お酒を呑むということ
お酒を呑むというと酒瓶の中のそれを呑んでいる光景を思い浮かべるが
それは形式である、すなわち見た目にすぎない。
庵主がお酒を呑むというのは
それを味わったあとの余韻を楽しむということをいうからである。

だから量を呑む必要がないのである。
のどごしを楽しむお酒ではなくて
その味わいにひたるお酒なのである。
もっとはっきりいえばお酒を呑んで妄想をふくらませることなのである。

お酒を呑んで心に浮かんだ空想を書いているのである。
そのときの気分を書きつらねているのである。
だから同じお酒なのに呑んだときによってその評価が変わるのはいたしかたがない。
そのことをさしてお酒は一期一会であるといっている。

世に同じお酒は二つとないということである。
だから庵主が呑んだお酒と同じうまさを味わうことはできないのである。
想像力が豊かな庵主はそれでもって人一倍うまいお酒を呑んでいるというわけである。
うまいお酒はこの「むの字屋」にあるという所以(ゆえん)である。
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# by munojiya | 2006-03-22 23:10 | Trackback | Comments(0)
「むの字屋」用語
このプログも2年目にはいった。
最初の方から読まれている方は承知していただいていると思うが
「むの字屋」だけの用語や意味を明確に書き分けている言葉遣いがあるので
それを紹介しておきたいと思う。

まず「酒祭り」(さかまつり)である。
これはお酒のメニューのことである。
「おしながき」が肴のメニューなら「さかまつり」はお酒のメニューというわけである。
最近の居酒屋には読みごたえのある酒祭りがふえてきたのがうれしい。

「うまい」と「おいしい」とはその意味するところが少し違っている。
うまいはそのお酒自体が庵主の好みに合っている酒のことである。
おいしいはそのお酒を呑んだときの雰囲気が楽しかったお酒のことである。
前者は絶対値がうまいが後者は必ずしもそうでないお酒の場合もあるがいいお酒をいう。

「呑む」と「飲む」も書き分けている。
日本酒は焼酎も含めて呑むであるがそれ以外の酒は飲むと書いている。
「お酒」と書くときはもちろん日本酒のことであってそれ以外の酒はただ「酒」と書く。
そういったしきたりがあるので当庵の流儀をご理解いただけるとうれしいのである。
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# by munojiya | 2006-03-21 20:28 | Trackback | Comments(0)
大人の味わい
いまの日本酒は数多くの味わいが楽しめるから
その違いがわかるようになればこんなに面白い世界はない。
お酒は呑むとは言うがべつに呑まなくてもいいのである。
庵主のように嗜(たしな)む程度でも十分にその世界を味わうことができるからである。

庵主はほとんどお酒が呑めない。
さいわいなことに全然呑めないわけではないが、さりとて量が呑めないのである。
それなのにお酒の味わいに心がひかれるのはそれがうまいからである。
甘いは子供でもわかるうまさであるがお酒のうまさは大人しか味わえないうまさである。

歳をとってはじめてそのうまさがわかるという世界である。
たいして世の中のためになっているとは思えない庵主ではあるが、
そのうまさが味わえるということは長生きしていることのご褒美だと思っている。
長く生きるとうまいものが味わえるようになるということである。

それは本当である。
そして若い人が好むお酒の味わいと歳をとった人が好む味わいとは異なるのである。
どんな世界でも同じであるが酒の世界でもまたいいお酒は少ない。
これからも好んでその少ないお酒を味わっていきたいのである。
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# by munojiya | 2006-03-20 22:19 | Trackback | Comments(3)
今回で最終回
昨年の3月20日にはじめたこのブログもちょうど1年目にあたる今日が最終回である。
よく1年間ほぼ毎日きちんと更新できたものだと思う。
それだけいっぱいお酒を呑んでいたということである、いやお酒に恵まれていたのである。
しかもそのほとんどがうまいといっても間違いではないお酒ばかりだった。

競馬雑誌や釣り雑誌は1年間通して読むと
あとは同じことの繰り返しだから2年目からは時々立ち読みするだけでいいという。
庵主のお酒を呑む生活も一回りしたような気がするのである。
そういえばお酒も1年周期なのである。

秋口から仕込みがはじまる。
1か月ほどで新酒ができあがる。
お正月に前後して大吟醸の仕込みがはじまる。
生酒やにごり酒が出てくる。

はっきりいって搾りたてのお酒の多くはそんなにうまいものではない。
お酒は本来はちゃんと半年以上の熟成を経て出すものだからである。
新酒はお酒が若くておもしろくないということである。
中には若くても舌を甘くくすぐるせつない味をしているお酒があるがそれならば呑める。

春先に出てくるその年に搾ったお酒は初物を愛でる楽しみなのである。
とはいっても、庵主の好きな「冬樹」の生酒が出てくるのが3月の半ばである。
このお酒はうまいのである、贔屓のお酒だから新酒でもうまいのである。
この時期にしか呑めない味だからこそうまいのである。

秋になってひやおろしが出てくるまでのつなぎに出てくるのが冷酒と称する酒である。
庵主はこの冷酒(ひやざけ、でなく、れいしゅ、と読むらしい)が駄目である。
清爽感のつもりなのだろうがお酒に気合が入っていないのと味が浅い酒だからである。
夏場は暑くて食欲が減退するからそういうときにこそ本当にうまいお酒を呑むといい。

夏はへたな気休めの栄養剤を飲むよりも本物のいいお酒を呑んだほうがずっといい。
夏といえば生ビールがうまい季節ではあるが
そればかりを飲んでいると体力が減退していくのである。
そういうときにうまいお酒を呑むと体に気力がわいてくるのがわかる。

暑い夏もいつしか過ぎて秋の気配になると
ひやおろしが並ぶ。
秋風が吹くころになると燗酒がうまくなる、恋しくなる。
そして1年の熟成を経てしっかり味がのったお酒が出始める。

そしてまた新しい年の仕込みが始まるのである。
日本酒は年々うまくなっているというのが
庵主のみならず大方の酒呑みの共通認識である。
呑むほどにうまいお酒に出会えるというのが現在の日本酒の状況である。

現在の日本酒は昔の日本酒とは別物であるというのが庵主の仮説である。
もちろん特定名称酒の中のうまいお酒についていっているのであるが。
お酒の製造技術がかつてとは全然違うからである。
庵主は精米機の性能がよくなったことがその時代を分けたと考えている。

うまいお酒を愛でるということは
それは美意識によるものであると庵主は知っている。
そして美意識こそは差別の根源ではあるがそれがあるから人間なのだと思っている。
うまいお酒を呑むということは実は差別という毒を味わっているのだと自覚している。

ケーシー高峰が、今月をもって芸能界を引退することになりましたと舞台で挨拶した。
万感の思いを込めて「長い間にわたってお引き立ていただき本当にありがとうございました」。
会場からは盛大な拍手が巻き起こった。
それに対して深々とお辞儀をするケーシー高峰。

会場はケーシー高峰の一代の芸を讃える長い拍手と惜別の情に包まれていた。
その空気を破ったのはつぎの一言である。
「今月いっぱいをもって、いったん引退させていただきますが、
来月1日からはまた気持ちも新たに今いっそう芸に励んでいきたいと思います」(場内大爆笑)。

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差別という毒の意味についてはここで。

その毒の快感についてはこちらで。
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# by munojiya | 2006-03-19 22:21 | Trackback | Comments(1)
便利になって起こったこと
引用である。
「デジカメのおかげで、写真をとるのに写真屋に頼る必要がなくなつた。
ワープロのおかげで、本を作るのに印刷屋に頼る必要がなくなつた。そして今、
インターネットのおかげで、放送をするのに放送局に頼る必要がなくなつたのである。」

こういう引用の仕方をしてもいいのかどうかはわからないが、
文章には手を加えていない。
こっちの都合で勝手に改行したものである。
出所はTomokazu Hanafusa氏のHPである。

今まではそれらのことはどれも他人に頼らなければできなかったことである。
庵主の小さい時の夢は活字を揃えることだった。
それで本物の本のように活字を使って文章を表現することだった。
そのときは写真を自由に扱えることになろうとは夢にも思わなかったのである。

写真を扱う機械は高くて個人が買える物ではなかったからである。
庵主が子供の時分は
死ぬまでに飛行機に乗ることがあるのだろうかと思っていたほどである。
時代が勝手に変わってしまった。

カラー写真を簡単に取り込めるようになった。
簡単に修正できるようになった。
書体は使い放題である。
夢のようなことが今では個人でやれるようなったのである。

以前はワープロソフトで苦労して作っていた印刷物の版下も
いまでは安いレイアウトソフトで容易にできるようになった。
そしてブログの時代である。
資本金なしで出版社や新聞社を手に入れたようなものである。

一時代前は不思議な時代だった。
世の中にはカラー印刷物があふれているのに
それを個人でやろうとしたらお金がかかるために実質的には不可能だった。
個人の印刷物といえばせいぜい名刺を作ってもらうことぐらいだったのである。

それも黒インク一色刷りである。
カラー印刷にしようと思ったら急に費用的にも手が届かないものとなるのだった。
映画もそうだった。
個人では映画をやるということはほとんど不可能だった。

映画を作るということ自体数多くの需要がない世界だから
一つひとつの機材が高くて個人でやる趣味ではなかった。
それが今ではビデオの普及で機材が安くなり、
安い編集ソフトで暇さえあれば簡単に映画を作れるようになったのである。

電網(インターネット)はニュースなどの情報の取り入れ方を変えた。
それまでは伏せられていたことを簡単に知ることができるようになったのである。
電網はまさにボランティア活動の感を呈している。
それまで個人のポケットの中にしまわれていた情報が自由に使えるようになった。

それで何が起こったのか。
だれもが簡単にできるということは粗悪品がどーんと増えたということである。
玉石混交(ぎょくせきこんこう)である。
そのもののよしあしを判断する能力が必要とされるようになったということである。

ようするに世の中がより面倒臭くなったということなのである。
庵主みたいなずぼらな性格な者にとっては有難迷惑なことである。
もっともお酒まで自分で勝手に造れといわれないことだけはありがたい。
お酒は免許のない人は醸造できないことになっている。

それを解禁したら悲劇が起こることは目に見えている。
ほとんど呑むに値しないへんな酒が増えるだけだということである。
中には名人級のマニアも出現するかもしれないが、
酒造の免許制はお酒の水準を維持するためにはなくてはならない縛りなのである。
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# by munojiya | 2006-03-19 11:07 | Trackback | Comments(0)
結論として
お酒となにか。
それは呑むものでなくて、
味わうものであるというのが庵主にとっての結論である。
酒を、すなわちアルコールを飲むことが目的なら安い酒でいいのである。

それを味わって呑もうとすると
その酒には技(わざ)が要求される。
技の違いが分かるということがおもしろいのである。
想像できない味わいに出会えることが楽しいのである。

人間にとって一番むなしいことはなにか。
それは変化がないということである。
めりはりがないということである。
一本調子というのはよくないとされるのは飽きるからである。

だから
うまい酒ばかりではダメなのである。
まずい酒がなくてはならない理由である。
うまいとまずいの違いは味にインパクトがあるかどうかの違いである。

うまい酒ばかり呑んでいても物足りなくなるのである。
それは贅沢だとわかっていても
もっと別の刺激がほしくなる。
それだけが続くという変化のない状態にあきるのである。

寒いときは寒さを恨んでいても
暑くなったら今度はその暑さに辟易する。
その不快感が刺激である。
それがないと人間は堪えられないのである。

単調な生活にめりはりをつけてくれるものの一つがお酒である。
はっきりいってそのほとんどはうまいものではない。
庵主の場合は能書きを言ってさもうまそうに呑んで見せているのである。
いや、能書きを信じてうまいつもりになって呑んでいるといったほうがいいか。

が、理屈抜きにうまいと体が喜ぶお酒があるということである。
その出会いがうれしい。
星の数ほどあるお酒の中に一掴みしかないうまいお酒が
自分のところにやってきたという僥倖に恵まれたことがありがたいと思う。

酒というとアルコールを呑んでいるという感覚は否めない。
もちろん主成分はそれだからアルコールでないとその用はなさない。
しかし、庵主は酒が飲めない体質なのである。
多くはいらないと言い換えておこう。

ところがそんな庵主が呑んでいて本当にうまいと感じるお酒がある。
アルコールを呑んでいるという感覚なしに呑めるお酒である。
そういうお酒を庵主はためらわず甘露(かんろ)と呼んでいる。
体が喜ぶ滋味である。

庵主には酒を呑みながら物を食うという習慣がない。
いい酒しか呑まないから、
しかも少ししか呑まないから、
もったいなくて食いながら呑むという乱暴なことができないからである。

お酒とは出会いだと思う。
酒に出会うということは
その酒を造った人と出会っているということである。
その酒を呑ませてくれる人と出会っているということである。

お酒は杜氏の作ではあるがそれはまた天のたまものである。
庵主は商売宗教とは縁がないが、
お酒を通して天と繋がっているという思いを強くしている。
いうならば敬虔な天酒教徒(てんしゅきょうと)なのである。
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# by munojiya | 2006-03-18 23:15 | Trackback | Comments(0)
浮気酒
庵主のようなお酒の呑み方を浮気酒(うわきざけ)という。
一つの銘柄にこだわらず
何でも片っ端から呑んでしまうという呑み方のことである。
つまり日替わりで毎日違うお酒を呑んでいることをいう。

「あんたは、お酒と女は日替わりね」といわれたことがある。
お酒はそうだが、庵主は女には縁がない。
うまいお酒を味わった上にいい女までというのでは罰があたる。
それに日替わりで女が変わるということは毎日振られているということではないか。

浮気というのは男の向上心であるという説もある。
すなわち
いまつきあっている女よりもっといい女がいるのではないだろうかと
夢を追っている前向きの姿勢だからだという。

釣りは鮒に始まって鮒に終わるという。
背広なら青に始まって青に終わるという。
結局はいま目の前にいる女に辿り着くのだろうが
それもいろいろ試してみての結果でのことだから結論は何の役にも立たないのである。

現に呑み比べると明らかにうまいお酒があるからである。
それがうまいと思っても
さらにうまいお酒が出てくる。
それだけではない、それを凌くうまさが味わえるお酒がいくらでもあるのである。

そうなると
もっと、もっとうまいお酒があるに違いないと心がときめく。
それが本当にあるのだから困っちゃう。
うまいというよりも想像になかった味わいといったほうがいい。

体験しないとわからない味ということである。
そのうち
お酒の深みがわかるようになってくるといけない。
うまさの理解が多角的になるとますますお酒が楽しくなる。

想定内ということばが今は流行っているが
実際に呑んでみないと想定すらできなかったうまさを
事前に想定できるわけがない。
そういううまさをたたえたお酒がいくらでもあるから怖いのである。

呑んでいてぞっとするのである。
うますぎて。
恐ろしいのは
庵主なんぞがこんないいお酒を呑んでもいいのだろうかという恐れである。

もっとこのお酒を呑むに相応しい人がいっぱいいるのではないかという思いである。
いやこのうまいお酒を呑んでいただきたい人が思い浮かぶからである。
でもその時はすでに遅い。
すでにそのお酒に口をつけているからである。

ありがたくお酒をいただくである。
いつも感謝してお酒を呑んでいる。
そういう気持ちで呑んでいると
かりにまずいお酒でもぞんがいうまく感じるものなのである。

そのうちうまいお酒にも飽きてくるからまたまた怖い。
呑みたいお酒はそれとはまた別のお酒だということが分かるのである。
さすがにまずいお酒はまた呑みたいとは思わない。
でもちゃんとあるのである、また呑んでみたくなるお酒が。

結局、
いいお酒やすごいお酒や想像を絶するお酒をいろいろ呑んだ後に
自分の身の丈にあったお酒に戻ってくるのである。
それがいちばん呑んでいて心落ち着くからである。 
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# by munojiya | 2006-03-18 13:11 | Trackback | Comments(0)
書き手は老いる
バーゲンセールの殺し文句は、
こんないい物は今買わないともうなくなっちゃうよという脅しである。
今買わないともう二度と手にはいらないよとたたみかける。
もうこんな安い値段では買えないよとだめ押しされるともうだめである。

そうだ、たしかに今買わないとまた出会えないだろうと思えてくるのである。
お酒もそうである。
うまいお酒は出会ったときに呑んでおかないと二度と呑めないよと庵主は脅す。
いいかい、物は中古でも手に入れることはできるがお酒はそうはいかない。

なんたって、誰かに呑まれたらなくなっちゃうのだから。
今呑まないと二度と呑めなくなるよとたたみかける。
お酒は呑まれたら本当になくなってしまうものだからこれは説得力がある言葉である。
それがウソだということは付け加えない。

庵主は人が悪いからである。
知らない人はそれを聞くとじゃもう一杯呑んでおこうという気になってくる。
もう十分に呑んで心地よいほどに酔いが回っているというのに。
蛇足というか、屋上屋を重ねるというか、しなくていもいいことなのに。

いま日本酒は日進月歩である。
夏と冬のボーナス時期に合わせて新製品が発売されるパソコンなみなのである。
どんどんうまくなっているのである。
しかも新しいお酒が次々に出てくる。

人間が一番かわいいのは成長期にある子供の時である。
いま日本酒がその成長期なのである。
前に見た子供があっという間に大きくなるのがわるか。
それを現在進行形で見ることの楽しいこと。

今日うまいお酒はつぎに出てくるそれよりもっとうまいお酒の前座に過ぎないのである。
デジタルカメラの進歩と同じである。
今日の300万画素が最高かと思っていたら次の日には500万画素が出ている。
古いデジタルカメラにこだわっている理由はないということである。

最も500万画素が300万画素よりもいいのかというと
必ずしもそうはいえないのである。
そこがテイスト(味わい)の違いなのである。
お酒の世界も500万画素よりうまい300万画素がいくらでもあるからである。

それがメーカーの設計思想の違いであり、製造技術力の差なのである。
すなわちお酒はメーカーの技を見るということである。
うまいお酒を造っている蔵元がいつまでもうまいお酒であるとは限らない。
逆にどうでもいいお酒を造っていた蔵元がうまいお酒に化けることがよくある。
                             
今は杜氏の世代がわりに当たっているから若い杜氏が登場しているということである。
一代で名酒を醸し出した名杜氏も歳には勝てない。
そのお酒はたしかにうまい、いや見事としかいいようのない悦楽にひたることができる。
だが、過去の名声を追いかけてそれを最高とする価値観を老化現象という。

いつまでもこの「むの字屋」を読み続けている方がいるとすれば
それは庵主と一緒に老化の道を歩んでいるということである。
この文章が、読んでいてここちよいとすれば
それは感性が錆びつきつつあるということである。

磨きをかけるためには
若い書き手のものを読まなくてはならない。
たぶん、読んでもつまらないことだろうが、
それは他山の石なのである。

ただ一つ老いることのいいところがある。
歳をとらないと分からない味があるということである。
つまりそれまでは見えなかったものがみえてくるということである。
継続は力なりというが、なるほどと先人の言葉に頷くのである。
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# by munojiya | 2006-03-17 22:39 | Trackback | Comments(0)
女にお酒はすすめたくないが
アルコールの有害性は酒呑みのよく知っているところである。
若いときは一升酒を呑んだものだと自慢する先達は
晩年になって酒量が落ちてその老いを知るのである、より深く感じるのである。
しかも肝臓を痛めて後悔先に立たずという古諺を噛みしめるである。

まわりの人がだれもアルコールの毒性を教えなかったからである。
酒に強いねぇとおだてられて調子に乗って呑み過ぎたせいである。
なぜだれもそれを教えてくれなかったのか。
酒を売って食っている人たちが少なくないからである。

酒税の上がりが2兆円ぐらいなのに
アルコールで健康を害した人の治療費はその数倍はあるという説もある。
その説を信じると酒を禁止したほうが社会の利益は数兆円も増えることになる。
本当に酒を禁止したアホな国があったことを思い出した。

あそこはそういう若い国なのである。
日本は前轍を踏んではいけないのである。
ライブドアの粉飾決算はエンロンの再現である。
詐話師(さわし)の口車に乗った人が悪い。

それを知っていてうまく利用して利を得ていた今の政府中枢が一番悪いのである。
自民党中枢といっても同じである。
長年日本人をやっていると顔つきを見ただけで
なんとなくその品性がわかるものである。

もっとも、人は見かけによらないという言葉もあるから
そんな自信など公言しないほうがいいということも分かっているから言葉の綾であるが。
最近のマスコミはなぜ本当のことをいわないのかというのが
大方のマスコミに対する不満であるがその理由だってみんな分かっているのである。

ニュースを売って食っていかないといけない人たちがわんさといるからである。
明日死ぬことがわかっていればいくらでも本当のことが言える。
しかし、この先どこまで生きるのかと考えると生活の心配をしなくてはならない。
うかつには生活基盤をゆるがすことはできないのである。

せめて、行間を読んでくれという思いで書くしかないということである。
なにが書かれているかではなく、
なにが隠されているかを考えて読めということである。
手品じゃないが、動きと反対の所を見ていると真実が見えてくるということである。

酒だって同じである。
さわやかな言葉が書きつらねられているお酒の広告文句は
そこで書かれていないことを読めということなのである。
庵主の経験ではほとんどのお酒はそんなにうまくはないからである。

しかし、残りのいくつかには本当にうまいお酒がある。
お酒は呑みつづけないとそのわずかに光輝く真実にたどりつけないということなのである。
酒を扱うことで食っている人はその家族も含めて少なくない(ご免。数は手抜き)。
その人たちの生活を思うと酒は禁止するまでもないというのは妥当な判断である。

アルコールは一気飲みをのぞいて即効性のある毒ではないということと
上手につきあえばそれなりに有効だということが経験的に分かっているからである。
それに、人間は毒がないと生きていてつまらないからである。
酒はそういう人間の性(さが)をくすぐるからである。 

女にお酒をすすめるのもなんだが、
じつはうまいお酒を呑むことは美人になれるてっとりばやい方法なのである。
もちろん美形と美人はちがうということを前提にして話しているのだが。
うまいお酒を呑むと男でも女でもみんないい表情になるからである。

美形というのは姿顔形だからこれは美容整形でもしないと変わらない。
しかし美人というのはその表情のことだから
女の人の表情が生き生きしていると美しく見えるのである。
もっともそれを見ている男も酔っているから心がすでにうるんでいるからなのだが。

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美人だの美形だのといったことについては、庵主が所属しているアマチュアの写真クラブ「フォレストクラブ」のブログに書かれている写真話にくわしい。

その表情の引き出し方を研鑽している写真クラブである。美人の撮り方にはアマチュアとはいえ他と比べると一日の長があるクラブである。
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# by munojiya | 2006-03-17 11:13 | Trackback(1) | Comments(0)
未来を志向する人に未来はない
未来というのは
これから起こることだと思っていた。
でもよく考えたらそれは過去の成果のことではないのかと思うようになった。
未来しか見ていない人にはそれこそ未来はないということである。

明治維新をみて
明治の人は偉かったと思ってはいけない。
御一新をなした人は江戸時代に生まれた人たちなのである。
江戸時代の躾(しつけ)がしっかりしていたということなのである。

では明治になって躾を受けた人はその後どうなったのか。
国を挙げて戦争をしたものの散々な負け方をしてしまったのである。
明治生まれはその程度だったということである。
明治の御世は実は江戸時代が支えていたのである。

現在が実は過去そのものということはよくあることである。
たとえば今映画を見ているとしたら、
その映画は過去に撮られたものである。
過去の成果を今楽しんでいるということである。

文化はすべて過去の成果である。
一冊の本は過去に書かれたものである。
それを今読んで生きる糧(かて)にしているのである。
すなわち、現在が過去の成果だとしたら、未来もまた過去の成果である。

未来というのは
過去をしっかり踏まえていないと展望はないということである。
お酒もまた
過去を踏まえたものでないとうまいお酒は期待できない。

最近のお酒は花酵母だ新酵母だといって
手先の技術で造られたものが少なくない。
技術が進んでいるからそれなり酒はできるのである。
うまければいいのであるが、それらはエグイ。

それらはあくまでも可能性だからやってもしょうがないとは思わないが、
お酒造りの目標はうまい酒ということだから
変な原料で安く造ったお酒のことを原材料を有効に利用した地球にやさしい酒といわれても
庵主はちっともうれしくないのである。

もちろんそういう方向の酒造りもありであるが、
庵主はそういう酒を呑まない、いや呑めない。
まずい酒は呑まなくても全然困らない体質だからである。
庵主のお酒の定義はうまい酒をいうからである。

実際にお酒を呑んでみるとわかるが
うまい酒というのはそんなに奇をてらったものではない。
昔ながらの手法で
まっとうに造ったお酒である。

つまりは過去の蓄積をしっかりたたえているお酒なのである。
よくSF映画などに出てくる未来のセットは一見目新しく見えるが、
しかし映画を見ているうちに見飽きてしまうことが少なくない。
あんなところでは生活したくないという軽薄さが鼻についてくるからである。

これが未来だといって
底の浅い空想を見せられてもつまらないということなのである。
新しいうまいお酒は
これまでの伝統によって生まれてくるのである。

それは地道な作業である。
過去の蓄積こそ未来を築く発展の源なのである。
うまいお酒もその延長線上にあるということである。
未来ばかり見ていても未来は拓けないということなのである。
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# by munojiya | 2006-03-16 23:21 | Trackback | Comments(0)