庵主(あんしゅ)がブログをはじめた理由(わけ)
庵主が春三月にプログをはじめたのは花粉症だからである。
この時分は庵主の体にそれまではなんとか耐えていた花粉症が発症するころである。
朝起き掛けのくしゃみの連発はそのときだけのことだからまだ我慢できるが、
鼻がつまる、頭がいつも二日酔いのようにすっきりしないという日々がだらだらと続く。

そうなったらお酒を呑んでも心から楽しめないのである。
健康でないとお酒がおいしくないからである。
だからお酒を呑むことがめんどうくさくなる。
元来アルコール依存症の体質ではないので呑まなくても一向にかまわないからである。

伊達眼鏡という言葉がある。
目が悪いわけではないのにお洒落で眼鏡をかけることをいった。
庵主のお酒は伊達飲酒なのである。
お洒落で呑んでいるから能書きがすごいのである。

本物の酒呑みならお酒を呑むのにいちいち能書きを垂れるわけがない。
お酒を呑まない分時間に余裕ができたからせっせとこのブログを書きはじめたのである。
お酒をネタにしてあることないことを書きつらねるという芸をやっているのである。
だからこのブログに書いてあることを信用してはいけない、酒呑みのいうことなのだから。
[PR]
# by munojiya | 2006-03-26 21:28 | Trackback(1) | Comments(0)
お酒が教えてくれたこと
庵主がこのブログで書いていることはすべてお酒が教えてくれたことである。
いい酒になじんでいるとそれを呑んで心に浮かんでくることが少なくない。
ただ酔っぱらって寝てしまうために飲むアルコール飲料との違いである。
お酒を呑まなかったとしたら庵主はその違いを実感として理解できなかったことだろう。

競馬をやらない庵主にとってはウマの顔を見ても区別がつかないようなものだったろう。
ウマの毛色の違いぐらいはわかるがそれは一升瓶の色の違いがわかるのと同じである。
中身の違いはそれではわからない。
馬券を買わないとウマがわからないと同じである。

お酒も競馬も度を過ごすと馬鹿にされるところが似ているのがおかしい。
お酒がいいところはうまいということである。
うまいというのは快感なのである。
お酒は麻薬なしで快感にひたることができることを教えてくれる。

そしてうまい酒とまずい酒の違いから食い物とはなにかということを教えてくれた。
いい酒とそうでない酒の違いから品の違いとはなにかということを教えてくれた。
さらにまっとうなお酒の味わいから日本人の酒造りの精華を知ったのである。
すなわち日本人に生まれた僥倖を教えてくれたのである。
[PR]
# by munojiya | 2006-03-25 21:12 | Trackback | Comments(0)
悪い酒はなぜほめ言葉なのか
庵主はお酒が呑みたいのである。
アルコールが飲みたいのではないということである。
庵主が酒を呑めないというのは、
じつはアルコールがよう飲めないということなのである。

アルコールだけ飲んでもただ酔っぱらうだけでつまらないということなのである。
庵主にとってお酒とは呑んだときにそこから思いが広がるものでなくてはならない。
お酒として売られているアルコール飲料ではそれができないからダメなのである。
スカスカのお酒ではそういう感興がわいてこないから呑んでも意味がないのである。

お酒は液体だから飲み物というがようするに食品である。
だからきき酒師の第一講は酒とはどういう特性がある食品なのかという講義である。
酒は食い物なのである。
すなわち体(心も含む)にとって栄養になるものでなくてはならないということである。

そこのところを忘れて造られたアルコール飲料をまずい酒と言っているのである。
お酒を呑んでいていちばん白けるのはうまくもなければまずくもない酒である。
そういう味にめりはりがない酒を庵主はどうでもいい酒という。
悪い酒というのは味にめりはりはあるがそれが品のないものをいうのである。
[PR]
# by munojiya | 2006-03-24 23:25 | Trackback | Comments(0)
いい酒
いい酒の反対にある酒は悪い酒ではない。
庵主はそういう酒を「どうでもいい酒」とよんでいる。
悪い酒という評価は庵主にとってはどちらかといえばほめ言葉の範疇にあるからである。
いい酒というときには二つの意味がある。

一つは、うまい酒をいうときである
そして、いま一つは丁寧に造られた酒をいうときである。
後者はかならずしも前者を意味しないことがある。
その酒をうまいと評価するのは庵主の好みによるからである。

うまい酒には二つある。
一つは品がいい酒である。
まっとうな造りをしたお酒である。
もう一つは酒造りの技で呑ませる酒である。

三増酒やにごり酒でも造り手の技でうまく感じさせてくれる酒がある。
庵主は味にめりはりがない酒を、すなわち気合がはいっていない酒をまずい酒という。
どんな酒でもうまいと思って呑んでいる人がいるからまずい酒などないという人がいる。
うまい酒しか呑めない庵主はそれはセールストークだといって一笑に付すのである。
[PR]
# by munojiya | 2006-03-23 22:45 | Trackback | Comments(0)
お酒を呑むということ
お酒を呑むというと酒瓶の中のそれを呑んでいる光景を思い浮かべるが
それは形式である、すなわち見た目にすぎない。
庵主がお酒を呑むというのは
それを味わったあとの余韻を楽しむということをいうからである。

だから量を呑む必要がないのである。
のどごしを楽しむお酒ではなくて
その味わいにひたるお酒なのである。
もっとはっきりいえばお酒を呑んで妄想をふくらませることなのである。

お酒を呑んで心に浮かんだ空想を書いているのである。
そのときの気分を書きつらねているのである。
だから同じお酒なのに呑んだときによってその評価が変わるのはいたしかたがない。
そのことをさしてお酒は一期一会であるといっている。

世に同じお酒は二つとないということである。
だから庵主が呑んだお酒と同じうまさを味わうことはできないのである。
想像力が豊かな庵主はそれでもって人一倍うまいお酒を呑んでいるというわけである。
うまいお酒はこの「むの字屋」にあるという所以(ゆえん)である。
[PR]
# by munojiya | 2006-03-22 23:10 | Trackback | Comments(0)
「むの字屋」用語
このプログも2年目にはいった。
最初の方から読まれている方は承知していただいていると思うが
「むの字屋」だけの用語や意味を明確に書き分けている言葉遣いがあるので
それを紹介しておきたいと思う。

まず「酒祭り」(さかまつり)である。
これはお酒のメニューのことである。
「おしながき」が肴のメニューなら「さかまつり」はお酒のメニューというわけである。
最近の居酒屋には読みごたえのある酒祭りがふえてきたのがうれしい。

「うまい」と「おいしい」とはその意味するところが少し違っている。
うまいはそのお酒自体が庵主の好みに合っている酒のことである。
おいしいはそのお酒を呑んだときの雰囲気が楽しかったお酒のことである。
前者は絶対値がうまいが後者は必ずしもそうでないお酒の場合もあるがいいお酒をいう。

「呑む」と「飲む」も書き分けている。
日本酒は焼酎も含めて呑むであるがそれ以外の酒は飲むと書いている。
「お酒」と書くときはもちろん日本酒のことであってそれ以外の酒はただ「酒」と書く。
そういったしきたりがあるので当庵の流儀をご理解いただけるとうれしいのである。
[PR]
# by munojiya | 2006-03-21 20:28 | Trackback | Comments(0)
大人の味わい
いまの日本酒は数多くの味わいが楽しめるから
その違いがわかるようになればこんなに面白い世界はない。
お酒は呑むとは言うがべつに呑まなくてもいいのである。
庵主のように嗜(たしな)む程度でも十分にその世界を味わうことができるからである。

庵主はほとんどお酒が呑めない。
さいわいなことに全然呑めないわけではないが、さりとて量が呑めないのである。
それなのにお酒の味わいに心がひかれるのはそれがうまいからである。
甘いは子供でもわかるうまさであるがお酒のうまさは大人しか味わえないうまさである。

歳をとってはじめてそのうまさがわかるという世界である。
たいして世の中のためになっているとは思えない庵主ではあるが、
そのうまさが味わえるということは長生きしていることのご褒美だと思っている。
長く生きるとうまいものが味わえるようになるということである。

それは本当である。
そして若い人が好むお酒の味わいと歳をとった人が好む味わいとは異なるのである。
どんな世界でも同じであるが酒の世界でもまたいいお酒は少ない。
これからも好んでその少ないお酒を味わっていきたいのである。
[PR]
# by munojiya | 2006-03-20 22:19 | Trackback | Comments(3)
今回で最終回
昨年の3月20日にはじめたこのブログもちょうど1年目にあたる今日が最終回である。
よく1年間ほぼ毎日きちんと更新できたものだと思う。
それだけいっぱいお酒を呑んでいたということである、いやお酒に恵まれていたのである。
しかもそのほとんどがうまいといっても間違いではないお酒ばかりだった。

競馬雑誌や釣り雑誌は1年間通して読むと
あとは同じことの繰り返しだから2年目からは時々立ち読みするだけでいいという。
庵主のお酒を呑む生活も一回りしたような気がするのである。
そういえばお酒も1年周期なのである。

秋口から仕込みがはじまる。
1か月ほどで新酒ができあがる。
お正月に前後して大吟醸の仕込みがはじまる。
生酒やにごり酒が出てくる。

はっきりいって搾りたてのお酒の多くはそんなにうまいものではない。
お酒は本来はちゃんと半年以上の熟成を経て出すものだからである。
新酒はお酒が若くておもしろくないということである。
中には若くても舌を甘くくすぐるせつない味をしているお酒があるがそれならば呑める。

春先に出てくるその年に搾ったお酒は初物を愛でる楽しみなのである。
とはいっても、庵主の好きな「冬樹」の生酒が出てくるのが3月の半ばである。
このお酒はうまいのである、贔屓のお酒だから新酒でもうまいのである。
この時期にしか呑めない味だからこそうまいのである。

秋になってひやおろしが出てくるまでのつなぎに出てくるのが冷酒と称する酒である。
庵主はこの冷酒(ひやざけ、でなく、れいしゅ、と読むらしい)が駄目である。
清爽感のつもりなのだろうがお酒に気合が入っていないのと味が浅い酒だからである。
夏場は暑くて食欲が減退するからそういうときにこそ本当にうまいお酒を呑むといい。

夏はへたな気休めの栄養剤を飲むよりも本物のいいお酒を呑んだほうがずっといい。
夏といえば生ビールがうまい季節ではあるが
そればかりを飲んでいると体力が減退していくのである。
そういうときにうまいお酒を呑むと体に気力がわいてくるのがわかる。

暑い夏もいつしか過ぎて秋の気配になると
ひやおろしが並ぶ。
秋風が吹くころになると燗酒がうまくなる、恋しくなる。
そして1年の熟成を経てしっかり味がのったお酒が出始める。

そしてまた新しい年の仕込みが始まるのである。
日本酒は年々うまくなっているというのが
庵主のみならず大方の酒呑みの共通認識である。
呑むほどにうまいお酒に出会えるというのが現在の日本酒の状況である。

現在の日本酒は昔の日本酒とは別物であるというのが庵主の仮説である。
もちろん特定名称酒の中のうまいお酒についていっているのであるが。
お酒の製造技術がかつてとは全然違うからである。
庵主は精米機の性能がよくなったことがその時代を分けたと考えている。

うまいお酒を愛でるということは
それは美意識によるものであると庵主は知っている。
そして美意識こそは差別の根源ではあるがそれがあるから人間なのだと思っている。
うまいお酒を呑むということは実は差別という毒を味わっているのだと自覚している。

ケーシー高峰が、今月をもって芸能界を引退することになりましたと舞台で挨拶した。
万感の思いを込めて「長い間にわたってお引き立ていただき本当にありがとうございました」。
会場からは盛大な拍手が巻き起こった。
それに対して深々とお辞儀をするケーシー高峰。

会場はケーシー高峰の一代の芸を讃える長い拍手と惜別の情に包まれていた。
その空気を破ったのはつぎの一言である。
「今月いっぱいをもって、いったん引退させていただきますが、
来月1日からはまた気持ちも新たに今いっそう芸に励んでいきたいと思います」(場内大爆笑)。

-----

差別という毒の意味についてはここで。

その毒の快感についてはこちらで。
[PR]
# by munojiya | 2006-03-19 22:21 | Trackback | Comments(1)
便利になって起こったこと
引用である。
「デジカメのおかげで、写真をとるのに写真屋に頼る必要がなくなつた。
ワープロのおかげで、本を作るのに印刷屋に頼る必要がなくなつた。そして今、
インターネットのおかげで、放送をするのに放送局に頼る必要がなくなつたのである。」

こういう引用の仕方をしてもいいのかどうかはわからないが、
文章には手を加えていない。
こっちの都合で勝手に改行したものである。
出所はTomokazu Hanafusa氏のHPである。

今まではそれらのことはどれも他人に頼らなければできなかったことである。
庵主の小さい時の夢は活字を揃えることだった。
それで本物の本のように活字を使って文章を表現することだった。
そのときは写真を自由に扱えることになろうとは夢にも思わなかったのである。

写真を扱う機械は高くて個人が買える物ではなかったからである。
庵主が子供の時分は
死ぬまでに飛行機に乗ることがあるのだろうかと思っていたほどである。
時代が勝手に変わってしまった。

カラー写真を簡単に取り込めるようになった。
簡単に修正できるようになった。
書体は使い放題である。
夢のようなことが今では個人でやれるようなったのである。

以前はワープロソフトで苦労して作っていた印刷物の版下も
いまでは安いレイアウトソフトで容易にできるようになった。
そしてブログの時代である。
資本金なしで出版社や新聞社を手に入れたようなものである。

一時代前は不思議な時代だった。
世の中にはカラー印刷物があふれているのに
それを個人でやろうとしたらお金がかかるために実質的には不可能だった。
個人の印刷物といえばせいぜい名刺を作ってもらうことぐらいだったのである。

それも黒インク一色刷りである。
カラー印刷にしようと思ったら急に費用的にも手が届かないものとなるのだった。
映画もそうだった。
個人では映画をやるということはほとんど不可能だった。

映画を作るということ自体数多くの需要がない世界だから
一つひとつの機材が高くて個人でやる趣味ではなかった。
それが今ではビデオの普及で機材が安くなり、
安い編集ソフトで暇さえあれば簡単に映画を作れるようになったのである。

電網(インターネット)はニュースなどの情報の取り入れ方を変えた。
それまでは伏せられていたことを簡単に知ることができるようになったのである。
電網はまさにボランティア活動の感を呈している。
それまで個人のポケットの中にしまわれていた情報が自由に使えるようになった。

それで何が起こったのか。
だれもが簡単にできるということは粗悪品がどーんと増えたということである。
玉石混交(ぎょくせきこんこう)である。
そのもののよしあしを判断する能力が必要とされるようになったということである。

ようするに世の中がより面倒臭くなったということなのである。
庵主みたいなずぼらな性格な者にとっては有難迷惑なことである。
もっともお酒まで自分で勝手に造れといわれないことだけはありがたい。
お酒は免許のない人は醸造できないことになっている。

それを解禁したら悲劇が起こることは目に見えている。
ほとんど呑むに値しないへんな酒が増えるだけだということである。
中には名人級のマニアも出現するかもしれないが、
酒造の免許制はお酒の水準を維持するためにはなくてはならない縛りなのである。
[PR]
# by munojiya | 2006-03-19 11:07 | Trackback | Comments(0)
結論として
お酒となにか。
それは呑むものでなくて、
味わうものであるというのが庵主にとっての結論である。
酒を、すなわちアルコールを飲むことが目的なら安い酒でいいのである。

それを味わって呑もうとすると
その酒には技(わざ)が要求される。
技の違いが分かるということがおもしろいのである。
想像できない味わいに出会えることが楽しいのである。

人間にとって一番むなしいことはなにか。
それは変化がないということである。
めりはりがないということである。
一本調子というのはよくないとされるのは飽きるからである。

だから
うまい酒ばかりではダメなのである。
まずい酒がなくてはならない理由である。
うまいとまずいの違いは味にインパクトがあるかどうかの違いである。

うまい酒ばかり呑んでいても物足りなくなるのである。
それは贅沢だとわかっていても
もっと別の刺激がほしくなる。
それだけが続くという変化のない状態にあきるのである。

寒いときは寒さを恨んでいても
暑くなったら今度はその暑さに辟易する。
その不快感が刺激である。
それがないと人間は堪えられないのである。

単調な生活にめりはりをつけてくれるものの一つがお酒である。
はっきりいってそのほとんどはうまいものではない。
庵主の場合は能書きを言ってさもうまそうに呑んで見せているのである。
いや、能書きを信じてうまいつもりになって呑んでいるといったほうがいいか。

が、理屈抜きにうまいと体が喜ぶお酒があるということである。
その出会いがうれしい。
星の数ほどあるお酒の中に一掴みしかないうまいお酒が
自分のところにやってきたという僥倖に恵まれたことがありがたいと思う。

酒というとアルコールを呑んでいるという感覚は否めない。
もちろん主成分はそれだからアルコールでないとその用はなさない。
しかし、庵主は酒が飲めない体質なのである。
多くはいらないと言い換えておこう。

ところがそんな庵主が呑んでいて本当にうまいと感じるお酒がある。
アルコールを呑んでいるという感覚なしに呑めるお酒である。
そういうお酒を庵主はためらわず甘露(かんろ)と呼んでいる。
体が喜ぶ滋味である。

庵主には酒を呑みながら物を食うという習慣がない。
いい酒しか呑まないから、
しかも少ししか呑まないから、
もったいなくて食いながら呑むという乱暴なことができないからである。

お酒とは出会いだと思う。
酒に出会うということは
その酒を造った人と出会っているということである。
その酒を呑ませてくれる人と出会っているということである。

お酒は杜氏の作ではあるがそれはまた天のたまものである。
庵主は商売宗教とは縁がないが、
お酒を通して天と繋がっているという思いを強くしている。
いうならば敬虔な天酒教徒(てんしゅきょうと)なのである。
[PR]
# by munojiya | 2006-03-18 23:15 | Trackback | Comments(0)