「奥の松」の全米吟醸
福島の「奥の松」が全米吟醸(ぜんまいぎんじょう)というお酒を発売しました。
純米吟醸ではなく、全米吟醸です。
これまでのお酒とは何が違うのかというと、
米焼酎を添加した吟醸酒であるというところです。

吟醸酒を造るときには通常はモラセスアルコール(廃糖蜜から造ったアルコール)などの
高精製された無色無臭のアルコールを使いますが、
それの代わりに自社で造った米焼酎を使ったのが「全米吟醸」です。
普通の吟醸酒より手間とお金が掛かっているお酒というわけです。

このお酒を「全米吟醸」と呼ぶことに落ち着いた経緯を聞くと波瀾万丈です。
新しいお酒にラベル一つにも税務署からいろいろな指導があったといいます。
添加したアルコールが自社で造った米焼酎なのだから、すべて米から造ったお酒なので純米酒と称していいかというとそうはいきませんでした。

純米酒というのは米だけで造ったお酒をいうのではありません。
原料がすべて米だけであっても、屑米などで造ったものは純米酒と呼ばない
といった定義があるからです。
その定義に外れたものは純米酒と表示することができません。

米焼酎を使った「奥の松」の吟醸酒は100%米だけで造ったお酒だとはいえ
純米吟醸酒といえないのは現在の純米酒の定義の枠に納まらない製法だったからです。
米焼酎とはいえアルコールを添加したということで本醸造の吟醸酒とされるからです。
そこで新製法のお酒に蔵元の主張をこめて付けた名称が「全米吟醸」でした。

モラセスアルコールを添加したお酒に比べて香りに深みがあります。
あるような気がします。品のいい香りがします。これは確かです。
しかし口にふくむとその香りはすうーっと切れてさっぱりした味わいになります。
食中酒として料理の味をじゃましないお酒だと思いました。

ということは、それだけで呑むには庵主には物足りないお酒だということです。
このお酒の魅力は実はその値段の安さにあります。
手間をかけて造ったお酒なのに四合瓶で1040円(税別)という設定には、
うまいお酒を気持ちよく飲んでほしいという意気込みが現れています。

「奥の松」は1万5千石を醸すといいます。今はそれより少ないとは言っていましたが。
その生産量は全国の1400余蔵中でも上から数えて50位以内に入る蔵です。
「奥の松」は量を造りながらも、うまい酒を造ることに意欲的です。
そのお酒は、うまくて、しかも安い酒でなければならないといいます。

12トン仕込みの大タンクを使っているというのも
うまいお酒を安く造るための手法だといいます。
大規模な酒造りだから酒の味が大味になるというものではなく、
きちんと造れば十分にうまくてしかも安くお酒を造れるという利点を強調していました。

全米吟醸は、日本酒の一つの提案として味わってみるといいと思います。
精米歩合60%で、アルコール度数は15度に調整してありましたが、
その原酒か、生酒を味わってみたくなりました。
庵主は15度のお酒はなんとなく水っぽく感じるものですから。
[PR]
# by munojiya | 2005-04-10 22:58 | 能書きが必要な酒 | Trackback(1) | Comments(0)
「臥龍梅」の備前雄町
うまいのです。
「臥龍梅」(がりゅうばい)というお酒です。静岡の「静ごころ」が醸している酒です。
純米吟醸無濾過原酒の備前雄町です。アルコール度数は16~17度です。
お酒を知っている人ならそれだけでこのお酒のイメージを浮かべることができるはずです。

そのお酒の値段が四合瓶で1260円(税込)なのです。それがうまいのだから、こういう
お酒に出会えるとやめられません。
昨日の話題の「冬樹」は税込1638円ですが、それより安くてうまいのです。
お酒のうまさの全てを味わえるお酒なのです。

高いお酒はうまくて当たり前です。だから、余裕のある人は高いお酒を買いましょう。
しかし、うまくて当たり前のお酒を買うというのでは、お酒をみつけるという
楽しみがありません。
安くてうまいお酒を見つけたときにはそのうまさが倍加されます。それがうまいのです。

人間は飽きるのです。時には生きているのも飽きてしまう人がいます。
毎日うまい物をたべていてもときにはさっぱりした物を食いたくなるものです。
毎日うまいお酒を呑んでいてもそればかりでは飽きるのです。
ときには安いのにうまいお酒を呑みたくなります。

そういうときに呑むお酒の一つが「臥龍梅」です。
封を開けると、酒粕の香りがします。日本酒のうまさがそれです。
うまくもないお酒はアルコールを混ぜ過ぎてその香りの広がりがありません。
ただアルコールのにおいしかしないから味に深みがないのです。

庵主が呑めるお酒とそうでないお酒は、まず匂いのよしあしで決まります。
呑めないお酒には、呑んでという誘惑がありません。
これはお酒を呑んでいると直感でわかります。
「臥龍梅」の純米吟醸備前雄町にはその匂いをかいだだけで心が引きよせらます。

お酒はスペック(仕様)ではありません。
トータルのバランスのよさです。
人間の顔が、目が二つ、鼻が一つ、口が一つ、耳が二つといったスペックでありながら
美醜の違いがあるように、お酒もまたそのバランスでうまいまずいが別れます。

「臥龍梅」の備前雄町はお買い得です。
この甘さ、このまろやかさ、このキレのよさは庵主が好む日本酒の好見本です。
日本酒のうまさを十分に味わうことができます。
庵主が呑めるお酒です。要するにうまいお酒です。

雄町という米は独特の苦みがあって、庵主がなんとなくわかる唯一の米です。
このお酒を冷や(常温)で呑んだのでは苦みを感じますが、
燗をつけると、冷やの苦みが甘露といっていいじんわりとしみてくる甘さに変わります。
その甘さが燗酒の魅力です。うまさなのです。

今年の燗酒はこれで決まりです。
本当ならば、厳寒の1~3月に出会えていればこのうえない喜びなのですが、
今年の燗酒は4月になってやっと本命に出会えました。
燗にしたときの甘さは心にしみる甘さです。

「臥龍梅」備前雄町。無濾過原酒。大当たりでした。 
[PR]
# by munojiya | 2005-04-09 23:04 | うまいお酒あります | Trackback | Comments(0)
17年目の「冬樹」
庵主が一番好きなお酒は「冬樹」(ふゆき)の生酒です。
秋田のお酒で「福乃友」が醸しています。
もう出会ってから何年になるでしょう。毎年3月に
新しい「冬樹」の生酒を呑むことが年中行事となっています。

「冬樹」には蔵元からのラブレターが付いて来ます。
一星邦彦蔵元の手書きの原稿を印刷した手紙です。
ときには誤字があったりしますが、「冬樹」ファンに熱い
思いを送って来てくれます。それによると今年の「冬樹」は17年目だとあります。

今年の「冬樹」を今日、やっと手に入れました。
なんでも今年の「冬樹」は3月12日発売とのことでしたが、
庵主の近くに「冬樹」を売っている酒販店がないので、
いつも入手に苦労しています。

多分新宿の伊勢丹百貨店にはあるかと思いますが、
庵主は今感じるところがあって敬して遠ざけているのでそこで買うことができません。
赤羽にセシメ酒店があって、一時はそこで買っていたのですが、
いまは入荷がありません。酒の揃えがさびしくなったのは残念です。

今年の「冬樹」は千葉のそごうデパートで求めました。
庵主の知り合いのモデルをやっている近藤静乃くんに買ってきてもらいました。
なんでも店頭には並んでいなくて、倉庫の方から探してきてもらったとのことで
お酒が出てくるまでに二十分ぐらい待たされたと言います。

知る人ぞ知るうまいお酒なんです、「冬樹」は。
お酒を知っているところにはちゃんとあるのです、「冬樹」は。
ことしの「冬樹」は静乃くんに開栓してもらいました。
もちろん静乃君のグラスに注いでから庵主のグラスに「冬樹」をつぎます。

「冬樹」の新酒は、うっすらと緑がかっています。
ふつう、無濾過の新酒といえば、うすい黄色をしているのですが
「冬樹」の色合いはそれとは違っていて蠱惑的です。
そういえばこの色が素敵ねといった女の子がいたことを思い出しました。

「おいしい」。生まれて初めて「冬樹」を呑んだ静乃くんが花粉症のために
生彩を欠いている顔を突然紅潮させていいました。
ほんとうに表情が変わったのです。
どうだ、「冬樹」はうまいだろうと、庵主がほくそえんだのはいうまでもありません。

庵主のみならず、だれが呑んでもうまいお酒だということなのです。
庵主が「冬樹」を贔屓にするのも、いつ呑んでも期待どおりの
うまさを味わうことができるからです。
その信用が、そのうまさが、「冬樹」の魅力です。やっぱりうまいんです。

今年の「冬樹」はいちだんとすっきりした味になっていました。あか抜けして
一段と美人になっていました。以前はもっとまったりしていたような気がします。
まるで超やわらかいゼリーのような感触を感じたものでした。
炭酸がとけている新酒のうまさと、甘さを感じさせないきれいな甘さに庵主は満足します。

今年も「冬樹」はうまかったと安心して、じっくり味わいながら、
やっぱり「冬樹」がうまいと納得しつつ、どんどんお酒が減っていくので慌てています。
庵主が四合瓶で買ってきてすぐなくなってしまうお酒が二つあります。
一つは「開運」の「波瀬正吉」で、そしてもう一つがこの「冬樹」なのです。
[PR]
# by munojiya | 2005-04-08 22:56 | うまいお酒あります | Trackback | Comments(0)
お酒のうまい呑み方
 庵主が日本酒が好きだという話をすると、よく「今一番うまいお酒はなんですか」と聞かれます。
 常識で考えたら、そんなお酒があるわけがないのはすぐわかるのですが、お酒の話をすると、格闘技のチャンピオンはだれかというような質問が出てきます。
 格闘技なら異種競技でも実際に戦かって勝った人が一番つよいのでしょうが、お酒はそうはいきません。
 お酒の場合は、ちょうど自動車に似ているかと思います。
 自動車の話なら、「今一番いい車はなんですか」と聞かれても答えられるわけがないのと同じです。
 乗用車のいい車とトラックのいい車があるとしたら、どっちが一番いい車だといえでしょうか。

 「いま、一番うまいお酒はなんですか」と聞かれたら、庵主は待ってましたとばかりに、一つの銘柄をあげてそのお酒のどこがうまいのかを説明します。
 「いま一番うまいお酒は静岡の「開運」というお酒です」と答えます。
 そうです。波瀬正吉杜氏が醸している、静岡の土井酒造のお酒です。

 以下は半分セールストークです。それを知ってて庵主は「開運」のうまさを褒めまくります。
 意外と思われるかもしませんが、静岡のお酒が日本で一番うまいお酒を造っているのです。
 多くの人がそのことを知らないことは当たり前です。静岡県人が「開運」「磯自慢」「初亀」「正雪」といったうまいお酒があることを知らないのですが。

 静岡のお酒がうまいといのは、うまい酒を造らないと生き残れなかったからです。東には東京という大消費地があって、日本全国のうまいお酒が集まってきます。まずい酒を造っていたのでは相手にされません。
 西には灘伏見の大手の酒があって、酒の知名度といい、その安さといい、まともに立ち向かったのでは勝てるわけがありません。
 静岡の酒が生き残るためには、うまい酒を造るしかなかったというわけです。今ある静岡のお酒はそういううまい酒ばかりだということなのです。

 お酒が好きな人なら必ず静岡の酒に注目しています。いろいろなお酒を呑んだあとに静岡のお酒を呑んでもそのうまさがはっきりわかる実力を持っているからです。
 いろいろなお酒を知っている人のほうが静岡のお酒のうまさを認めるのです。
 その中でも波瀬正吉杜氏が造っている「開運」がお勧めです。
 デパートなどでも売っているから手に入り易いということと、どのランクのお酒を呑んでもうまいからです。
 大手日本酒メーカーが造っている普通酒などは相手にならないほどのうまい酒です。

 一度、「開運」を呑んでみてください。できれば上のランクのお酒を呑んでみてください。
 お金があったら、大吟醸の「波瀬正吉」を呑んでください。杜氏の名前を付けたお酒は、杜氏が自信をもって勧めるお酒です。変なお酒に自分の名前を付けたら恥をかくだけですから、このお酒はうまいんでする。呑んでみると、お酒のうまさにびっくりしてしまうと思います。
 四合瓶で4500円です。下手な酒を何本も呑むよりも、うまい酒を1本呑んでみることです。
 その最高峰が「波瀬正吉」です。呑まずに死んだら悔いを残す1本です。

 たまたま日本酒を知っている人に出会えたから、うまいお酒を知ることができたのですから、人生をバラ色にするお酒があるということをぜひ確かめてください。
 おいしいですよ。
 と、強く「開運」を勧めます。「開運」が一番うまいと強調します。庵主が好きな酒だという理由だけなのですが。

 日本酒にはいろいろなタイプのお酒があります。純米大吟醸、純米吟醸、特別純米、純米、大吟醸、吟醸、特別本醸造、本醸造、普通酒という区別もありますし、米違いの酒があるし、またにごり酒だ、生酒だといった処理の違いによる味わいの違ったお酒があります。

 いろいろあるのですが、酒は大きく分けると、うまい酒とそうでない酒しかありません。
 要するに、酒は自分の好みだということです。
 高い酒が必ずしもうまいとは限りません。安い酒だから呑めないということはないし、時にはまずい酒がうまく感じることだってあるのです。

 うまいお酒とそうでないお酒の違いはたしかにありますが、しかし、うまくないお酒でも楽しく呑むことを心がけてありがたく呑むということがせっかくのお酒をうまく呑むコツだと思います。
 だって、うまくない酒をまずいと思って呑んでもうまくなりませんが、そういう酒を呑むときは気持を切り換えて楽しく呑んだほうが得だと思います。

 庵主が、お酒がうまいと思う呑み方はお酒の好きな人達と一緒にいいお酒を呑むということです。お酒の好きな人たちが集まる会で呑んでいると、はじめは知らない人同士でも呑んでいるうちにだんだん緊張がほぐれてきて話がはずむようになります。
 呑めない人は呑めないなりに、たくさん呑める人は存分に、自分のペースで呑みながらわいわい呑むのがいちばんお酒がうまいように思います。
[PR]
# by munojiya | 2005-04-07 23:19 | うまいお酒あります | Trackback | Comments(0)
アル添酒こそ日本酒のうまさだという説
 アルコールを添加した日本酒を嫌う人がいる。嫌うというより、観念的に拒絶反応を起こす人なのである。
 観念的にということは、要するに呑まず嫌いなのである。アル添酒はダメだと思い込んでしまい、自分の舌でお酒のよしあしが判断できなくなっている精神状態といっていい。
 それはだれにでもあることで、高いお酒の瓶に、安いお酒が入っていても、この酒はいい酒だと思い込んでしまうと、たいしてよくないお酒でもうまく感じるのと同じことである。そういうお酒は頭で呑んでいるのである。観念的な美酒なのである。
 
 アル添拒絶症の原因は、戦後造られた三増酒である。これがひどかったのである。 当時は、不足する原料米で、増加する需要を満たすための、そして酒税を確保するための非常手段だったのである。
 とにかく酒が呑みたい。うまい酒でなくても酔えればいいという、背に腹はかえられないという時代だったからである。
 しかし、その後、米が十分にとれるようになってからもその体制は元にもどらなかった。代用酒でも、一度、徴税のために国が容認するという体制ができあがると、それが簡単にはやめられなくなるからである。
 いったん三増酒を造る体制ができあがってしまうと、こんどはそれを維持することが目的化して、それが不要になっても簡単に元には戻せなくなるのである。
 
 昔の酒はうまかったのに、酒がまずくなったのはアル添を始めたからだと思い込んでしまったのである。
 そしてアル添は長い間にわたって酒の増量に使われてきたものだから、アル添はまずいものという観念が染みついてしまったのである。
 本当にアル添酒がまずいのか自分の舌で確かめよといっても、純米酒が売っていないのだから、アル添酒と純米酒のどちらがうまいか確かめようがなかったというわけである。
 酒がまずいのはアル添のせいだ、昔ながらの酒(後日純米酒と呼ばれるようになった造りの酒)ならきっとうまいに違いないというのが、アル添酒拒否症の思い込みなのである。

 増量に使われるアルコールとは別に、やがて吟醸酒という造りでアルコールが使われるようになった。両者はアルコールを使う目的が異なっているのである。
 前者はアルコールの後ろ向きな使い方、後者はそれを前向きに使っているということである。
 しかし、主流はもちろん三増酒や普通酒といったたっぷりアルコールをまぜた酒である。
 吟醸酒は、量は少ないながらも少しずつ売上が伸びてきた。
 それにあわせて、アルコールを、増量のためではなく、吟醸酒のために使う造りもだんだん慣れてくるようになったのである。
 
 純米酒が本来の日本酒だといっても、長らくアル添酒を造ってきたものだから、うまい純米酒が簡単に造れなかったということである。
 中途半端な味の、はっきりいってまずい純米酒よりも、香りもよくて酒質もかろやかで呑みやすい吟醸酒がこれからの日本酒の方向だとしたのも間違いではない。アル添技術を生かしながら転換できる酒質だったからである。
 それを純米酒に切り換えるとなると、造りの技術がすぐにはついていけないという現実もあったことだろう。
 加えて、そこそこのお酒を造っておけば酒が売れたという状況もあったからである。

 純米酒がうまいというのは、それは三増酒のような極端なアルコールの量を添加した酒に比べてということだろう。
 庵主は、純米酒とアル添酒(吟醸酒のこと)の区別がつかない。
 そしてアル添酒よりまずい純米酒をいくらでも呑んだことがある。
 酒は時代とともにだんだん呑みやすくなってきている。そしてうまくなってきている。
 アル添もその使い方であって、無理に純米酒を造ってもそれがうまくないのなら、手慣れたアル添で明らかに純米酒よりうまい酒を造ったほうがいいという考え方にも頷けるのである。
 
 要は、純米酒でもアル添酒でもいいから、呑んだときにうまければいいということなのである。
 アル添で安くてうまいお酒ができるならその道を選ぶというのは合理的な考え方である。それが日本酒の新しいうまさなのだという主張も、お酒がうまい限り正しいのである。
[PR]
# by munojiya | 2005-04-06 22:34 | Trackback | Comments(2)
純米酒原理主義者の発生
 三増酒のまずさにうんざりしていた呑み手がついに時流に反旗を翻したのである。いまから三十年前のことである。庵主が日本酒を呑み始めようと思い立ったときがそうだったのである。
 いや、正しくは「純米酒にもどせ」という主張を書いた本を読んで庵主は初めて日本酒を呑み始めたのである。

 その主張はこうである。
 今(もちろん当時のこと)の酒は三増酒といってアルコールを添加して3倍に薄めた酒である。だからうまくないのだ。米だけで造ったお酒はもっと味わいが深いうまい酒である。お酒を呑むのなら、表示をよく見てアルコールが添加されていない米だけで造られた本物の日本酒を呑もう、というものである。

 おお、日本酒には米だけで造った本当にうまいお酒があるのか、じゃその本物の酒を呑んでみようと思ってさっそく米だけで造られた日本酒を買いに出たのである。
 そのころ「純米酒」という言葉自体があったかどうか、庵主の記憶に定かでない。
 ある酒のラベルに「純米酒」とあって「JUNKOM」と書かれていた記憶がある。「純米酒」は「じゅんこめざけ」なのか「じゅんまいしゅ」なのか読み方がわからなかったものである。
 「純米酒」(じゅんまいしゅ)という言葉がまだ普及していなかったのである。
 
 そもそもその純米酒が売っていないのである。みんなアル添酒ばかりなのである。
 唯一、あったのは北海道の生一本「北の誉」である。
 それを呑んでうまかったかというと、うまいのかそうでないのかわからなかったというが庵主の古い記憶である。
 それよりも「シルバー月桂冠」という酒があって、これが砂糖水のように甘い酒だったという記憶の方が強く残っている。そういう時代だったのである。

 三増酒の味になじませられて本来の日本酒の味わいを忘れてしまっている呑み手の蒙(もう)を啓(ひら)くその本の主張は「純米酒こそ本来の日本酒である。三増酒は戦後の米不足のときに初めて造られた代用酒である。戦中酒である。いまや原料の米は十分にあるのだから日本酒は本来の米だけで造る酒に戻すべきである。本来の日本酒のうまさは純米酒にある。呑み手はこぞって純米酒を求めるべし」というような内容だったと思う。

 そうか、今のお酒はアルコールを混ぜて造ったニセ物の酒なのか。本物は純米酒なのか、真実が隠されていて騙されていたのか。ならばその主張に荷担しようという思いで庵主は日本酒を始めたのである。
 その頃に前後して、日本のウィスキーはとんでもない模造酒であると書かれた本が出版されるようになった。そんなウィスキーを宣伝にだまされて呑んではいけないという主張である。

 日本酒にしても、ウイスキーにしても、酒税法に定めるところであって、蔵元なりメーカーが悪いわけではないのだが、しかし、真っ当な日本人の精神においてはそういう模造品を造って恥じることがないという商人の志の低さが許せなかったのだと思う。
 ニセ物が大手を振るって歩いている状況はおかしいのではないかという憤りだったのだと思う。

 商品の善し悪しではなく、ニセ物を好んで造るという行為が、酒の呑み手の美意識を逆撫でしたのである。
 もっとうまい酒を造れと正道を説いたのである。
 庵主は正道を賛としたのである。
 だから基本的には、日本酒は純米酒が正しいという立場に立つ。

 が、しかし、今日の日本酒においてもアル添酒より面白くない純米酒がいっぱいあることを知っているから、お酒は純米とかアル添とかで論じるものではなく、造り手の酒造りに対する気魄の有無が呑んで納得できるお酒とそうでない酒とを分けるのだと察するようになったのである。

 庵主は、まずい純米酒とうまいアル添酒があったら、ためらわずアル添酒を呑むのである。だって、そっちの方がおいしいのだから。
 そして、アルコールの添加によって初めて日本酒のうまさを引き出したと考える人たちもいるのである。
 この話はさらに続く。
[PR]
# by munojiya | 2005-04-05 21:56 | Trackback(1) | Comments(0)
純米酒かアル添酒か
 どっちでもいい問題というのがある。
 納豆を食べるとき、先に納豆をかき混ぜてからタレを入れるか、それとも先にタレを入れてからかき混ぜるか、といったことである。
 目玉焼きには醤油をかけるか、あるいはソースをかけてたべるか、といったことである。
 そんなこと、好きにやればいいじゃないかと庵主は思う。

 それと、どっちがいいと判断を迫られたときに、それ以外の答もあるというとを忘れないことである。
 上の問題なら、俺は納豆や玉子焼きは食わないという答えもあるということである。

 さて、日本酒の世界では、日本酒は昔ながらの純米酒でなければならないとするか、あるいはアル添酒を日本酒として認めることができるかという問題である。
 なお、ここでは俺は酒なんか呑まないという人は相手にしない。もっともこれを読んでいる人ならお酒を呑まない人はいないことだろう。
 
 発端は大東亜戦争である。それまでは日本酒はすべて米だけで造られた今でいう純米酒だった。当然、アル添酒はないから、純米酒という言葉もなかった。 米不足から、酒の供給量を確保するためにアルコールをまぜて増量した日本酒造りが始まった。昭和17年度の酒造年度からアル添酒が造られたという。そして、戦後の昭和24年は米の不作で、外地から帰ってきた人も多く、酒の需要が高くなったことから、その供給量を確保するために後にいろいろ禍根を残すこととなった三増酒(さんぞうしゅ)が造られるようなったという。
 
 三増酒というのは、日本酒にアルコールを添加して純米酒の3倍の量のお酒を造る醸造法である。3倍も薄めると、味わいにコクや酸味がなくなるから、それを補填するために水飴を入れてコクを出し、味の素を入れて酸味を加えるという方法が使われた。
 庵主にいわせればそれは模造酒である。そういう酒でも、戦後のみんな貧乏という状態と戦争が終わったという躍動感から、贅沢を求めることな呑まれていたのである。
 不景気のときは甘い酒が好まれ、景気がよくなると辛い酒が好まれるというが、戦後の貧乏期は糖類が添加された甘い酒が好まれたのである。

 またそのころは、酒は造れば造るだけ売れたから増産第一で、酒の品質はとやかくいわれることがなかった。そして、日本酒は三増酒一色といっていいような状況になってしまった。そういう時代が長く続いたのである。
 三増酒でないうまい酒を呑んだことがないのだから、呑み手にいい酒のイメージがなかったのである。

 やがて吟醸酒が少しずつ出回るようになった。
 戦後の混乱がだんだん納まると、お金に余裕のできた人と貧乏な人が別れてくる。余裕のある人は吟醸酒などのうまい酒に目を向けるようになった。
 また、それまでは門外不出で呑むことができなかった吟醸酒に出会って日本酒のうまさを知った先進的な呑み手は、三増酒ではないもっとうまいお酒を求めるようになったのである。
 
 そして、三増酒批判が起こり、純米酒こそ本来の日本酒だという主張が出てくるようになった。
 が、しかし、長らく三増酒を造り続けてきた杜氏は、すぐには純米酒が造れなかったのである。
 一度絶えた技術の勘を取り戻すことは難しかったのである。
 
 たしかに、米だけで造ったお酒は造ることができたが、それがちっともうまくないのである。
 純米酒は本来の日本酒だからうまくてはならないのだが、その純米酒は三増酒より重い味で、三増酒より雑味が多くて、三増酒よりキレが悪いのである。
 呑んでみたらちっともうまくない純米酒が好まれるわけがない。

 それが純米酒がぼちぼち造られるようになった三十年前の状況だったのである。
 この話はつづきます。
[PR]
# by munojiya | 2005-04-02 08:26 | Trackback | Comments(0)
日本酒ファンの処世術
 うまい日本酒に目覚めた人は大変である。
 うまいお酒を呑むことは大して大変ではない。いまでは多くの居酒屋がきそってうまい日本酒を集めてきて呑ませてくれるからである。東京では。
 またうまいお酒を呑む会もいろいろ開催されているから、こまめに参加しているといくらでもうまいお酒に出会える機会がある。東京では。

 では、何が大変なのかというと、日本酒が好きだということが人に知れると大変なのである。
 接待などで、日本酒がお好きなんですよね、どんどん日本酒を呑んでくださいと言われるからである。
 あるいは宴会で、日本酒が好きなんだろう俺の分も呑んでいいよ、たくさん呑めよということになりかねかないからである。

 というのは、そういう時に出てくるお酒というのはうまくない酒だからである。呑んでいても面白くも楽しくもない酒を呑むのはまっぴらだからである。
 お酒が好きという人は、うまいお酒が好きなのに、そうでないお酒を勧められても呑めないのである。
 しかも、そういうとんでもないお酒を勧めてくれる人は親切でいってくれるのだから無下には断れないだけに余計困るのである。
 
 ホテルや旅館のお酒は暗黒大陸である、と言ったのは日本酒の本も書いている物書きの勝谷誠彦(かつや・まさひこ)さんである。
 酒で儲けようという発想から、酔っぱらっていなければ呑めないようなすごいお酒を平然と出してくるからである。

 旅館で宴会なんかやるものなら、それこそ日本酒だか日本酒混和の甲類焼酎だかわからないような庵主なら呑むに耐えないお酒が微妙に小さい通称1合徳利で出てくる。
 これまた小振りの猪口で呑むと3杯半ぐらいしかはいっていないことがある。
 そして請求書を見ると1合徳利何本でいくらとなっているのである。1合は180ミリリットルだと聞いているが、1合徳利にも団地サイズというのがあるらしい。

 ホテルの酒はというと、一流を自称しているホテルでも宴会の時は手抜きを感じさせる日本酒が出てくる。
 うまいお酒がかならずしも高いとはかぎらないのである。一流ホテルとしての矜持があるのならうまくて安いお酒を自分の舌で探してくればいいものを、それをやっていないようである。

 調度のベッドやリネンなら安いものでいいというような手抜きはしないだろうに、こと日本酒になると仕入値段がひたすら安ければいいと考えているのではないかと思われるほど、一流ホテルの主張が感じられないお酒が出てくるのである。
 ホテルで日本酒を呑んだ後はまともなお酒を呑み直したくなるからお金がかかっていけない。

 日本酒のうまさを知った酒呑みは、そんなお酒は呑みたくないから、自分が日本酒が好きだということは人に言わないという。
 普段呑んでいるお酒のうまさが、それらの酒とは全然違うからである。
 出てきたお酒があきらかに呑むまでもないお酒だったら、ビールでも飲んでいるのだという。

 うまくもないお酒を呑まされないようにと日本酒が好きなことを隠さなくてはならないというのはなんともおかしなことだが、一度うまい日本酒の味を知った人にはそれが身を守るための処世術なのである。

 そのことはお酒にはうまいお酒とそうでない酒があるということを知らない人が多いということなのである。
 ということは、うまいお酒があるということをまだそれを知らない人に教えて上げると、うまい日本酒の需要が開けてくるということである。
 日本酒の未来は明るい。

 ただし、うまい酒とはちがう路線のお酒を造っている大手日本酒メーカーの存在理由に関わる問題なので、いまやしっかりできあがった体制を壊すことなくそれを実現することはむずかしい。 恐竜が進化して、それが理由で滅びたように、もう意味を終えた制度をいったん解体することなく新しい世界を開くことは難しいだろう。

 だから結局、うまい日本酒を知っている人は隠れ日本酒ファンとしてひたすらうまいお酒を追いかけるのである。 
[PR]
# by munojiya | 2005-04-01 22:48 | Trackback | Comments(0)
うまいお酒とそうでないお酒
 実を言うと、お酒にはうまいお酒とそうでないお酒があります。
 庵主が呑むことができるのはうまいお酒だけです。そうでないお酒はダメです。呑めません。けっして贅沢をいっているわけではなく、そういうお酒は体が受け付けないからです。

 すなわち、世の中には二つのお酒があって、呑めるお酒とどうにも呑めないお酒とがあるということなのです。
 うまいお酒は体がそれを拒みません。かえってもう一杯呑みたくなります。お酒を呑むときはそういった体が喜ぶお酒を呑めばいいのです。呑んでみてうまいと感じないお酒を無理して呑むことはありません。接待を受けるときはその限りではありませんが。

 日本酒が嫌いだという人がいます。
 最初に呑んだ日本酒の印象がよくなかったのです。おそらく、うまくないお酒を、自分の適量を知らずに呑み過ぎて散々な思いをしたことでそれがトラウマとなったのでしょう。庵主がそうでした。
 ある時、吟醸酒を呑んで、それまで呑んできたお酒とは違うお酒があることを知って俄然興味がわいてきました。酒が呑めないはずの庵主にもうまいと思うお酒があるという新発見でした。

 そこで調べてみると、それまで呑んできた日本酒の多くが三増酒(さんぞうしゅ)だということを知りました。
 日本酒は米から造られていると思っていたものが、実態は大量のアルコールを混ぜて造られていたのです。
 それを呑めば確かに酔っぱらうからお酒には違いませんが、じっくり味わうことができる真っ当な酒ではなかったのです。
  
 庵主が呑めないお酒のことをあえてまずい酒とは書きません。そういうお酒はまずいというのではなく、けっしてまずくはないがうまくもないという不思議な味わいのお酒なのです。呑んだときにうまかったという満足感が残らないお酒なのです。

 うまいお酒というのは、かならずしも純米酒だからいい、アルコールを添加(アル添)したお酒はよくないというものではありません。
 アル添でもうまいお酒はいくらでもありますし、逆にちっともうまくない純米酒もいっぱいあります。それが現状です。

 純米酒でもアル添酒でも、呑んでうまいお酒は真っ当な造り方をしているお酒だということです。
 料理もそうですが、お酒もまた味のよしあしは造り手のセンスのよしあしによります。
 上手な人が造ったお酒はうまい。酒を造る技もあるでしょうが、酒造りに注がれた気合の多寡が酒の味を左右しているのだと思います。

 工場で造った大量生産の清酒は、品質は安定しているのでしょうが、造り手の気合が感じられないから呑んでいてもなぜか面白くないのです。そういうお酒を呑んだ分には口直しにもっとうまいお酒が呑みたくなってしまいます。
 庵主は酒量が少ないので2杯も3杯もお酒が呑めませんから、最初からうまいお酒しか呑まないというわけです。

 そして、日本酒は醸造酒ですから温度管理が大切です。いくらいいお酒でも、日に当てたり温度の高いところにほったらかしておいたら、確実に味が劣化します。
 ていねいに管理されている日本酒のうまさを一度味わってみると、もう管理が悪い状態のひどいお酒は呑み気が起こりません。
 うまい日本酒は管理がいいお酒の中にあります。   
[PR]
# by munojiya | 2005-03-31 23:46 | うまいお酒あります | Trackback | Comments(0)
酒が一番うまい量
 ものの本によると、一日2合までのお酒なら毎日呑んでも肝臓を傷めることはないとある。3合までなら大丈夫だという説もある。
 一週間に1日ないし2日は休肝日を作れという本もあるし、毎日アルコールを摂っているのなら、呑まない日があるとかえって体の代謝が狂うと書いてある本もある。
 要するに、呑み過ぎるのはよくないということである。

 庵主の酒量というのは、酒を呑んでいるといえる量ではない。せいぜい5勺(しゃく)の酒で十分だからである。
 1合(ごう)というのは、180ミリリットルである。10合で1升(しょう)となる。1升は、1800ミリリットルである。1升瓶というのが従来からの日本酒の標準的な容器である。ご存じのようにかなり大きな瓶である。
 昔から1升瓶があったと思ってはいけない。当然江戸時代には1升瓶などなかったことはいうまでもない。それはつい最近作られたものである。といってもガラス瓶がお酒の容れ物となったのは明治になってからのことである。1升瓶が初めて作られたのはたしか明治32年のことだったと思う(要確認)。

 10升で1斗(と)という。10斗で1石(こく)となる。1石は1升瓶で100本ということになる。
 1合より小さい量が勺である。「しゃく」とか「せき」と読む。1勺は18ミリリットルである。
 庵主の適正酒量の5勺というのは、90ミリリットルということになる。
 この程度の量だと、そこいらの健康飲料の壜の容量ぐらいでしかない。だから庵主の酒量というのは酒を呑んでいるという量ではなく、薬用ドリンクを飲んでいるようなものなのである。

 蛇の目の猪口というのがある。底に青い丸(蛇の目)が書かれている猪口である。
 この青い丸はお酒の艶が見やすいように書かれている。猪口につがれたお酒をちょっと傾けてお酒の艶の具合を見るのである。
 この猪口には小・中・大と三つのサイズがある。それぞれ45ミリリットル、90ミリリットル(5勺)、180ミリリットル(1合)という容量になっている。
 ただし、30ミリリットルぐらいしかはいらない小さい猪口もある。

 日本酒グラスというガラスの器があって、こちらのグラスも小・中・大と三つのサイズが用意されいるのだが、こちらの方の容量は、60ミリリットル、120ミリリットル、180ミリリットルという大きさになってい。
 こちらも50ミリリットルという小さいグラスがあるから、かならずしもグラスの規格は共通というわけではない。

 容量がいいかげんなのは徳利である。1合徳利として売られているお酒の場合、明らかに1合なんかはいっていない徳利がほとんである。
 庵主はそうい徳利をインチキ徳利と呼んでいるが、すごいお店だと1合に満たない小さい徳利なのにその八分目ぐらいしかお酒がはいっていない場合があるから、そうなったら詐欺といってもいいのではないかと思っている。

 1升壜は、伝統的な日本酒の容器で、それはそれでいいのだが、欠点もある。大き過ぎるのである。いまどきの電気冷蔵庫に保存するのには大きくて困るということである。
 日本酒は醸造酒だから、低温で保存することが当たり前のことなのだが、1升瓶ではそれができないというわけである。
 4合瓶というサイズがある。これなら冷蔵庫にぴったり納まるがのだが、いまでも1升瓶でしか売られていないお酒が多いのである。
 
 庵主は1升瓶で買ってくると呑みきれないことがわかっているから、最初から購入の対象にはならない。
 じつは4合瓶でも呑みきれないことがある。一つは、見込み違いであまりうまいお酒でなかったとき。そして、うまい酒であっても、1回に呑む量が5勺程度だからなかなかなくらないのである。栓を開けてから時間が立つとお酒の生気がだんだん抜けてくるのがわかるからせっかくのお酒が最後まで楽しめないのである。

 いまは300ミリリットル壜というのが出回るようになったが、庵主はそのサイズが好ましいと思っている。しかし、いいお酒は300ミリリットル壜入りで売られていることが少ないのである。
 そして高いお酒を1合壜で売っていることがあるが、これが一番うれしい。というのは1升1万円の高級酒でも1合千円で買うことができるからである。
 しかも1合の酒なら1日~2日で呑みきってしまうからお酒がうまいうちに呑めるのがいい。
 
 お酒が呑めるか呑めないかによって、お酒が一番うまい量というのは変わってくるだろうが、庵主にとって、お酒が一番うまい量は5勺からせいぜい1合といったところである。そして、そのうまさを確保できる瓶の容量はできれば300ミリリットル壜か4合瓶といったところである。
[PR]
# by munojiya | 2005-03-30 23:22 | Trackback | Comments(0)