猛暑来襲
東京はこのところ連日気温が三十数度を越える日が続いている。
日常生活をするのにはちょっと暑過ぎる。
汗、汗、汗である。
喉が渇くので水分を補給すると即座に汗が噴き出してくる。

給水と発汗のいたちごっこである。
体を冷やさないと意欲と気力がわいてこない。
水のとりすぎで食欲がわいてこない。
うまい物を食わないことには力が出ないというのにである。

このくそ暑い時期に高校野球が始まる。
甲子園の灼熱のグラウンドで
若い肉体に汗をかかせて
それを見て楽しみというのは年寄りの悪趣味である。

高知県の代表になった高校が
生徒の不始末があったことがバレて出場を辞退したという。
生徒の不始末があったら連帯責任で出場を辞退すれというのなら、
今夏の高校野球大会は同じく連帯責任で自粛しないのかというとそれはない。

新聞社の収入源だから、背に腹は変えられないからである。
口先一つ、ペン先一つで都合のいい理屈はいくらでもひねくり出せるのである。
昔の運動部は夏の運動時に水を飲ませなかったという。
いまは喉が渇く前に水分を補給せよと指導しているという。

ウサギ飛びという練習方法があったが、
いまでは
それは足を傷めるだけの狂気の練習法だとされている。
いまなおそれをやっている指導者はいじめの快感に酔っているのである。

選手を支配するという快感にひたっているのである。
真夏の真っ昼間の冷房がきいていない球場での
野球などは考えるまでもなく狂気の極致である。
日本の野球人はいまでもウサギ跳びの時代に生きているのである。

それが続けられているということは
戦時中は国民に戦争を煽った朝日新聞社の病気が
まだ治っていないということである。
新聞を売るためには何をやってもいいんだという居直りがである。

そして、かつては野球青年だったに違いない
高野連のおじいさん方の若い肉体に対する嫉妬である。 
それに起因する苛めの快感に狂っているのである。
そのことを老醜と見るよりはそういう人たちが野球人だということである。

高校野球のときに
甲子園球場では
ビールなどのアルコールを販売しているのだろうか。
売られているとしたら高校野球はまさに見せ物である。

新聞社主催の
なんとかサーカスと同じである。
かわいそうに純情な高校生は紙面でおだてられて大人の食い物にされているのである。
もっともそれがわからないほど高校生は馬鹿ではないだろうが。

野球は
テレビで見ると緊張感のあるゲームだが
球場で見ると間の抜けた、おっと緩慢に進行するゲームである。
見せ場はわずかである。

その間(ま)をつぶすのが生ビールである。
グラウンドで繰り広げられる
高校球児たちの若さの発散を見ながら飲む生ビールがうまいのである。
球児の汗と、生ビールを飲んだあとに噴き出す汗とが共鳴するからである。
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# by munojiya | 2005-08-11 13:12 | Trackback | Comments(0)
ご自愛ください
暦の上では
すでに立秋である。
どこが秋だ、と誰もが思う。
東京は連日の猛暑で夏真っ盛りなのである。

暦と季節が合わないのである。
日本は文明社会のはずなのに
そんな不便な暦を使っているということである。
そのことをだれも疑問に思わないのだろうか。

天動説を間違っていると説いたたわけがいて、
地動説を真理だとするクソ真面目な方がいて
それを合理的だと考えるそそっかしい人がいたことで
その弊害をいまに引きずっているというのが真実なのだろう。

庵主は、天の運行よりも
日常生活の季節感覚の方が
ずっと大切だと思うから、
地球の回りを天が回っているという考え方のほうがより馴染むのである。

球体の星に住む
表側 と裏側の人間が
同じ暦を使うというのは
便利なようで実は非実用的なのである。

それが便利だと考える人は
庵主と違って世界が広い人たちである。
グローバリストと呼ばれてからかわれているところの
傍迷惑な人たちのことである。

食い物とか、お酒とか、飲み水とか、
日常生活というのは
身近なところでまかなわれるのが
正常だろう。

それをどこで作られたのかわからない
輸入食品で代用するという発想が庵主にはわからない。
たとえば、国産の日本酒は高い原料米を使っているから値段が高いので
安い舶来日本酒でいいではないかという発想についていけるだろうか。

立秋になると
手紙の世界では
暑中見舞いがその日からは残暑見舞いになる。
そういうしきたりになっている。

その際のきまり文句がご自愛くださいである。
暴露系のホームページにあった読者からの投稿。
「いつも大変に興味深く読ませて頂いています。
サイトの性質上ご自愛下さい。」

なるほど、
まさに、ご自愛下さい、である。
相手の健康を気遣う言葉である「ご自愛」が
ここでは脅迫の意味合いさえ感じられるからすごみがあっておかしい。

暴露系は時に身の安全に気をつかわなければならないということである。
本当のことを書かれたら困る人がいるということである。
そういうことを書く人に対する軽い警告がご自愛くださいなのである。
実力を行使してでも口封じに走る人がいるから気をつけろという忠告である。

庵主もまた
時に日本酒の秘密をあからさまに書くところの暴露系であるから
そのうちご自愛くださいという手紙が届けられるかもしれない。
もっとも小庵である、「むの字屋」を知る人が少ないことが幸いである。
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# by munojiya | 2005-08-10 00:21 | Trackback | Comments(0)
ちょっとだけ、マジック
庵主は手品が好きなもので
ちょっとだけ手品の話である。
いまはどんな分野も細分化と専門化が進んで
それぞれの最先端は一般的な常識では理解できない所まで進歩してしまっている。

手品の世界もまた同じである。
最先端のクロースアップマジックを目の前で見せられたら
多少は手品の心得がある庵主でも全然タネがわからないものがある。
どうなってるのだろうかと考えても思いつかないその不思議を楽しむのである。

もっとも
それがどうなっているか
あるいはどうやったのかと
聞けば教えてくれないこともない世界なのだが庵主はあえてそれを聞かない。

知らなければ
いつまでも不思議を心の中で楽しむことができるというのに
そのワクワクする気分を
べしゃんこにする必要を感じないからである。

いま気に入っているのは4枚のA(エース)の手品である。
4枚ずつ四つの山に分けたカードの一番下はすべてエースである。
そのAがオマジナイをかけると一枚ずつ一つの山に集まってしまうのである。
それ以外の山からはさきほどまではたしかにあったAが忽然と消えてしまう。

4枚ともA以外のカードになってしまう。
消えたAは別の山に移ってしまうのだ。
Aが移った山のカードを見るとAが2枚他のカードが2枚になっている。
最後は全部のAが一つの山に集まってしまう。

これは見ていて気持ちいい。
自分の目でしっかりみているのに
オマジナイをかけるごとに
Aが本当に消えてしまい他の山に移動してしまうのである。

裏では
相当こったことをしているにちがいない。
それが全然不自然にみえないから
どうしてそんなことが起こるのか不思議でならないのである。

たぶん、種明かし、というかそのルーティン(手品のやり方)を聞いても
庵主には再現できないだろうと思っている。
だったら不思議な気持をいつまでも抱えていたい。
その種明かしは知る必要のないことなのである。

手品は種明かしをしてはいけない
という原則があるという。
手品をやる人たちおよび見る人たちの中に
本当にそうなのかと疑問に思う人が出てきたのである。

中にはいるのである。
人には見せることのない手品を一生懸命練習して
ただその手品が自分でできるということで手品を楽しんでいるという人がである。
庵主がそうである。

いまは手品ブームだという。
手品の種明かしやルーティンを秘密にしていたら
手品の世界は一部のマニアだけの閉鎖的な世界にとどまって
進歩のない古いスタイルがいつまでも跋扈することになるという危惧なのである。

日本酒の世界は
うまいお酒の製造法を開示することによって
その製造技術を競わせることで
今日のようにうまい酒が百花繚乱といっていい状況を造り上げたきたのである。

手品の種の開示はほんとうによくないことなのか。
手品が人を引き付ける魅力の一つに
発想のおもしろさがあるということなのである。
その発想に触発されて自分もまた面白いことを考えてみたくなるということである。

それを享受する人が多いほど
その世界は
豊かな発想をとりいれることができる。
得られる果実が大きくなるということである。

お酒が人を引き付ける魅力の一つはうまいということである。
その魅力を独り占めして
一部の人たちだけがそれを楽しんでいたのでは世界が狭まるだけなのである。
だから庵主は酒のうまさをどんどん開示していくつもりである。

角川oneテーマ21という新書で
吉村達也が「マジックの心理トリック」という本を出した。
手品のことを書いたら原稿枚数がたりなくなってしまったという。
庵主もまた手品のことを書いたらいつもより文章が長くなってしまったのである。
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# by munojiya | 2005-08-09 00:37 | Trackback | Comments(0)
ほんとうの地酒はここにある
最初にあやまっちゃいます。
贔屓の引き倒しです。
でも、庵主の
一番好きなお酒なんです。

好きに、他人からとやかく言われる理由はない。
惚れてしまえばあばたもえくぼなのである。
秋田の「福乃友」が醸している
純米吟醸「冬樹」の生酒のことである。

米は、地元産のキヨニシキというご飯用の米である。
純米吟醸酒だから舶来アルコールの添加はない。
水は、酒造りには好都合な鉄分が少ない雄物川の伏流水である。
杜氏は、山内杜氏鶴田惣太郎である。

ほんとうの地酒はどこにあるの答の一つがここにある。
思うに、
なんでも地元のもので造ったから地酒というものではない。
その風土に依っているうまいお酒が地酒なのである。

そのうまいお酒に造り手の気持が感じられればいい。
もっともお酒を呑んでそこに造り手の気持がわかるわけがない。
ただ一つたしかなことは
そういうお酒はまちがいなくうまいということである。

うまいに、あれこれご託を並べる必要はない。
呑めばわかるからである。
そのうまいという一事(いちじ)が地酒のすべてである。
大手メーカーの酒の真似をした酒まで地酒と呼ぶまでもないだろう。

大手メーカーが大量に造っている日本酒というのは
うまい酒をめざして造っているお酒ではない。
庵主が呑んでいる地酒が高級乗用車だとしたら
大手の酒は軍用トラックのようなものである。

乗り心地を比べても意味がない。
軍用トラックのような実用的なお酒を
まともな日本酒だと思われても困るのである。
どっちがいいお酒であるかは目的が違うから比べることはできない。

座席に使う生地の素材がちょっと違うだけで
全然乗り心地が変わってくるといった楽しむために乗る乗用車と違って、
丈夫が第一の軍用トラックの座席に
高級なめし革を使えというのは用に反するのである。

ただ残念なことは
日本酒の世界においては平和日本にあっても
軍用トラックの生産台数のほうが
乗用車よりずっと多いという戦時体制が敷かれているということなのである。

平和は戦時と戦時の合間だという見方がある。
それが間違った見方であったとしても
明日をも知れない日常生活において保険をかけておくような堅実な考え方だから
違っていても悪い方にはころばないのでだれも文句はいわない。

しかしである。
明日は戦時かもしれないから
それに備えて今はまずい酒を我慢して呑んでおこうという考え方は
生活の幅がせまいと庵主は思う。

戦時になったら
しかたがないからまずい酒でも呑むのである。
平時になればまたうまい酒が呑めるという夢があるからである。
その夢を奪うようなお酒造りを庵主はよろしいとは思わないのである。
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# by munojiya | 2005-08-08 00:27 | うまいお酒あります | Trackback | Comments(0)
ほんとうの地酒はどこにある?
お酒の本「うまい日本酒はどこにある?」は
増田晶文さんの力作である。
この本があれば
ここしばらくは日本酒の話をするときのネタ本につかえる、と庵主は思う。

というのは
いま庵主が書いている日本酒の話のネタ本が
1988年に書かれた一冊の本だからである。
その本に書かれている日本酒の状況がいまでもほとんど変わっていないのだから。

ただ一つ変わったことといえば、
その間に
日本酒は
どんどんうまくなってしまったということである。

お酒をうまくしたのはだれか。
どちらかというと小さな蔵元である。
全国的にそのお酒を販売している日本酒の大手メーカーをナショナルブランドという。
それとは逆の発想の蔵元がお酒のうまさに磨きをかけたのである。

当然
並行して
技術力がある大手メーカーのお酒も
よくなっていったに違いないということは想像に難(かた)くない。

しかし
その大手メーカーのうまいお酒は
庵主のような一呑み手には呑む機会がない
まさに幻のお酒なのである。

呑むことのできないお酒の話はできない。
それはイヤミでいえば庵主の憧れのお酒なのである。
だから
「むの字屋」には大手メーカーのお酒の話はほとんどないのである。

庵主にとっては
日本酒というのはうまいお酒である。
なんといっても、酒が呑めない庵主が呑んでもうまいと感じるのだから
これは本物なのである。

体にいいものはうまいのである。
ところが
日本酒に対する世評は
いまでもよろしくない。

日本人の多くが
庵主が呑んでいる日本酒とは次元の違うお酒を
日本酒だと思って呑んでいるということである。
庵主が語っているお酒はうまいのが当たり前の日本酒のことである。

そういううまい日本酒を造ってきたのは小さい蔵元だった。
地酒と呼ばれるお酒を醸してきた一つ格下とされていたそれぞれの地方の蔵元である。
小さい蔵は生き残りをかけてうまい酒を造ってきたのである。
だからこそうまい日本酒は地酒にあるのである。

で、その地酒とはなにかというと、
過日、宮崎康平のお言葉を書いた(8月3日号)。
そのとおりなのである。
しかし、その地酒はどこにある?

米は播州山田錦、添加したのは舶来粗留アルコールの精製品、
水は昔からの井戸が枯れたので遠くの水源からタンクローリーで運び入れ、
杜氏は有名杜氏を金にあかせての引き抜き。
そういうお酒を地酒と呼ぶのも気がひけるのだが。
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# by munojiya | 2005-08-07 12:33 | Trackback | Comments(0)
原爆焼酎
青森県の六ヶ所村で発売された
その特産である長芋を原料にして
宮崎県の黒木本店に醸造を委託して造った長芋焼酎の「六趣」(ろくしゅ)が
いま入手困難な焼酎として話題になっている。

ときに暦は広島の原爆記念日である
「六趣」も大方の予想を越えるうまい焼酎だったら
原子力廃棄物の処理施設がある村の特産なのだから原爆焼酎として売り出せばいい。
ここでいう原爆とは想像の度を越しているという意味である。

超弩級という言葉があるが
そのスケールさえも越える原爆級焼酎ということである。
職業被爆者と書くと
その天職を揶揄するものだという反撃がくるという。

原爆焼酎もネーミングが過激ととらえられるかもしれない。
昔の漫画にムロタニツネゾウの「ピカドンくん」というギャグ漫画があった。
これも意味するところは原爆級ということである。
想像を越えることを原爆という言葉で表しているのである。

日本は世界で唯一の被爆国という今となっては嘘のキャッチフレーズがあるが
原爆に対して一番鈍感な国民は日本人であるという指摘もあるのである。
とはいえ、食い物や、飲み物に原爆という言葉を使うと
放射能障害を思い浮かばせてかえって悪印象の方が強いかもしれない。

もっとも
焼酎はいまでこそ
若い女の子でも呑むようにおしゃれな酒とされているが
一昔前あたりまでの評価はそんな高級な酒ではなかったのである。

焼酎自体は
ウオッカとか、ジンとか、テキーラとか、ラムといった蒸留酒に
優るとも劣らない素敵なお酒である。
そのお酒を指してあれは人夫土方が呑む酒だと一段低くみていたものである。

ということは
それを造っている地方に対する遠回しの蔑視だったのか。
明治維新以来薩摩藩にいじめられた人たちが
その飲酒習慣を、すなわち呑んでいる酒をばかにしていたのである。

酒質の善し悪しには関係なく
その酒を呑む環境に対して差別の感情を懐いていたのである。
懐いていたのは誰か。
薩摩藩によって冷や飯をくわされることになったかつての勝ち組だろう。

いまや
その昔の勝ち組が呑んでいた誉れの清酒は
生産量において焼酎にかなわなくなったのである。
かつての誇り高い勝ち組も規範の箍が緩みはじめているのかもしれない。

あるいは政策的に
アルコール度数の高い酒の飲酒を奨励し国民の健康を破壊して
戦後日本の弱体化を狙う陰謀があるのかもしれない。
ソ連のウオッカ漬けによる惨状を見るにつけ邪推したくなるのである。

思えば、
アルコール度数5度のビールに対する過重な重税も
言い換えるなら原爆課税といっていいビールの異常に高い税金も
高アルコール酒を飲ませるためにその一端を担っているのかもしれない。

ただし、ビールの高率課税は
当初ビールは家庭で飲まれるよりも
高級料亭で飲まれることが多かったころの高税率を
今でも引きずっているのだからそれを陰謀説に結びつけるには無理があった。
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# by munojiya | 2005-08-06 01:56 | Trackback | Comments(0)
お酒のストーリー
たとえば
「越乃寒梅」といえば
幻の酒ということで
一度は呑んでみたくなる。

たとえば
「十四代」といえば
今でもなかなか手にはいらないお酒ということで
目の前にあったら呑みたいと思う。

さらに
「久保田」とか「八海山」と聞くと
なんとなくいいお酒だと感じられて
うまそうに思えるのである。

うまそうに思えるから
そのお酒を呑んでみたくなるのである。
酒の善し悪しはともかく
評判のお酒だから呑みたいのである。

評判になるということは
それらのお酒は
ストーリーを作り上げたということなのである。
そのストーリーがおいしく感じるのである。

青森県に六ヶ所村という村がある。
六ヶ所村といえば
庵主が思いつくのは
原子性廃棄物の処理施設を誘致した村だということである。

そんな危ないものを誘致するのだから
補助金が落ちることだけがよすがの貧乏でかつ後ろ向きな村なのだろうと思って
村のホームページを見たら
全然逆で積極的に活動している村だった。

六ヶ所村の特産に全国一の生産量を誇る長芋がある。
その長芋を原料にして長芋焼酎を造って売り出したのである。
六ヶ所村特産の焼酎である。
その焼酎造りを宮崎県の黒木本店に委託したのである。

黒木本店といえば
焼酎ブームの走りとなった「百年の孤独」の蔵元である。
いまや売れ過ぎて「百年の孤独」は味が落ちたというのが定説なっている。
あんまり人気が出てしっかり熟成できなくなってしまったからである。

とはいえ、
黒木本店の焼酎はいまなお魅力的である。
また、
長芋を原料にした焼酎造りのノウハウをもっているという。

北の青森と南の宮崎のコラボレーション(異種和合)である。
その焼酎が「六趣」(ろくしゅ)である。
これが人気になって
いま入手困難なのだという。

なんとなく
呑んでみたくなってきたではないか。
なぜか。
お酒にストーリーがあるからである。

そのストーリーが広く語られるようになるとその酒は伝説となる。
伝説のお酒なら出会ったらつい呑んでみたくなるではないか。
ただ、放射性燃料の処理施設がある六ヶ所村の特産の焼酎ということで
「六趣」にはべつの不安がよぎるのである。
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# by munojiya | 2005-08-05 12:54 | Trackback | Comments(0)
Kire
電車の車内吊り広告に
週刊誌の広告のようにレイアウトされている
サントリーの「その他の雑酒2」の広告が
下がっていた。

商品名の付け方に困って
しかたなしに第3のビールと呼ばれている、
正しくは、代用ビールというか、合成ビールというか、
アルコール入りホッピーともいうべきか、あの手の酒の新製品である。

ビールのようでビールでない、
飲めるようで飲んだらうまくない、
ビールとは呼ばれているがやっぱりビールでない
という不思議な酒がいま日本では全盛なのである。

日本人の自尊心はどこへいってしまったのだろうかと、
こんなことでいいのだろうかと祖国に対して不信をいだきたくなるような現象である。
いや、いや、今年は戦後60周年の記念すべき年である。
戦時中の食料不足による代用食を今に振り返ろうという企画なのだろう。

それはあの戦争のひもじさを忘れまいとするための代用ビールなのである。
終戦記念日に間に合わせるかのように発売されたというのも
食料をきちんと確保できないと
こんなものしか飲めなくなるぞという警告なのである。

広告のビールもどきのアルコール飲料の新製品は
「Kire」(キレ)という。
広告とはいえ
それを読む限りではうまそうに思うのである。

庵主は広告に弱いから
つい手をだしてしまう。
理性があれば
「その他の雑酒2」なんかにまともなものがないことはわかるのである。

しかし、
酒はまた下手物がいいのである。
そういう酒を飲むという
わびしさがいいのである。

庵主は
わびしさを求めて
「Kire」を探した。
自動販売機に350ミリリットル缶入りで120円で売っていた。

サントリーといえば
発泡酒「ホップ」を世に問うて
模造酒のサントリーの名声を高めたメーカーである。
その新作というのだから期待がいや高まる。

発泡酒というのは
まだビールのうちである。
ちゃんと麦芽を使って造っているからである。
が、「その他の雑酒2」となると麦芽は使えない。

「Kire」の原材料を見てサントリー製造陣の苦労を偲ぶのである。
「ホップ、コーン、糖化スターチ、醸造アルコール、植物繊維、
コーンたんぱく分解物、酵母エキス、香料、カラメル色素、酸味料、クエン酸K、
甘味料(アセスルファムK、スクラロース)、苦味料」である。

3行も要するのである。
さらに「炭酸ガス含有」とあるから強制的に炭酸ガスをつめたということなのだろう。
雑多な原材料は肥満性の人には猛毒ともいえるアイスクリームの原材料に匹敵する。
「Kire」というのは「斬れ」なのかもしれない。 
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# by munojiya | 2005-08-04 22:19 | Trackback | Comments(0)
呑めない男
煮ても焼いても食えない男というのは
あきれた気持ちが半分と一目置かざるを得ないという気持が半分である。
それにひきかえお酒が呑めない男というのは
つまらない人間の代名詞である。

正しくはその人間がつまらないのではない。
親しい気持で声をかけたときに
理由もないのに無下にされたような
味気なさが残るということである。

酒が呑めない男がいる。
それはそれでかまわない。
呑まなくてもすむのなら
それにこしたことがない。 

酒を呑んでも利口になるわけではない。
それで儲かるわけでもない。
すこしは智恵がふえるというものではない。
ただ時間を無為にすごすという快感がたまらないだけである。

アルコールで体をいためては
呑み過ぎると肝臓を壊すだけである。
酔いの制御ができない人は
まわりの人に迷惑をかけるだけである。

しっかり時間を過ごせる人なら
お酒の力を借りなくてもいい。
べつに一人や二人お酒を呑めない男がいても
世の中少しも困らないのである。

ただ、
「呑むかい」と
声をかけたときに
「不調法ですから」と返ってくるとさびしいのである、酒呑みにとっては。

呑めない人に
本当に呑めとはいわない。
呑みたいときにつきあってくれるということだけで嬉しいのである。
そういう気持がすっと返ってくるということが心に叶うのである。

うまいお酒の呑み方の第一は
いい呑み手と一緒に呑むことである。
そういうときは
ひどい酒でもおいしく呑めるからである。

永六輔(誼がないので敬称略。以下同じ)はお酒が呑めないという。
宮崎康平にお酒を勧められたという。
呑めないといって断ったら
宮崎康平は怒ったという。

この土地の酒が呑めないような男は信用できない。
この土地の米で造った、
この土地の水で造ったお酒はこの土地の風土である。
その風土になじむことを拒むということは俺を拒むことだという。

呑めない永六輔は
目が見えなくなっている宮崎康平の前で
呑んでいるふりをしたという。
「呑んでない」と喝破されたという。

大盃を持ち出してきてなみなみとお酒をつぎ、
酒を呑むということは
その酒の上を渡る空気を吸うことだと教えてくれたという。
大盃の上を渡ってくる空気を吸っただけで永六輔は酔っぱらってしまったのである。
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# by munojiya | 2005-08-03 23:46 | Trackback | Comments(0)
行儀が悪い女酒呑み
それがたまたま女だったから
女酒呑みとしたが、
男でも同じである。
みっともない酒の呑み方をするなということである。

ある日本酒のショットバーで女の二人連れが呑んでいた。
立ち呑みのショットバーである。
お店の大将がたまたま一緒になった客同士を紹介してくれるというお店ではない。
様子を見て勝手に隣の客に話しかけてもいい雰囲気のお店である。

ショットバーと書いたが、
ようするに立ち呑み屋なのだが、
そこに置いてあるお酒が凄いのである。
カタログでは見るが実際に呑む機会がなかなかないというお酒ばかりなのである。

だから気取ってショットバーと書いた。
そういうお店だから
よく日本酒を知っている客が
酒を呑むのが目的で集まってくるから話題は一つなのである。

その二人連れの女酒呑みも
それなりにいいお酒を知っている客である。
うまいお酒を呑んでいると
同じ幸せを味わっているということからそのお酒を寿ぎたくなる。

声をかけてきたのは
その二人連れのほうからだった。
庵主は声をかけるときには
一人で呑みに来ている客にしか話しかけることはない。

話し相手のいるところには
わざわざ声をかけることはないのである。
もっとも
向こうの方から仲間に入れてくれるというのを拒む理由はない。

庵主は一杯のグラスに
たっぷりの水を用意してお酒を呑んでいる。
そして量は呑まない。
いや呑めない。

一杯のお酒を
香りを楽しみ
冷えているときの口当たりのよさを楽しみ
温度変化による味わいのうつろいをじっくり楽しむのである。

だから
本当は
量は呑んでいない。
すぐ顔が赤くなるからたくさん呑んでいるように見えるだけである。

一方その二人は
かなりグラスを重ねていたようである。
酔っているのである。
そのせいだろう、その内の年上格の女がとんでもないことを庵主に語りかけてきた。

おいしいお酒を教えてください。
チケットがなくなったから
ごちそうしてください、と。
そこはチケットが前売りでキャッシュオンデリバリー(現金払い)のお店である。

見知らぬ客にお酒をたかってきたのである。
お酒は自分の金で呑むものという原則を貫いている庵主にとっては
ふざけるなと思ったのだが、
よく見ると美女の二人連れである、苦笑してご馳走してあげたのである。
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# by munojiya | 2005-08-02 21:34 | Trackback | Comments(0)