてくれたありがたいお酒なのである。
その正体は、合成酒といったほうがいいのだろうか、
それとも水増しならぬアルコール増しの酒といったほうがいいのだろうか。

正確には日本酒リキュールなのである。
それは虚構のお酒なのである。
ほんとうはそうではないなだけれど
日本酒だと見做しているだけなのである

相撲取りを
客観的に見るとただの肥満であるけれど
そうは見ないという社会的取り決めのことである。
それを虚構という。

三増酒も虚構の酒なのである。
外国に出したら
ただのリキュールということなるが、
日本国内ではそうは見ないということになっているお酒である。

王様は裸だとはっきりいう人に対して
酒造業界の大手とその黒幕である大蔵省は
大人(おとな)の風格でそれを聞き流している。
大人の前にあっては正論も子供の告げ口ほどの意味もない。

純米酒こそ本当の日本酒だと考える人たちにとっては
三増酒は不倶戴天の酒である。
そういう人たちにとっては
三増酒ではなくても、アルコールをちょっとでも添加したお酒も許せないのである。

純米酒こそお酒だと考える人も
官能的にはアル添酒のうまいのが出てきたら
体は文句なく受け付けるはずである。
純米酒がすなわちうまい酒というわけではないからである。

ちなみに
庵主は純米酒とアル添酒の区別がつかない。
ただし、うまいお酒とそうでないお酒の区別はつくのだが。
人もいろいろ、会社もいろいろ、そしてお酒もまたいろいろなのである。 
[PR]
# by munojiya | 2005-10-20 01:37 | Trackback | Comments(1)
熟成酒
日本酒の古酒というと
庵主は以前なら
紹興酒のような色の、そして味わいの
かっこよくいえば老ねた(ひねた)お酒を思いうかべたものである。

いまは違う。
売れ残りの古酒とは別の
熟成酒と呼んだ方がいい
味わいがあることを知っているからである。

さらに
両者ともことなる
日本酒という範疇を超えて
酒という世界における美酒といっていい酒があることも知っているのである。

日本酒は造ってから1年以内に呑みきって
翌年のお酒を待つという呑み方が
長い間行なわれてきたから
熟成させたお酒のうまさが長いこと忘れられていたのである。

形式的には
造ってから1年を超えたお酒は古酒ということになる。
長く取っておいたお酒は
老ねてくる。

老ね香(ひねか。あるいは、ひねこう、と読む)である。
庵主は藤原紀香が好きなのでひねかと読む。
その老ね香が好ましい感じの時には熟成香というのである。
正体は同じでも人間の都合で益鳥とか害鳥と呼ぶのと同じである。

庵主は
最近は1年から2年ぐらい寝かせて置いたお酒がうまいと
思うようになった。
若いお酒もきれいだけれどその頼り無い味わいが物足りなくなってきたのである。

長く取っておいたお酒で
うまくないのはただの古酒
うまくなったのは熟成酒と
庵主は使い分けたいような気がするが一般的ではない。

一般的ではないのと同時に
熟成酒という言葉もそのうまさを言い表す言葉としては
いまいち魅力的ではないのである。
なんだかご老体を思わせる年寄りといった感じがするからである。

熟成酒は
人間で言うならば
老齢というのではなく、
矍鑠というべきお酒なのである。

酸いも甘いも知り尽くし
清濁合わせ呑む
善も悪も超越した
大人(たいじん)のお酒なのである

「黒松翁」(くろまつおきな・三重)平成8年大吟醸。
数年の熟成を経て味は複雑にしてうまくなっている。
低温で取っておいたのだろう酒の色はほとほんど透明に近い。
甘くて、しっかり深みが感じられて、お酒のうまさたっぷりという貫祿がある。

次に出てきた「天寿」(てんじゅ・秋田)1987年大吟醸は
色も飴色で老ね香を感じるがそれがかえって魅力になっているお酒である。
うまいかといえばそうともいえないのだが奥を感じさせるのは老獪な酒といおうか。
この酒の前にあっては「黒松翁」の平成8年もまだ子供なのである。
[PR]
# by munojiya | 2005-10-19 01:25 | Trackback(1) | Comments(1)
安いお酒を心安らかに呑む法
いいものを知っていると
安いものでも納得して使える。
いいお酒を知っていることで
安いお酒の価値をちゃんと評価しながら心やすらかに呑むことができるのである。

むかしあるワープロの機能をまだまだ未熟な段階だと評価をしたところ
そのワープロを使っている人から怒鳴られたことがある。
物のよしあしを評価することができない人だったのだ。
そのワープロの機能を評価しないで使っていたということである。

庵主はその酒を評価したのに、
それを呑んでいる人をけなしたと取られたのと同じである。
庵主は安いお酒が出てきても平気で呑めるのである。
そのお酒の価値を値踏みすることができるからである。

知ってて呑んでいるからである。
酒を呑んでいるからである。
酒に呑まれているわけではないからである。
そのお酒にマツワル評価で呑んでいるのではないということである。

いいものを知っているということは
物差しをもっているということである。
物のよしあしを判断できるということである。
判断した上で呑んでいるのだからなんといわれても平気なのである。

知ってて呑んでいますよということである。
こんな安酒、よく呑んでられるな、といわれても
はい、承知して呑んでいます、で終わりである。
物を知っているということは心の余裕になるということである。

それを、
安酒を呑んでいるお前はビンボー人だとか、
酒のよしあしがわからない阿呆だと受け取ってしまうのは
いいお酒を知らないという引け目があるからなのである。

無知ほど強いものはないというが、
それに徹することができれば心安らかにいられるのだが、
横に走っている高級車を目にすると
自分が乗っている安車(やすぐるま)が恥ずかしくなるものらしい。

高級車を知らないということで
高級車に幻想をいだいてしまうからである。
その幻の高級車に対して
安車しか乗れない自分が人間の価値も安いと馬鹿にされたと感じてしまう。

高級車幻想である。
豪邸幻想である
お金持ち幻想である。
そして高級酒幻想なのである。

前三者に対しては
庵主も縁がないから
庵主にも幻想があるが
こと日本酒に関しては恵まれていた。

結局
自分の身の丈にあった生き方が一番楽なようである。
お酒も高級酒のうまさを知っていても
普段呑むお酒は自分に合っている手軽な酒に落ち着くのである。

それは選択されたお酒である。
それしか呑めないお酒ではない。
それしか呑めないお酒であったとしても
わかっていて呑んでいるお酒なのである。
[PR]
# by munojiya | 2005-10-18 12:23 | Trackback | Comments(0)
板さん
板さんといっても
板前さんのことではない。
板橋さんという人がいたのである。
とっくのとうに亡くなってしまった人である。

しかし庵主の心の中では今なおしっかり生きているのである。
いまでもその存在感は生前と変わることがない。
お酒もそうである。
庵主が呑んだお酒は庵主の心の中にしっかり存在しているのである。

人が亡くなるということは
その人が死んだ時点ではない。
その人を知っている人がみんないなくなった時なのである。
そのお酒はそれを呑んだことがある人がみんないなくなったときに初めて枯れる。

庵主が呑んじゃったお酒に関しては
庵主が死んでもなお続くのである。
「むの字屋」にその記憶が残されているからである。
だから庵主に呑まれたお酒は幸せである。

というのは冗談であるが、
歴史上の人物はすでに死んでいても
長く語り伝えられることで生き続けることを考えれば
お酒も語り伝えることでその生命は永遠なのである。

もっともそれを伝える人が滅びてしまえば万事休すではあるが。
すくなくとも
庵主ははうまいお酒の命をもらって
それを語り続けているのである。

よく新製品を作った人が
それを発売したところ
開発者が思いもよらなかった
使い方をされて感心していることがある。

中には
パチンコカードを作って
開発者が思いもよらぬ不正利用をされたという例があるが
その場合は開発者が間抜けだったのである。

庵主は邪推するのが好きだから素直には考えない。
あれはそういうことが起こることがわかっていて
わざとセキュリティの軽いものを出したと見るのである。
関係者が裏金を作るためである。

その証拠に何百億円のお金が不正に略取されても
そのことでだれも責任をとっていないからである。
ブレーキのついていない自動車を作って売ってその車が事故を起こしたら
だれも責任を問われないということがあるだろうか。

もっともこの例だと
ブレーキがついていないことに気がつかなかった運転手の責任か。
しかしである。
アルコール飲料であるお酒を呑んで障害が出たら呑み手の責任なのか。

それとも
そういう障害が起こることもあることを知っていて売った人の責任なのかとなると
お酒を売る人は安心して売ることができなくなることだろう。
そんなのは車には交通事故死がつきものだと割り切ってしまえばいいのである。

現実は平均すると毎日数十人の自動車事故による死者が出ているのである。
だれもそれを気にしていないのである。
車にひき殺された人は運が悪かったのである。
板さんも酒の呑み過ぎで肝臓ガンに倒れたのだが運が悪かった一人なのである。
[PR]
# by munojiya | 2005-10-18 02:54 | Trackback | Comments(0)