白人は肉食、日本人は菜食
粉物(小麦粉)を食べるときにはワインやビールである。
一緒に日本酒を呑んだのでは酒も粉物もまずく感じる。
逆に刺身にワインやビールではその生臭さを引き立ててしまう。
というより刺身の甘さがそれでは引き出せないのである。

刺身にワインではせっかくの肴をわざわざまずくして食っているようなものである。
酒は土地土地によってその食べ物に合ったうまいものが造られるということである。
刺身だって白身、赤身、脂身によって合わせる日本酒を変えたほうがうまくなる
というがそんなにいろいろなお酒を揃えているお店は少ないだろう。

今まではお酒にそういう選択肢がなかったから刺身を出すお店は勉強不足なのである。
うまい刺身ならそれにふさわしい酒を持ってこいと叫びたくなるが、
残念ながら叫びをあげてもそれに応えてくれるお店はほとんどないのである。
ほとんどないということは、逆にいうとあるのである。

このプログは食い物屋を紹介するのが目的はないのでそこまでは踏み込まない。
いま狂牛病をめぐって体によくない牛肉は食べさせるなとかまびすしいが、
そもそも日本人にとっては牛肉を食うこと自体が体によくないのではないのか。
牛乳にいたっては大人にはかえって体に悪いと説く本まで出ている。

よく考えてみれば本来は牛乳は子牛が飲むものである。
断じて人間が飲むものではない。
それを人間が取って飲んでしまうのである、まさに搾取である。
ではミルクを人間の赤ん坊に取られてしまった子牛は何を飲んでいるのか。

子牛がミルクの代わりに飲まさせているものを聞いたらぞっとするだろう。
気持ちが悪くなるからここでは書かない。
とはいっても書かないとわからない人のためにその正体を書いてしまう。
これから先は気持ちが悪い話と怖い話が苦手な人は読まないでください。

子牛に何を飲ませるかというと死んだ牛の肉骨粉を水に溶かした代用乳である。
人間にたとえると生まれたばかりの赤ん坊に母乳を与えずに
病死した人間を粉にしたものを水にとかして飲ませるようなものである。
いつの間にかそんなふうに牛肉が作られていたということである。

そうやって牛肉が作られているということを知っている人がどのくらいいるか。
見た目は同じだから作り方などはどうでもいいと考えていると
知らないうちにこうなってしまうということなのである。
お酒もそうである、庵主がへんな日本酒やビールの造り方を非とする理由である。

牛肉ではなにが起こっているのか。
牛が牛を食っているのだから共食いである。
人間にたとえると人肉食である。
よくないのである。

それがなぜ悪いのかというと
体によくない症状が出てくるからである。
牛なら狂牛病と呼ばれ、羊ならスクレピーと呼ばれるる症状である。
人間でいうとクロイツフェルト・ヤコブ病が発症する(場合がある)というのである。

それらは名前は違っていても
発症する構造は同じものらしい。
狂牛病はいまはBSEとよばれるようになった。
その伝でいえばクロイツフェルト・ヤコブ病は狂人病ということになる。

脳味噌がスポンジのようになっていって人間が少しずつ壊れていくのだという。
クロイツフェルト・ヤコブ病は致死率が100%だといわれているが、
もともと人間の致死率は100%だから
早く死ぬか、死ぬまで生きるかの違いなのだが、そういわれるとなんとなく怖い。

それでも牛乳はカルシウムいっぱい(←実体はどうやらウソらしい)で体にいいとか、
肉を食べて性欲もりもりという広告に騙されて飲み食いしますかということである。
もっともお酒は百薬の長と騙されて呑んでいる人もいるから気にすることはないのであるが。
お酒をやめたほうが精神衛生にはよくないという説もあることだし(←眉唾)。
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# by munojiya | 2006-03-07 21:57 | Trackback(4) | Comments(1)
「円熟」
キリンビールが
2006年2月15日に満を持して発売したビールは「円熟」という。
これまでとは違ううまさだという。
電車の車内広告でそれを見たときに庵主はてっきりビールの新製品だと思った。

さっそく近くのスーパーに買いに行ったら売り切れだった。
後日別の酒の安売店で買い求めた。
飲んでみる。
味が軽い、というよりも味が浅い。

よく見たら発泡酒なのである。
もっとも買うときにその値段を見てだまされたと思ったことはいうまでもない。
おっと、かつがれたと書き直しておこう。
それでも広告に弱い庵主は一抹の期待を抱いたのである。

キリンビールが自信満々に出した発泡酒なのだから
きっとうまいものに違いないとあさはかな期待を抱いたのである。
飲んだ結果は先に書いたとおりである。
ビールを飲んでいるという感じに近いというよりも水に近い味わいである。

見ると麦芽使用率25%未満とある。
それを見て、はたと発泡酒がなぜいけないのかという屁理屈を思いついた。
庵主が発泡酒を馬鹿にするのは
それはまずいからというのが最大の理由である。

庵主としては今度の屁理屈はけっこう説得力があると思っている。
いま世間をにぎわしているのは耐震強度偽装事件である。
なにが問題なのか。
マンションやビジネスホテルを手抜きして作ったということである。

どのようにやったかというと一級建築士が図面から鉄骨の数を減らしたのである。
そうやって建築費(=製造原価)を下げることで買い手に迎合したということなのである。
要求される最低水準を下げて品質がよくない安い商品を提供したということである。
しかもその図面のチェックをした機関がその手抜きを見落としてしまったという。

手抜きをした建築会社やそれを唆した建築コンサルタントが悪いのはもちろんだが、
本当に悪いのはそれを見逃した検査機関である。
そういう無責任な人たちをやってはいけないことをしたとして糾弾しているのである。
その構造が発泡酒の構造に似ているとは思いませんか。

ビル、じゃなかった、ビールを造るときに
なんと麦芽の量を減らして造ったものが発泡酒なのである。
その考え方はよくありませんよね。
しかもそれをやっているのが日本で5社しかない「一級ビール製造師」なのである。

くわえて、それを見落としたチェック機関が本当は一番悪いのである。
だれか。
お酒の品質管理は財務省が一手に握っているのである。
そんなものを日本人に飲ませるなというのが庵主の主張である。

日本人は商品に対する要求水準が高いといわれれているが
ことビールに関してはその能力が発揮されないようである。
さらにお酒に対する要求水準もビール以上に低いというのも不思議なのである。
ようするにこれまでうまいものを飲み食いしてこなかったからなのである。

若造が高級車に乗っているのを見るとみっともないというのが庵主の感覚である。
中身に自信がないと外見で飾るしかないからである。
外見は目で見ればわかるが中身はわからないからとりあえずはごまかせると思うのが甘い。
とりわけその人の味覚の善し悪しは目に見えないから二の次になるのである。

それにしてもキリンビールは勿体(もったい)ないことをしたものである。
「円熟」というネーミング(商標命名)は発泡酒なんかではなく
まっとうなビールにつけるのにいい名前なのに。
若造が「円熟」という高級車に乗っているとしか見えないからである。
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# by munojiya | 2006-03-06 22:32 | Trackback | Comments(0)
日本語を話すと女性は美しくなるという
どこの国にもお国自慢というのがある。
庵主はご当地産のうまいお酒を飲ませてくれるというのなら
いくらでもウンウンと相槌をうってそれを聞いてあげる。
うまいお酒が造れる国ならその自慢話を信じちゃうのである。

自慢話を信じるわけではない。
その国の人たちがうまい酒を飲んでいるということに敬意を表するのである。
そのうまい酒を飲ませてくれるということがありがたいことだからである。
人にうまい酒を振る舞うという気持ちだけでも十分自慢するに値することだからである。

お国自慢ということは
他の国のことも知っているということである。
お酒と同じで
比較するからそのいいところがわかるということだからである。

ということは
同時に他より悪いことも目につくということである。
庵主ならお国自慢を聞く前に
自分たちの悪い点をどのように認識しているのかを聞きたいほどである。

遅れている面を自分から話せるようなお国柄なら
ますますそのお国自慢を讃えてあげたいほどである。
相手の国を謗(そし)らない国が上等の国と定義した人がいる。
今、中国、韓国、北朝鮮のわが国に対する言動がかまびすしい。

なぜ支那、朝鮮と書かなかったかというと
忠告、勧告、来た挑戦と語呂合わせをしたかったからである。
雑誌「アエラ」の車内吊り広告みたいになったが
もっと静かにしてほしいというのが大方の日本人の感懐だろう。

今、日本人は中国人も韓国人もはっきりいって興味はないのである。
わざわざわが国に窃盗団とか集団スリを送ってくれないでくれという
ささやかな希望があるだけなのである。
観光に来るだけならば拒まないよということなのである。

ただそれらの政権が日本に対していろいろ言ってくるから
仕方がなしに相手をしているというのが実情だと思う。
中国共産党はいう。
先の大戦は、日本人は一部の戦争指導者に騙されたものだから日本人には罪はないと。

その伝でいくと口やかましい政権とその国民とは別だということになる。
国は国、国民は国民でいいのじゃないかという割り切った考え方である。
喧嘩は喧嘩、親善は親善という実際的な対応のことである。 
それにしても東アジア悪のトライアングルは口うるさいのである。

国内政治がうまくいっていないから外に注意を向けているのだという人がいる。
一説には本当は日本のお金が目当てなのだとうがった見方をしている人もいる。
庵主なら、うまい酒を持って来たらいくらでもその愚痴を聞いてあげる。
もっとも酔っぱらって、聞いたことはすっかり忘れてしまうにちがいないが。

他国を貶すことで国内の結束を図るようになったらそれは政権が無能の証なのだろう。
一方、美人を比べてみると日本・支那・朝鮮とも甲乙つけがたいのである。
しかし、言葉には日本語に一長があるようである。
大学教授が書いていたことによると日本語を話すと女性はやさしくなるという。

中国からの女留学生が中国語で話しているときはとりつく島がないが
同じ人が日本語で話すと感情が細やかになるという。
日本語を話すとより美しくなるということである。
そういうのをお国自慢というのだろう、いや依怙贔屓というべきか。

そして、へたな酒よりはやっぱり日本酒のほうがずっとずっとうまいのである。
おっと、またお国自慢になってしまった。
日本にいてお酒のお国自慢をできるのも世界中の酒が集まってくる国だからである。
実は世界中からいろいろな酒を集めてくる人がいるということが本当のお国自慢なのである。
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# by munojiya | 2006-03-05 23:52 | Trackback | Comments(0)
そっくり転載
新聞記事からそっくり転載する。
著作権というのがあって、
他人の文章を無断で使ってはいけないということになっているが、
新聞記事である、そっちだって右から左に書き写しただけだろうから。

というのも出所が厚労省研究班だから記事でもなんでもない。
国からの通知スペースを新聞がただ提供しただけの手抜き記事だからである。
新聞の見出しだけは著作権が発生するのかもしれないが
だれが書いても似たような内容ならそれを主張することはあるまい。

と前振りが長いのはとある訴訟が好きな新聞からの転載だからである。
以下転載開始。
「1日3合はリスク2.3倍 酒と自殺の関連調査」
飲酒と自殺の関係について男性約四万人を調査した結果、

一日三合以上飲む人や、全く呑まない人の自殺リスクは、
月に一~三日程度飲む人の二・三倍になることが一日、
厚生労働省研究班(主任研究者=津金一郎国立がんセンター予防研究部長)の
調査で分かった。

一日付の英精神医学誌「ブリティッ酒・ジャーナル・オブ・サイカイアトリー」に
掲載された。
日本では、自殺者が毎年三万人を超え続けて社会問題化。
習慣的な大量飲酒が要因になるのは知られていたが、

全く飲まない人からの高リスク検出は初めてという。
研究班は、岩手、秋田、長野、茨城、新潟、高知、長崎、沖縄の八県内の
計九保健所の各管内に住む四十~六十九歳の男性四万三千三百八十三人について、
七~十年(平均八・五年)のついて追跡調査を実施。

その間、百六十八人が自殺した。
分析に際し、全体を飲酒状況で
「全く飲まない」(23.8%)、「月一~三回」(9.6%)、
「週一回以上」(66.6%)の三群に分類。

さらに「週一回以上」について、日本酒換算で一日当たり
「一合未満」「二合未満」「三合未満」「三合以上」の四グループに分けた。
その結果、「月一~三回」の自殺リスクを「一・〇」とすると、
「一合未満」が一・二、「二合未満」が一・四、

「三合未満」が一・三となり、「三合以上」が二・三と最大になった。
一方、「全く飲まない」も二・三となり、
中でも「飲んでいたがやめた」に限ると六・七と非常に高い数字が出た。
研究班は「ただ、酒を呑めば自殺リスクを下げられる、

という結論が出たわけではない。
アルコールの害も考えると、
一日一合程度にとどめた方がいい」としている。
以上転載終了。

新聞の見出しには「飲まない人も高い数字検出」とも書かれている。
落語に足止めの術というのがある。
寄席に来て途中で帰ってはいけませんよ。
そういう根性のない人は寄席を出た途端に事故に遭う人が多いといいますから。

この結果はどこまで信用できるのか庵主には統計の知識がないので判断できかねるが、
いま眉に唾をつけながら書いているけれど、酒屋の方便には使えそうである。
厚労省の権威ある研究班が十年間かかって調査した結果が出たんです。
それによるとお酒をやめるのは危ないんです。

そんなことをすると死にたくなるんです。
全然お酒を飲まない人の六・七倍も自殺者が多いんですよ。
そんな危険なことをやっちゃあいけない。
お酒はね、呑み続けることに意義があるんですよ。 

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英精神医学誌「ブリティッ酒・ジャーナル・オブ・サイカイアトリー」はブリティシュの間違いでした。
庵主のワープロはお酒モードになっているからついそういう変換をしてしまうのです。
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# by munojiya | 2006-03-04 22:48 | Trackback | Comments(0)
御用達
御用達とあると「ごようたつ」と読む人がいる。
庵主などは中途半端に字が読めるから
そういう読み方をする人を嗤(ばかにして、わら)うのである。
「ごようたし」だろうが、と。

重複を「じゅうふく」と読んでいる人にもフンである。
「ちょうふく」でしょう、と。
と書くとそんなことどっちでもいいと思う人もいることだろう。
しかし、該当を「かくとう」と読んでる人がいたらおかしいと感じるはずである。

もっとも「曄」を素直に「か」と読んだら
それは田舎読みだと馬鹿にされたことがある。
それで庵主が中途半端にしか漢字を読めないことを知ったのである。
本当は、「黄長[火+華]」の[火+華]を例に引きたかったのにその字が出ない。

ワープロにその漢字がないようなのである。
毎度書いていることだが、
ワープロでは打てない漢字が続々と出てくるので閉口している。
その解決方法はないこともないのだが互換性が損なわれるので使えないのである。

言葉は相手に伝わってはじめて伝達方法としての価値があるわけだから
日本語でそこのところに肝心な漢字が使えないとなると
いいたいことが伝えられなくなるから不便なことこのうえない。
日蝕を日食と書いたりすると表現の幅を狭めるということである。

ちなみに、黄長[火+華]とは
北朝鮮から韓国に逃げて来た人である。
庵主は朝鮮人の漢字名は日本語読みするから
「こう・ちょうか」と読んでいて笑われたことは前に書いたとおりである。

すなおにファン・ジョンヨブと現地の読み方にならっていれば
恥をかかないですんだのである。
たしかに、裴勇俊を「はい・ゆうしゅん」と読んだのでは
ぺ・ヨンジュンの笑顔が思い浮かばない。

庵主が通っていた学校の国語の先生に
便覧を「びんらん」と読む先生と
「べんらん」と読む先生がいた。
お互いに相手の読み方はまちがっていると言い合っていた。

びんらんの先生はいう。
郵便局をゆうべんきょくと読むか。
べんらんの先生は
便所をびんじょと読むかと応戦していた。

読本を「どくほん」と読む人がいるが
これは「とくほん」である。
日本語は正しく読めなくても
意味がわかるから普段は恥をかかないですむのがいい。

日本酒読本という本があるので
庵主は、ならば日本酒毒本を作ろうと心しているところである。
大地震なども
庵主は「おおじしん」だったか「だいじしん」だったかいつも辞書をひいている。

御用達は「ごようたし」と読むものと信じて疑わなかったのである。
しかし本を読んでいたら
「ごようたし」という読み方が嫌だという人がいた。
用を足しにいくように聞こえるからだという。

なるほどと思う、庵主も「月桂冠」でひっかかることがあるからである。
そういわれてみると「ごようたつ」と読むことも一理はあると思うのである。
ただし、お酒は御用達(ごようたし)でいいのである。
呑めば翌朝にはおしっこになるからである。
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# by munojiya | 2006-03-03 21:27 | Trackback | Comments(0)
酒造りは仮説の証明である
絵を描くということはどういうことかというと
仮説を実証することだという。
絵を描くということは再現性を求めて実験を続けているということなのである。
画家の岡野浩二が書いた本「芸術の杣径(そまみち)」は庵主にとっては得るところが多い。

いい酒といい絵の見分け方を以前に書いたことがある。
それは庵主の実体験から得られたことだから実用的な知識である。
気がつかないとそれを知るのに長い時間がかかることを
庵主はぜんぶ教えちゃう、職業作家ではないからである。

「芸術の杣径」はいうならば手品のたねあかしを書いた本である。
そういうすごい手品のたねあかしをしてもいいのかと思う。
その本の値段が税込みで2500円である。
庵主は本をよく買ってきて読むが日本人の書き手は馬鹿じゃないかと思うことがある。

たった100円かそこらで数十年の経験を語るというのは
安売りも甚だしいのではないかということである。
庵主の頭なら何十年考えても思いつかないだろうことを
惜しげもなくさらけ出してしまうのだからすごいと思うのである。

1冊の本を売っても著者に入るのはその売値の10%ぐらいだろう。
今時の本の売れ筋は1500円前後だから1冊売れても百数十円というわけである。
日本人にはそれでも人に伝えたいものがあるということなのである。
どうやら庵主にもその性(さが)が備わってるようである。

それが日本人の特徴なのかもしれない。
中国人は会社勤めで手にいれた知識などでも独り占めして人に教えないという。
ノウハウ(知恵)は銭になるというわけである。
日本ではその貴重なノウハウをたった百円で売っている。

詳しく書かれた美術史を読むよりも
「芸術の杣径」を読んだ方がずっとよく分かる。
多くの画家はこれまで何をやってきたかということがわかる。
そうだったのかという合点がいく。

そして一人の画家が今何を描こうとしているのかがわかる。
それがなんと科学者がやっていることと同じだった。
それはまた「むの字屋」を書いている庵主の向かうところと同じである。
仮説を立ててそれが再現できるかを絵を描いて確かめているという。

岡野浩二はなぜ平気で手品のたねあかしをするのか。
それはたねを知ってもできないということが分かっているからである。
トランプの手品の技法にセカンドディールというのがある。
一番上のカードを配ると見せかけて実は2枚目のカードを配るというテクニックである。

セカンドディールは上手な人がやると、分かっていても見ていてそうとはみえない。
自慢じゃないが、庵主のダブルリフトもダブルリフトに見えないことがある。
トランプの厚さをきちんと押さえることができないから
トリプルリフトになってしまうことがあるからである。

それはそれでまた違う演出ができるから都合はいいのだが。
画家はなぜたねあかしをできるのか。
その手品を実際にできるという自分の技に矜持をもっているからである、芸術家は。
芸術家といっても偉いわけではない。

庵主の定義では芸術家とは快楽を率先して求める人のことである。
快感を掴んだらその快感を人に分け与えてくれる人である。
そして絵を描くということは先人のたどった道をもう一度踏みしめて前に進むことだという。
お酒も同じで「むの字屋」を読んでもショートカット(近道)はできない。

同じ道をたどらないといい酒のよさが分からないからである。
前を知ってはじめてあとが分かるからである。
そして、この道はある一つの方向を向いているなということが
うっすらと見えてくるようになるのである。
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# by munojiya | 2006-03-02 23:29 | Trackback(1) | Comments(0)
佐伯祐三、松本竣介、モジリアーニ
岡野浩二(おかの・こうじ)という画家がいる。
画面に大きな白いまん丸を描いただけの絵がある。
見た目はコンパスで描いたような綺麗な円である。
そしてその白は真っ白である。

その白がこころよいのである。
白い絵の具で描かれているのだが、
その白は絵の具の白を越えて
庵主の心の中にある観念的な白に近い。

蠱惑的である。
妖しい白である。
心が吸いこまれる白である。
庵主は絵を見ても色しか見ないからその色が美しい時には心が引かれてしまう。 

若いころにいいと思っていたのが
佐伯祐三(さえき・ゆうぞう)の絵であり、
松本竣介(まつもと・しゅんすけ)の絵であり、
モジリア-ニの絵だったという。

還暦を前にして
いまではそれらの絵では心が満足できなくなったという。
この3人は庵主の好みとぴったり重なるからつい吹き出してしまったのである。
たしかにそのとおりだと思ったからである。

そしてそれは庵主が歳をとったあかしだと思ったからである。
お酒でいえば
それらのお酒は庵主の好みのお酒である。
まるでフルーツのような香りがする吟醸酒である。

それらはたしかにいいお酒なのである。
華があるお酒である。
しかし、いろいろなお酒を呑んできたら
もっとシンプルな味わいのお酒によりうまさを感じるようになったのである。

もちろん、うまくないお酒は庵主にはもう呑めない。
呑むときはうまいお酒でなくてはならない。
そういうお酒をちゃんと造ってくれる杜氏は少なくないということである。
そのことを知っているだけに日本酒は庵主の心を掴んで放さないのである。

お酒も絵もそれに接したときの感懐は、
才気の感じられるにぎやかなものをへて
おちついたものにより安らぎを感じるようになるもののようだ。
才気とか主張がうるさいものはもういいやという気持ちになる。

日本酒は
昔の純米酒しか造れなかったころのお酒と
今日(こんにち)の現代日本酒とはその中身が違っているということである。
先端的な日本酒は実用を越えて美に向かっていることは間違いない。

日本酒のうまさが庵主の心を引きつけるのは
絵を見る時に感じる快感と同じような美しさをそこに感じるからである。
庵主はいいお酒は芸術品だと思っているが
最先端の日本酒はこれからますますそれに磨きがかかることだろう。

岡野浩二は仮説を立てて絵を書いているという。
日本酒もその造りは仮説に基づいて造るという道を進むことになるだろう。
いまでもある人は花酵母の可能性を探ったり
新しい米を使って日本酒のうまさを追求している。

その成果が次々に味わえるのだから現在の日本酒はたまらない。
今の日本酒はめちゃくちゃに面白いのである。
もちろん庵主は自分にとってはこういうお酒が究極だといえる酒をすでに知っている。
そのお酒の再現性をどうやって高められるかが庵主の注目しているところである。
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# by munojiya | 2006-03-01 21:57 | Trackback | Comments(0)
普通酒の方がうまい蔵
一般的には特定名称酒のほうが
普通酒よりもうまい酒だということになっている。
数ある蔵元の中には
その蔵の特定名称酒よりも普通酒の方がうまいというところがあるのである。

長いこと三増酒なり普通酒を造り続けてきたために
そのノウハウは極まったけれど
造りが慣れていない特定名称酒の方は
いま一つそのうまさを引き出せないという蔵元である。

普通酒のいいところは
あえて、いいところ、と素直に書くが
値段が安いということである。
だれにでも買いやすいということである。

そのうえ
はっきりいってまずいから
お酒を呑む気がしなくなるので
アルコールの害毒から逃れることができるということである。

そういうお酒のおかげで
いま日本酒の需要はどんどん減っている。
それは考えようによっては
過剰な飲酒を抑制する方向に世間を導いているということである。

日本の映画が不振になったときに
映画人はよく口にしていたものである。
これからはお客さんが見たくなるようないい映画を作ることが
映画の落ち込みを防ぐためにはしなくてはならないことである、と。

問題はいい映画と一口にいっても
そのいい映画がどんな映画なのかが分からないということである。
映画を専門に作っている人でさえ分からないのである。
まさか文部科学省の推奨映画みたいな映画がいい映画であるわけがない。

そういう映画では客が入らないからである。
儲かる映画といい映画とは違うということである。
売れる映画とはどんな映画なのか映画人はそれを模索して今でも呻吟している。
それというのも映画は水物だからである。

当たるか当たらないかはやってみなければわからないという要素が大きいからである。
その点いい酒を造るということに関しては映画と違って苦労が少ない。
いいお酒は容易に造ることができるからである。
普通に造るとうまいお酒ができてしまうからである。

蔵を継いだ若蔵元が基本通りにまじめに造ったら
最初の造りからうまいお酒ができてしまったということをよく聞く。
仲間うちではそれをビギナーズラックだといってからかっているというが、
それが多発するということはそれは当然予想できる結果であるということである。

今の酒造りは昔と違って失敗のない酒造りなのである。
香りを出すことも今では容易になってかえってそれが鼻につくほどである。
普通酒と称して普通に造っていないからうまくない酒ができるのである。
きちんとお酒を造ればうまい酒になるのは当たり前のことではないのか。

できあがったお酒がうまくないというのは
わざとうまくないお酒を造っているということなのではないか。
もっともいいお酒なのに必ずしもうまくないということもまた確かなのであるが。
逆に安いお酒なのにうまいお酒を造ってしまう蔵があるということである。

でも本当にあるのである。
普通酒であったり、ときには三増酒であったりするのだか、
それを承知で呑んでみると意外とうまいということが。
それなりの酒質で庵主の気持ちをきゅっーと掴んでしまうお酒が。
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# by munojiya | 2006-02-28 22:21 | Trackback | Comments(0)
無粋だねぇ
粋(いき)という言葉がある。(裏も表も知ってて、すっきり)
いなせという言葉もある。(それを志向して、すっきり)
堅気という言葉もある。(それしかできなくて、すっきり)
いずれもすっきりした振る舞いをいう。

すっきりを英語でいえばスマートである。
スマートには賢いという意味もあるという。
スマートは軽量級の身のこなしをいうのだろう。
かっこいいと訳しても当たりなのかもしれない。

粋の反対語は野暮なのだろうが、
野暮ということば自体が野暮なのでそういうときは無粋(ぶすい)という。
ダサイという言葉がある。
それ自体がダサイ言葉である。

名は体をあらわすというが、
ダサイという言葉がそれ自体ダサイのに似て
野暮もそれ自体がやぼったいのだけれどこれはこれで逆に粋な表現なのかもしれない。
野暮をからかっている雰囲気がよく出ているからである。

からかうということは
自分が対象に対して優越感をもっているということである。
そのかわり、からかった対象に対しては
体を張って守ってやるという気構えを持っていなければならないということである。

その気構えがある人をいなせという。
ない人を単にやくざという。
からかうことは愛情の裏返しでもある。
また野暮は人の振りみてわが振りなおせなのである。

うっかりすると俺も野暮なことをやっているなという自戒なのである。
もっとかっこよく振る舞いたいという美意識の発露である。
そう、美意識なのである。
美意識は差別の根源であるというのが庵主の自説である。

日本人はけっこう美意識には敏感なようである。
江戸時代にはやった浮世絵は
庶民の間にもてはやされたという。
いいものがわかるのである。

日本人は買い物においても商品に対する要求水準が高いといわれている。
外国人からすれば過剰品質ともいえる製品でないと売れないという。
いい仕事にはお金を出すという気風があるということである。
しかしそれにしてはお酒に対する要求水準が低いのが解せないのである。

というのも昔はお酒の選択肢が狭かったからである。
今と違って大吟醸だの吟醸酒といった品質の多様性もなかった。
日本酒のそのような変化に日本人の感覚がついていけないということなのである。
だから「むの字屋」は現代日本酒を布教するためにこうして尽力しているのである。

無粋といえば、
客が、お店の符丁を使うというのがその代表的例である。
お客が寿司屋でお愛想、あがり、むらさきというのがそうである。
業界用語を部外者が使うのはみっともない。

普通酒という言葉も業界用語だろう。
普通酒と表示して売られている日本酒を見たことがないからである。
普通酒を下さいといってお酒を買いにいく人もいないからである。
その言葉を平気で使っている庵主は呑み手なのに業界寄りなのである。

そういうのって無粋なんだろうなと
はたと気がつくのである。
素人はそういう符丁で呼ばれる酒には近づかない方がいい。
だから庵主もできれば普通酒には関わりあいになりたくないと思っているのである。

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庵主の自説に興味がある方はこちらもどうぞ。
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# by munojiya | 2006-02-27 22:17 | Trackback | Comments(0)
実はひそかに差別の美味を呑んでいる
差別という言葉がある。
庵主は北海道で育ったものだからその実感がない。
言葉では知っているのである。
部落差別であり朝鮮人差別である。

北海道でもアイヌを和人とは違うと見る目はあったし、
子供の時分には在日朝鮮人の子供をからかって囃す言葉はあったから
北海道にそれがないというわけではない。
ただ幸い庵主はどちらかというと差別する側にいたからさほど感じなかったのである。

純正北海道人だったからである。
もともと北海道人自体が
本州のことを内地と呼んでいたほどだから意識的にははみ出し日本人ばかりなのである。
いや、従来の日本人の因習にとらわれないおおらかな日本人ということにしておこう。

北海道人同士で差別をしようにも
3代もさかのぼれば
みんな内地から落ちぶれて流れてきたか訳ありの人たちばかりだから
出生の違いでは差別のしようがなかったのである。

庵主が育った北海道の千歳市は戦前は海軍の航空基地があった。
戦争に負けたから進駐軍がやってきた。
アメリカ兵である。
黒人兵(クロンボ=当時用語。今でもそうか)もいた。

アメリカ占領軍(進駐軍=当時用語)はなんと昭和27年まで日本を占領していた。
戦争をしていたのはたった3年と9か月なのに
占領期間が7年間である。
これは何かあると考えるのは当たり前のことである。

家庭内暴力で暴れる子供が出たときに矯正施設の先生がいう。
こんな子供になるのに十八年かかったとしたら
直すのにそれと同じ時間がかかります。
じっくり時間をかけてなおしていきましょう、と。

アメリカの進駐軍がそれに要した時間は戦争期間の倍の7年である。
ということは事前にそれだけの時間をかけて日本に罠を掛けていたということである。
馬脚をあらわすというのはこういうことをいう。
真珠湾のずっと前からアメリカは対日戦争を遂行していたということである。

そういう性格(たち)の悪い人種を差別することをしてはいけないのか。
庵主はしちゃうのである。
そういう性格の悪い人間はきちんと差別しないといけないのである。
洗練されていない振る舞いを目にしたらきちんと差別するのである。

日本では現在でも差別することが公然と奨励されている世界がある。
商品販売の教科書には他を蹴落とすために差別化を進めようという言葉がよく出てくる。
差別はしちゃいけないのじゃなかったっけ。
しかし市場においては買い手は差別する能力を試されているのである。

商品を差別化して売りまくれというのも、
客が、すなわち人間が本質的に差別することを好むからにほかならない。
庵主は自分の美意識が差別に根ざしているということを知っている。
大人の振る舞いというのはそれを知っている上でそれをあからさまにしないことである。

美意識とは美しくないものに対して美しいものの優越性を高く評価する態度である。
美はそれを評価する人の心の中にその基準があるということである。
その判断能力が美の実体である。
そして人間は美をこよなく愛するのである、美人は無条件に肯定されているではないか。

美の本質は快感である。
うまいお酒をそうでないお酒に対して高く評価するのも美意識による。
庵主はより快感を味わえるお酒を指してうまいお酒といっては憚(はばか)らない。
つまり庵主はいま差別の真っ最中なのである、差別の美味に酔っているのである。

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差別には上に向かう差別と下に向かう差別があって、この記事は両者を混同しているような気配があるような気がしますが、いずれも自分は他人より優れていると感じることが快(こころよ)いという人間性に由来するという話ですからその点には目をつぶることにしました。その感情をくすぐることが商品の差別化だというわけです。商人はあざといのです。

トリノオリンピックのフィギュアスケート女子で荒川静香が人種差別の壁(偏見のこと)を乗り越えて金メダルを取りました。白人も少しは大人の振る舞いができるようになったか、荒川静香がよっぽど魅力的だったのでしょう。こういうときにテレビがないとそれを生で見られないからさびしいのですが、そのためだけにテレビを買うほどテレビには魅力はありません。うるさいからです。

今回の金メダルは上に向かう差別が下に向かう差別を凌駕してしまったというわけです。差別をすることはいけないとはいってもその能力がない人のことを馬鹿といって差別するわけですから人間の心は複雑なのです。そういうふうにできているのです。やっぱり大人の振る舞いしかないでしょう。そしていいお酒でも呑んで下に向かう差別を超克するしかないのだと思います。
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# by munojiya | 2006-02-26 22:05 | Trackback | Comments(0)