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2015-11-12 ヤクザの論理

作曲家・鈴木淳(ちあきなおみの「雨に濡れた慕情」を書いた人)のブログにあった話である。
老婆が、電車の優先席を占有していた若い乗客達を窘〈たしなめ〉めたという。
一人のおばぁちゃんが物凄い形相(ぎょうそう)で、こちらに近付いて来た。
……かと思うと、「どきなさい!」と言って、ボクの隣の学生の手を引っ張って席を立たせた。

それから、その儘こんどは、もう一つ隣の席の目をつむっている女性に向かって「あんたもよ!」
と言いながら凄い勢いで手を引っ張って立ち上がらせたんです。
[中略]
そして今度は、さっきボクに席を譲った若者に向かって「邪魔なんだよ。通れないだろう!」と、
思い切り横に払った。
』(典拠)。

その時の決めゼリフが凄いのである。
絶対反論できないのである。
「私らは苦労して戦争を生き抜いて、年をとって来たんだ!」と大声で怒鳴り続けている。』。
「俺達はナチスに虐殺されたユダヤ人だ」というのもある。じゃ、今どうして生きているのか。

「俺達は日本に強制連行された」というのもある。連行されたのは戦後の事だというのだ。
最近では「私は性奴隷にされた」というのもある。反論するのも大人げないのである。
馬鹿馬鹿しくて、である。自分は正義だから何をやってもいいのだ、と言うのだ。節操がない。
「需要があるのだからアルコールを混ぜる事がなぜ悪いか」というのもある。反論できない。

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同じ鈴木淳のブログにこういう話もあった。
39年前の話だという。ただし、今は、その時からさらに7年の歳月が流れている。
先程、「ちあきなおみ」の所属していたプロダクションの社長、吉田尚人氏(故人)の
ご子息、吉田竜太君から電話がかかって来た。

「今日は、ちあきなおみが『雨に濡れた慕情』でデビューした日なので、どうしても先生に
お礼が言いたくて……」という事だった。
』(典拠
故人の命日にというのならよくあるだろうが、デビュー日を偲んでという所が凄〈にく〉い。
鈴木淳も嬉しかった事だろう。自分の仕事を覚えててくれる人がいたのだから。

# by munojiya | 2015-11-12 00:03 | 世話物 | Comments(0)
マイナンバーなる番号を、国民一人一人に付番するということになったという。
何のためにそんなものを作るのか、庵主は理由を知らないのである。
このまえ作った住民番号とどう違うのか。
それ以前に、わざわざ大金をつぎ込んで作った住基番号は今、役に立っているのか。

庵主はその13桁のその番号が役に立っているという話を聞いた事がないのである。
こんどのマイナンバーはそれと同じことになるのではないのか。
財務省の利権である。税金の無駄遣いである。
法務省が、裁判員制度という利権を作って今困惑しているのはご存じのとおりである。

しかしながら、庵主の疑問は解消されないままに政策は進行するのである。
マイナンバーは、漢字で書けば「国民総背番号制度」てある。
別称でいうなら、「アウシュビッツナンバー」である。
ナチスドイツは、強制収容所に収容したユダヤ人に番号を付けて管理していた。

最近公開された「顔のないヒトラーたち」と映画に、腕に番号を入れ墨されたアウシュビッツ
に収容されていたユダヤ人が出てくる。映画では吐き気を催すエピソードを担っていた。
マイナンバーは、買物の時にも呈示させるという話が出てきたのである。すでに狂気である。
アル高患者には酒を呑ませないという親切心で使われるようになったら、悲劇である。

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既にこのシステムを構築するために2兆円近い税金が関係者の間で山分けされているという。
はたして、それだけの税金を投入しただけの利益と効果は本当に得られるのだろうか。
そのへんの損得勘定も庵主は聞いていないのである。
純米酒の定義が変わった事がある。

それまでは、精米歩合70%以下でなければ、米だけでお酒を造っても「純米酒」とは表示
できなかったものを、精米歩合の縛りを外してしまったのである。
70%を越える精米歩合の米でもおいしい純米酒が造れるようになったからというものである。
そのときも、庵主は何も聞かされていなかったのである。庵主は泡沫の有権者なのである。

# by munojiya | 2015-11-12 00:02 | 時局物 | Trackback | Comments(0)
酢飯はご飯に酢を混ぜたものである。
何のために酢を混ぜるかというと、寿司を作るためである。
ご飯に酢を混ぜるだけなのに、うまい酢飯を作るには蘊蓄〈ノウハイ〉が必要なのである。
その蘊蓄が文化なのである。文化が貧弱な国を発展途上国という。

「発展途上国」とは、以前は「後進国」と呼びならわされていた言葉である。
「ボケ」が「認知症」になったり、「盲」が「目のご不自由な人」になったり、
元の言い方より字数が増えたときは、その裏に邪念があるという事である。
言葉の言い換えとは、普通は、字数を、もしくは音節を減らすものなのだからである。

それを発展途上国と、したり顔でいう人の邪念の程はいいうまでもない。
わが国が発展途上国と呼ばれないのは、先人が積み重ねて来た文化が厚いからである。
しかし、その文化も、先達がきちんと後生に伝えないと「今時の若い者」ができあがる。
「今時の若い者は何も知らない」という大人がいたら、それはその大人が悪いのである。

恥を知るのはそっちの大人の方なのである。
文化の一端はこんなふうに、ネットが伝える手くれるのである。知らないと損をするのである。
お酒の蘊蓄は、庵主が後生に伝えるのである。知らないとうまいお酒を呑み損なうのである。
「むの字屋」にご来庵の後生に対しては「今時の若い者は」とは言わせないのである。

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恥ずかしながら、庵主は「三杯酢」の意味を知らなかった。
大体、庵主は、「生肉、生魚、生野菜」を好んで食べる習慣がないので、酢飯で生魚を食べる
(いわゆる寿司)という事がないから、そういう知識が必要なかったからである。
酢に醤油を混ぜたものを「二杯酢」というのだという。知らなかった。別名が酢醤油である。

それに砂糖を加えたのが「三杯酢」である。なるほど、そういう意味だったのか。
さらにそれに鰹の出しを食らえると「土佐酢」になるという。
そうだったのか。それをビーフステーキに掛けて食べる事を「テキサス」とは呼ばないか。
この年になって初めて「三杯酢」の意味を知ったのだ。知らなくても生きてこれたのである。

# by munojiya | 2015-11-11 00:04 | 世話物 | Trackback | Comments(0)
日本ハム糾弾、広告撤去「アイヌ民族配慮欠く」(典拠)というニュースがあった。
北海道にまだ「アイヌ民族」がいたということを知ったのである。
もう、てっきり日本人に順化したものだとばかり思っていた。
在日韓国人で、自尊心のよすがを朝鮮民族の血に求める人達がいる。

日本語で話し、日本で生活しているのに、である。そういう生き方異端と呼ばれるのだろう。
庵主のように、「多少はお酒が分かる」という、旗から見たらどうでもいいような事によすが
を求めてかろうじて生きている者もいるから、他人が何に生きるよすがを求めようとそれまた
どうでもいいことなのだが、在日のそれは見苦しい。

というにより、日本人に対して失礼だろう。
もっとも、その思いはご家庭内に収めていてもらう分には、なにも問題はないのである。
「俺は朝鮮人だ」ということを、この日本で殊更主張されるのが困るのである。
「だからどうしたの」としか返事のしようがないからである。

生活の利便も文化の恩恵もそして身の安全までももすべて日本から享受して生きているのに、
自分だけは「特別な朝鮮人」だと言われても、その期待に応じることができないからである。
アイヌもそんなに日本が嫌いなら、日本に寄生しないで、自分達だけで暮らせばいいのである。
自分達の地を日本人に奪われたというのだろうが、生きていられるだけ幸せだったのである。

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アメリカの原住民は、インディアン(印度人)と呼びならわされて、白人に皆殺しにされた
のである。力がない民族は滅ぼされても文句がいえないのである。
殺す側に良心を求めても詮方ないからである。滅ぼされたら文句を言う口もないけれど。
アメリカは、今では開拓者の大地なのである。同様に、北海道も開拓者の大地なのである。

「開拓者の大地」の裏側が「アイヌの居住地」ということになるが、
どっちが表かといわれたら、やっぱり開拓者の大地である。現にアイヌの影は薄いのだ。
着物の表地と裏地は一対であるが、裏地を主役にすることはないのである。
裏地が、「俺を表に出させろ」と言ってきてもねぇ。その料簡が笑われるだけである。

# by munojiya | 2015-11-11 00:03 | 時局物 | Trackback | Comments(0)
世の中には、知らない方が幸せな事が少なくない。
庵主などは、そういう事柄には極力関わらないようにして生きている。
関わっても益する事がないからである。例えば、自分の悪口を知りたいですか。
そんな事と関わっても不必要な気苦労をするだけで何の利益にもならないからである。

あるいは、ヤクザと関わりたいと思いますか。
好き嫌いとか、善悪とかいった個人的な感情を越えて、そういう人達が今現在、ちゃんと存在
しているのである。そして知らなくても生きていけるのである。知らない方が健全なのである。
愉快な事を善、不愉快な事を悪としたら、善と悪は今、同時に存在しているという事である。

知らなくてもいい事を知るという事は、好んで悪に近づいていくということなのである。
超高層マンションの最上階で暮らせる事なら憧れかもしれないが、刑務所の雑居房で暮らす事
を望む人はまずいない筈だ(望む人もいるのだ)。雑居房は知らない方が幸せな事である。
知らない事を無知と言う事もあるが、知っているからといって利口だというわけでもないのだ。

で、高速増殖炉「もんじゅ」の話である。こういう話は知らない方が幸せなのである。
知ると、ぞっとするのである。精神衛生に悪いのである。知ってもどうしようもないのだから。
世の中に、うまくないお酒は多いが、逆にうまいお酒も今現在同時に存在しているのである。
うまいお酒は、美人同様、当然数は少ないのである。それも亦知らない方が幸せなのかも。

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知らないほうが良いこともある』(典拠)。
弁当屋の海苔弁の白身魚のフライの魚名は聞いてはいけないというのである。
中国ではゴム、プラスチック、廃タイヤ、段ボールだからな
魚ってだけでありがたい
』(同前)。庵主も、お酒は呑めるものなら造りを詮索しないが。

白身フライ、揚げチクワ、オカカ、かつおのフリカケ、海苔
ほっかほっか亭のり弁¥260
のり弁は涙なくして語れなぁ~い。
[以下、省略]』(同前)。
海苔弁が最強の、いや最恐の食い物に思えてくるのである。海苔も評判の韓国産だったりして。

# by munojiya | 2015-11-10 00:04 | 世話物 | Trackback | Comments(0)

うまいお酒があります その楽しみを語ります


by munojiya