元旦に呑むお酒
ボジョレー・ヌーボ(庵主表記)は
その1~2か月前から
盛んに予約取りがはじまる。
いまではスーパー、コンビニでもやっている。

日本酒の新酒はなぜそれをやらないのか。
新酒なんか呑んだってたいしてうまくないからである。
お酒は1~2年ぐらい低温で寝かせて味が落ち着いたものがうまくなる。
ただ新鮮だからで売るというのは呑み手をかついでいることになるからである。

でも
初物って、日本人は好きなのである。
季節の季節の旬を楽しむお祭りだと思えば
それもまたよしである。

さて、日本酒の予約の季節は今頃である。
何を予約するのか。
元旦に呑むお酒を予約するのである。
元旦というのは一月一日の朝という意味である。

だから一月元旦と書くと馬から落馬になる。
馬から落馬というのは
意味が重なっている言葉遣いのことである。
落馬というのは馬から落ちることである。

よって、馬から落馬とは
馬から馬から落ちるという意味になるから
馬がダブってしまう。
この手の言葉はいっぱいある。

話言葉ではそれをやっても気がつかないことが多いが
書き言葉では避けなければならない。
文字として証拠が残るから教養がないことがばれてしまうからである。
たとえば、日本酒の今の現状に不満をもってはいけない。

現状というのは今の状態のことだから
今の現状といったのでは、今の今の状態になってしまうからである。
一番最初にお酒を呑んでもいけない。
最初というはの一番初めのことだから、一番一番初めになってしまう。

馬から落ちることを落馬というが
駱駝から落ちたら、やっぱりラクダというのだろうか。
元旦に呑む新酒は今蔵元に予約するとまだ間に合う。
12月の半ばに搾ったお酒に新春の熨斗をつけて年内に届けてくれる。

中には大晦日搾りの元日届けというお酒もある。
庵主はそれを呑むことにしている。
栃木の酒「開華」の大晦日に搾った純米吟醸(無濾過無加水生原酒)を
元旦に届けてもらう。

お正月にも休むことのないクロネコヤマトに感謝するのである。
と、同時に、命にかかわる商売じゃないんだから正月ぐらいゆっくり休めよと、
お正月という日本の風習を紊乱する商法に国家の品格の低下を見ながらも
おいしいお酒を呑んでいるうちにそんなことはどうでもよくなるのである。

だって、
お酒は、
厳寒のこの時期に休むことなく造ってくれる人がいるから楽しめるのだから。
酒呑みは勝手なものなのである。

元旦搾りというお酒もあるから、
本当に新年のお酒が呑みたかったら
そういうお酒を注文するといい。
いまなら予約が間に合うのである。
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# by munojiya | 2005-12-13 23:48 | Trackback | Comments(0)
日本酒の品格
新潮新書藤原正彦(ふじわら・まさひこ)著「国家の品格」である。
藤原正彦は数学者だという。
庵主は、数学というとつい意味のよくわからない数式を思い浮かべるから
なにやらややこしい学問のように思ってしまう。

よく考えてみれば、あれは数式であって思考の結果を簡素に表したものだから、
「アルコール分を含み、飲むと酔う飲物の総称。特に、米で造った、日本酒のこと」
(「岩波国語辞典第六版」から飲用、おっと引用)を一言で酒といいきるように
数式も既定の内容を一言で表現したものなのである。

庵主は不勉強なのでその言葉の意味がわからないだけなのである。
酒の知識がなくてもぜんぜん問題なく生きていけるように、
数式を知らなくてもぜんぜん問題なく生きていけることはいうまでもない。
その数学者というのはまた洗練された美意識の持ち主であることが多い。

エレガンスな解答という言葉を数学雑誌で見たことがある。
そういう美意識を持っている人が書いた本が「国家の品格」である。
世の中には論理では解決できないことがあると語る。
かえって論理だけを追い込んでいくと人間にとって不幸な社会になるという。

西洋社会はつい数百年前にその論理に目覚めて
ついには共産主義という虚構の論理を本当に信じてしまったことで
世界中に害毒を流している。
つまり論理的整合性よりも情緒というよりすぐれた感性が人間には大切だという。

なぜ人を殺してはいけないのか、という質問をした生徒に
その正当性を説明することはできないという。
人を殺してはいけない理屈はいくつでも考えられるが
同時に人を殺してもいいという理屈もたくさん考えられるからである。

すなわち
それは論理によって決めることではなく、
情緒というより高い感性によって判断することだからである。
それは理由を説明するまでもなくやってはいけないことだと教えればいいという。

わが国で小学生から英語を教えて国際人を作ろうという話が進んでいるという。
教育関係の「有識者」(最近はこの言葉が揶揄する言葉になってしまった)が
しっかり考えて出した結論がこれだったのである。
はたからみれば考えるまでもなくアホとわかることを論理は導き出すのである。

小学生のころから英語を勉強する時間があるなら
その分を日本語の勉強に当てるというのは当たり前である。
本来ならば小学生から漢字をきちんと教えるのが正しいのだが
いまの学校では「一ねんせい」といったふざけた教え方をしているのである。

日本の学校は、日本人の教養をすなわち日本語を教えるための学校である。
英語も中途半端、日本語も生半可な日本人が人間として魅力があるだろうか。
そんな日本人は金持であることを羨望されても尊敬されることはないだろうという。
日本人は日本人として個立することこそが世界平和の要(かなめ)なのである。

ようするに現在の日本はみんなで品がないことをやっているということである。
日本はいまグローバリゼーションを称揚してますます品がない国家になりつつある。
銭金(ぜにかね)が最優先という生き方は本来の日本人が好むところではない。
一部の人間だけが「実力」で富を集める社会は間違っているという普通の感覚である。

品格はまたいろいろな商品(もの)についても同じことがいえる。
日本酒の品格についてである。
純米酒こそ本物の日本酒だとする主張はお酒の品格を守れということなのである。
米で造ったお酒にたっぷりアルコールをまぜた酒はたしかに品がないのである。

そういう酒まで日本酒だと強弁する品性がみっともないのである。
まともな美意識をもっている日本人には違和感を感じる酒なのである。
呑めるとか呑めないとかではなく品性の問題なのである。
国家の品格はお酒の品格につながっているのである。
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# by munojiya | 2005-12-12 23:49 | Trackback | Comments(0)
女性天皇と女系天皇の違い
いまとんでもないことが起ころうとしている。
皇室伝統が断絶する危機に直面しているのである。
その形式的な酒販は、おっと主犯は小泉総理である。
そして共販が、おっと共犯が「有識者」を自認する10人である。

世界で一番古いという皇統(こうとう)が途絶えるかもしれないのである。
皇統は2665年を数えるという誇りのある制度で、それは日本人の密かな誇りでもある。
その誇りを解体しようという目論見がいま進行しているということなのである。
小泉総理の後ろにはアメリカの日本占領政策があるのだろうと庵主は邪推している。

あの戦争は日本人はもう終わったと思っているが、
アメリカの日本占領計画はまだ終わってはいないということである。
白人はしつこいのである、日本人の誇りをずたずたにする作戦である。
あの戦争とは本質は共産主義(悪疫)との戦いだから実は現在進行形なのである。

まっとうなお酒を呑んでいるとそれがちゃんと見えてくるのである。
本物がわかれば偽物のいかがわしさが見えるようになるということである。
日本酒の味わいは日本人の心だから
それから外れるものには違和感を感じるということである。

「有識者」からなる首相の私的懇談会(通称井戸端会議)は
2005年11月24日に皇室典範の改正に関する答申を行なった。
その内容が軽佻浮薄としかいえない内容だったことから
皇統を重んじる人たちからは拙速な改正をたしなめる意見が巻き起こったのである。

答申は女性天皇を認めるという。
そして女系天皇も認めようという。
小泉総理はそれをそのまま改正法案として国会に提出しようとしているという。
そういうやり方が間違っているのである、質が悪いということである。

世論調査では女系天皇に賛成する人が70%を越えるといわれているが
皇室典範の拙速な改正に反対する人たちは、
女性天皇と女系天皇の違いが国会議員でもわからない人がいるというのに
普通の人からそんなアンケートを取ってもまともな判断ができるわけがないという。

まったくその通りなのである。
女性天皇と女系天皇の違いがわかりますか。
皇統は一貫して男系天皇が継承してきたからその血統が保証されているという。
女系天皇も認めるとなったら血統が異なる人が天皇になることになる。

女性天皇とその婿さん(その呼び方が日本語にはない)の間に生まれた子も
天皇になれるということにすると天皇家の血筋が変わってしまうということである。
そうなると天皇とはいってもその血は正統性がなくなった形式だけの天皇となり
その祀りごとを行なう意味が変質してしまうからありがたみがなくなってしまうのである。

男系の天皇というのは、いうなれば米で造ったまっとうな日本酒である。
米なら、山田錦でも飯米のこしひかり(コシヒカリだったっけ?)でも日本酒である。
米に醸造アルコールを添加してもまだ日本酒といえるだろう。
米という本質がそれを保証しているからである。

米が男系、醸造アルコールが女性天皇とすると、それで造ったお酒は日本酒である。
米という男系の本質によって裏付けられているから男系天皇という。
しかし、米に代えて黍とか粟を使って造ったものを日本酒と呼べるだろうか。
黍などの雑穀と醸造アルコールで造った酒が女系天皇である。

その時点で日本酒の質が変わってしまうということである。
まともな日本酒の味を知ってる人なら
米が不足するからそれを雑穀に変えても日本酒と呼ぼうという案を認めるわけがない。
庵主もまずいお酒を呑むのはまっぴらなのである。

女系天皇でもいいではないかという考え方は
アルコールであれば何でも酒だと思うような物事の区別がつかない人の発想である。
お酒のうまさを知らない人の戯言(たわごと)である。
うまいお酒を知っている酒呑みの容認できることではないのである。

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なお、この項目は、お酒を呑みながら皇室伝統という制度の有用性について同意しているものであって、天皇家の万世一系を保証しているものではありません。念のため。
庵主には歴史書のいかがわしさに対する興味はあってもそれを検証する暇(気力)も能力もありませんので。
また、皇紀2665年も主催者側発表の数字です。
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# by munojiya | 2005-12-11 23:01 | Trackback(2) | Comments(1)
たった四杯で夜も眠れず
庵主(あんしゅ)の酒量の話である。
これで酒が全然呑めないということがわかる。
それでもお酒を呑むのは
そこに「うまい」という快感があるからである。

どんな商品でもそうだが
実用だけの安い商品と
造り手のこだわりがこもった高級品とがある。
日本酒もその例にもれない。

代用清酒と呼んだ方がいい合成酒から
米を35%以下に磨いて造る
冗談はいいかげんにしろといいたくなるようなお酒まである。
そんな不真面目なお酒を造る人の見識を疑いたくなるのである。

人間にはできるけれどやっちゃいけないことというものがある。
人殺しとか、米を粗末にする酒造りなんかはその代表である。
精米歩合10%のお酒というのもあるようだが、
そのうち精米歩合0%の究極の日本酒を造る蔵が出てくるのだろう。

もっともそんな酒造りに浮いていられるのは
まだいい米を自由に使えるからなのだから
いまのうちに享受しておくことも冥土の旅の餞(はなむけ)になるかもれしない。
いつまでもあると思うな金と米である。

だれもがそうだろうけれど
自分にとっていちばん心地よく酔える酒量というのがある。
それ以上呑んでもおいしく感じなくなる量である。
またそれ以上呑むと気分が悪くなる寸前の量である。

庵主はその量が少ないので助かる。
小グラスに2杯のうまいお酒で十分なのである。
多少高いお酒を呑んでも一升酒を呑む人の酒代と変わらないから
いつもいいお酒を呑むことができるというものである。

その日は4杯のお酒を呑んでやっぱり多過ぎたのである。
まずは「美少年」の純米吟醸である。
熊本の「美少年」は東京でもよく目にするお酒である。
しかし、これまでそれをうまいと感じたことはなかった。

その普通酒しか呑むことがなかったからであるがこの純米吟醸は文句なしにうまい。
てらうこともなく、それでいてしっかりうまさをたたえたお酒である。
うまさが深いから体が喜んでしまうお酒である。
だから、つい多めに呑んでしまうのである。

そのあとに白ワインの「MACON-VILLAGES」RECOLTE 1997 DOMAINEである。
庵主はワインはよくわからないのでラベルの丸写しである。
最近日本酒の甘さがちょっと気になるようになってきた庵主にとっては
その酸味がさわやかに感じられて心地よい。

さらに赤ワインの「Chateau VALMONT」1996を飲む。
知る人は、このワインは本当ならもっと華やかな香りがするのだというが、
知らない庵主はそれでも十分に味のあるワインだと思って飲んでいる。
最後は喉を潤すために「一番搾り」の生ビールで、しめて4杯である。

それだけですっかり酔っぱらってしまったのである。
酔いが回り過ぎて、呑んだ後に急激に眠気が襲ってきた。
まだ夜も早い時間にすっかり眠りこんでしまった。
そして夜中の2時頃になって目がさめてしまったのである。

そのあとはうつらうつらで朝まで熟睡することができなかった。
一番下手な酒の飲み方をしてしまった。
たった四杯で夜も眠れずである。
とはいえ、蒸気船ではないので庵主の生活は平和なのである。
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# by munojiya | 2005-12-10 23:57 | Trackback | Comments(7)
B級グルメ
グルメという言葉が一般的になったのいつごろからだったろうか。
食通と訳しても、嗜食症と訳しても
同じことである。
前者は肉体的に見たときの、後者は精神的に見たときの同じ症状だからである。

グルメの期待に応える食い物や飲み物が提供できるようになってからだろう。
生活が豊かになってから生じる文明の末期的症状である。
ものが豊かになることと引き換えに
大切なものをそうして失っていくのである。

それに気がついている人は
喰い道楽を一笑に付すのである。
たわけ者め、といったところである。
庵主は“一升”に付してしまったからそれを知っていて苦笑するしかない。

うまい食い物、うまい酒は
それを味わうことが快感だから拒むことは至難である。
一度そのうまさに目覚めたら
やっぱり抗(あらが)えなくなるのである。

たしかに
大の男がこれがうまいだのまずいだのと
喋々喃々する図は様にならない。
男は黙ってなんとかビールじゃないがあるものを黙って口にするものなのである。

そんなことに示す興味があったら
もっと世間様の役に立つ仕事でもしろというものである。
飲み食いなんぞに興味を示す人間というのは
それ以外に才能(とりえ)がないただの人ではないのかという不安がわいてくる。

うまいとかまずいというのは自分だけで完結する世界だからである。
他人がいくらうまい酒だといっても
自分はそうは思わないとしたらその場合は自分の方が正しいのである。
他人と比較する必要がないから安心していられる平和な世界なのである。

ところが仕事はそうはいかない。
どっちが上手か下手かは比べるとすぐわかるからである。
同じ日本酒でも
うまいお酒を造る杜氏とそうでない杜氏がいる。

うまくない方のお酒を好んで呑む人は少ないだろう。
自分の才能がいっぺんにわかってしまうから
心穏やかでいることは難しい。
それに対して趣味の世界は自己完結するから心安らかに楽しんでいられるのである。

A級グルメというのは貧乏人にはできないお仕事である。
グルメといっても感想ではなく批評の次元に踏み込んだ比較の世界だからである。
実際にいい酒やいい食い物を飲み食いできない人には参加できない世界なのである。
当然いい物というのは数が少ないから恵まれていない人には出会えないのである。

たまたま呑んだ日本酒がうまかったからといって
むやみにそれを称賛したら笑われるだけである。
軽自動車に乗ってこれはこの世の中で最も快適な車だといっているようなものである。
本来の車は実は別の世界にあったということがある。

すなわち比較するものを知っていなければならないということなのである。
いいものを知っていなければならないということなのである。
その点、そこまでは評論内容の保証はできないと居直ったB級グルメは楽しい。
自分の舌のおもむくままに書きなぐればいいのだから。

庵主は日本酒に関してはどちらかというと恵まれている方である。
いいお酒もいろいろ呑ませてもらったが、
しかし、今はそんな気張って呑む酒よりも気安く呑めるうまいお酒の方が楽しい。
B級グルメの世界は自分の好みを勝手に書けるから面白いのである。
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# by munojiya | 2005-12-09 23:55 | Trackback | Comments(0)
玉栄で精米歩合60%のお酒
うまいお酒があるよという話が耳に入ってくる。
庵主(あんしゅ)はちゃんと記憶しておくのである。
居酒屋で全然知らない隣の客がそういう話をしていたら
聞くとはなしに耳にしてしっかり覚えておく。

だいたい
庵主は一人で呑みに行くことが多いから
隣の話がよく聞こえてくるのである。
店を出たらすぐに手帳にその酒銘をひかえておく。

そうしないと
酔いがさめたら
さっき聞いたお酒の名前も忘れてしまうからである。
うまいお酒の話が呑み相手から出てきたときはその場で手帳を取りだす。

日頃からそのように心がけがいいと
思いがけないところでそのお酒と出会えるものなのである。
つくづく東京はお酒に恵まれている街だと思う。
今夜の出会いは滋賀のお酒「七本鎗」(しちほんやり)だった。

滋賀の酒が好きだ。
庵主と波長が合うからである。
滋賀のお酒は甘いという。
甘い酒が好きな庵主と気脈の通じるところがある。

まずは「喜楽長」(きらくちょう)である。
その「天保正一」が庵主の好きなお酒の一つである。
口にふくんだときの華やかさは
気分が沈んでるときでも俄然憂いを忘れるほどである。

そして「松の司」(まつのつかさ)である。
酒のうまさをじっくり味わえるお酒である。
どっしりしていてうまいお酒が呑みたくなったときには
「松」(「松の司」のこと)を呑むに限る。

「琵琶の長寿」もある。
庵主はこのお酒とはなぜかタイミングが合わなかったが
過日呑んだ「琵琶の長寿」がうまかったことで
見直したのである。

「琵琶の長寿」がうまくない酒ということではなく、
いいお酒なのになんとなく波長の合わないお酒があるということである。
福岡の「繁桝」がそうだったし、
愛媛のオオセトの「綾菊」も長くそういうお酒だったのである。

純米の「七本鎗」は
酒米が玉栄(たまさかえ)で精米歩合が60%の酒である。
じつはこの玉栄が庵主の密(ひそ)かな贔屓米なのである。
滋賀県の蔵元ではよく使われている米である。

山田錦、五百万石、美山錦に比べると地味な米であるが
これがいいのである。
どこがいいかというと、
時として大当たりするからである。

純米「七本鎗」の玉栄も大当たりだった。
精米歩合60%で酒がこんなにうまいのなら
酒は60%磨けばもうこれで十分だと納得させるだけのうまさがある。
下手な杜氏はそれ以下に磨いて米に頼って造ればいいと思ってしまう。

庵主は、精米歩合60%のお酒でうまいお酒を贔屓にしているから
まさにそれにぴったりのお酒に出会って気をよくしているのである。
玉栄の60%でうまいお酒に千葉の「岩の井」の「昭平庵」がある。
玉栄がどれもうまい酒ということはないが呑んでうれしいお酒とよく出会うのである。
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# by munojiya | 2005-12-08 22:24 | Trackback | Comments(0)
似非(えせ)日本酒
日本酒とは本来米だけで造るものである。
では、アルコールを混ぜた日本酒はまっとうなお酒と呼べるのか。
日本酒の呑み手に対する踏み絵である。
庵主は平気で踏んでしまう。

実は庵主は日本酒にアルコールを混ぜても全然かまわないと思っている。
ただし、それが呑んでうまければという条件が付くが。
日本酒のアル添を非難する人の言い分はよくわかるのである。
その手のお酒の多くは安かもしれないが呑んでもうまくないからなのである。

庵主は自慢じゃないが純米酒とアル添酒の区別がつかない。
このアルコールの強さはアル添だなと思ったらそれが純米酒で
このなめらかなアルコール感は純米酒でしょうと思ったら
それがアル添酒だったということがよくある。

だったらなぜアル添酒をばかにするのかというと、
その場合のアル添酒というのはアルコールの入れ過ぎだからである。
最初からこれは焼酎に味付け用の日本酒を混ぜた酒ですよといわれたら
全然問題ないのである。

体は焼酎モードになっているから十分対応できるからである。
それなのに
日本酒ですよといって出てきたものが焼酎の世界だから
体が驚いてしまうということなのである。

エロ映画を見に行った時にただの純愛映画が出てきたら頭にくるではないか。
そういう人を引っかけるようなお酒は質(たち)が悪いから
庵主の体はそれでは安心して呑んでられないと
拒絶反応を起こすのである。

こんな酒は呑んじゃいられない、と。
庵主が日本酒を呑む基準はうまいかどうかである。
うまいお酒しか呑めないのである。
それでも呑み過ぎると酔っぱらってしまうから量は呑まない。

大量消費を指向する酒造メーカーにしてみれば
ちっとも売り上げに貢献しない客である。
しかも能書きの多いうるさいだけの客ということになる。
もっとも庵主が呑んでいるお酒はそれとは別の世界のお酒だから関係ないが。

お酒造りには二つの道があるということである。
昨日書いたように正道の道を行くか、儲かればいいと考えてそれを踏み外すかである。
これは造り手の踏み絵である。
両者は相対立するものではなく、両立させることも可能である。

正道の酒を造りつづけるために
そうでない酒を造るということである。
うまいお酒を造りたいと思っていても
それでは値段が高くなってやっていけないから売れる安い酒も造るということである。

そういう安いお酒が市場の70%を占めているというのが実情である。
お酒は酔うために呑むものと考えている人が多いということである。
水のようにきれいなさわりなく喉元を通り過ぎていく値段の安いお酒である。
そういうお酒はさすがに庵主には呑めない。

正道のお酒は、まっとうなお酒といっても同義語だが
やっぱり、呑んでうまいのである。
アルコールを入れ過ぎて「うまい」という味わいまで薄めてしまった酒では
呑んでいても頼りないのである。

グルメ評論家の条件は大食であることである。
量を摂るということもまたべつのうまさなのだろう。
庵主はそれは無駄だと思っているからそういうお酒の呑み方はしない。
勿体ないからである。
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# by munojiya | 2005-12-07 23:04 | Trackback | Comments(0)
お酒の正道
庵主は通称「第3のビール」をためらわず代用ビールと呼んでいる。
ビールメーカーは主張する。
自分たちはそれをビールを造っているとは思っていない。
新しい味わいの創造である、と。

だったら、その主張にふさわしい命名をすればいい。
「第3のビール」などという
ビールという「高級」イメージの恩恵をちゃっかりいただくような
まぎらわしい真似はしなければいいのである。

たぶん
それができないのは自信がないからなのだと思う。
新聞社では出版部門は二流扱いだという。
出版部門に配属されたら格落ちなのである。

だから
新聞社の出版部門は本紙に比べると
主張はあっても肚がすわっていないという印象を受けるのである。
代用ビールを造っている部門にもそれと同じような引け目を感じるのである。

主張堂々なれどそれに対して肚がすわっていないのが見て取れるのである。
売れるからいいだろうというのは迎合であって
正道とはかならずしも一致しないということである。
小泉総理の人気をみればそのことがよくわかる。

庵主が呑みたいのはお酒であって
アルコール飲料ではないというのが主張である。
これは肚がすわっている主張である。
まずい酒が呑めない体質なので腹がウンといわないからである。

酒とアルコール飲料とはどこが違うのか。
お酒もその主成分は、というより効能を発揮する成分はアルコールである。
アルコール飲料もその主成分は、
というより主目的ともいうべき効能を発揮する成分はアルコールである。

お酒Aの主成分はアルコールである。
アルコール飲料Bの主成分はアルコールである。
ゆえにお酒Aとアルコール飲料Bは同じである。
と考えるとしたら、そうはいかないのである。

そこに人間が絡むからである。
形式的には合っている推論でもその意味が間違っているということである。
少なくとも庵主の体は両者を完全に別のものとしてとらえているのである。
なにが違うのか。

まず庵主の中において呑む目的が違う。
お酒は味わうために呑むものである。
アルコール飲料はただ酔っぱらうために飲むものである。
アルコールが主役となってる酒では存分に楽しめないということなのである。

てっとりばやく酔っぱらうために飲むのがアルコール飲料。
心地よく酔うために呑むのがお酒、なのである。
体を酔わせるのがアルコール飲料。
心も気持ちよく酔わせてくれるのがお酒、なのである。

仕込水と蒸留水のちがいはだれでもわかるだろう。
飲み比べてそっけのない味の方が蒸留水である。
主成分はともにH2Oである。(2は小さい文字)
庵主が飲みたいのは仕込水であって蒸留水ではないということである。

仕込水は人間の飲み水であり、蒸留水は非人間的な水だからである。
不自然な水なのである。
人間だったらからだにやさしい自然な水を飲みたいと思うのが当然である。
そういうからだのためになる飲み物が正道というものなのである。
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# by munojiya | 2005-12-06 22:54 | Trackback | Comments(0)
励ましてはくれないが、慰めてはくれる
ラジオを聞いていたら
「ワンカップ大関」の話がでてきて
最近のカップ酒ブームを取り上げていた。
そのときのキャッチフレーズがこのタイトルである。

一杯のワンカップは
味もそっけもないお酒の呑み方だが、
いちおうガラスのコップに入っているから
最低限の味わいは保証されているのである。

紙コップや
ふにゃふにゃのプラスチックのコップでは
お酒の形がわからないのである。
アイスクリームをとかして飲んでいるようなものである。

あれっ、アイスクリームは食べ物だったっけ。
ワンカップはしっかりとガラスのコップである。
しかし一人で呑むにはさびしいのである。
励ましてはくれないのである。

かえってわびしくなってくるではないか。
呑んでるお酒の中身がワンカップなのである。
しかし、慰めてはくれる。
酔いがやがてその悲しさを忘れさせてくれるからである。

なるほどうまいフレーズを考えつく人がいるものだと感心する。
世の中はいろいろな人がいるから面白いということなのである。
庵主はお酒を呑むが造りはしない。
お酒を楽しめるのもお酒を造ってくれる人があってのことなのである。

こうしてブログという仕組みにせき立てられるように
毎日お酒のことを書いていられるのも
そのシステムをただで貸してくれる人がいるからなのである。
それがなかったら堅気の生活でバカみたいに毎日文書を書くことはないだろう。

そのまえに
ワープロがなければ面倒くさくて
自分の思いを文章にする気さえ起こらないだろう。
そのワープロもだれかが作ってくれたものなのである。

このブログでお酒と庵主がつながっているというのも
すべて人さまのおかげなのである。
じゃ、おかげばかりをこうむっている庵主の存在価値はどこにあるのか。
いま、これを読んでいらっしゃるあなたの中にあるのである。

世の中はもちつもたれつなのである。
関係ないようでつながっているのである。
いまこの文章を打っているパソコンもだれかが作ったものである。
そしてその電源もまた知らない人が作ってくれたものなのである。

ぜんぜん役に立っていないように見えるものが
案外思わぬところで役立っていることがあるかもしれない。
酒を買って呑めば造り酒屋なり居酒屋の役に立っていると考えれば
すくなくとも酒呑みはだれかの役にたっているというわけである。

さて、ワンカップに戻って、
ワンカップというのは大関の登録商標だという。
宅急便はヤマト運輸の登録商標だから他社は宅配便というように
大関以外のそれはカップ酒と呼ぶのが正しいのだろうがやっぱりワンカップである。

セロテープとかホッチキスの普通名詞を知らないのと同じである。
いま、そのワンカップ、いや、カップ酒が小ブームとなっている。
いくつもの蔵がカップ酒にうまい酒を入れて売り出すようになったからである。
慰めてくれる上にちょっとうまいお酒が味わえるようになったからである。
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# by munojiya | 2005-12-05 23:55 | Trackback | Comments(1)
「週刊ポスト」がんばれ
オヤジギャクというのがある。
駄洒落かこじつけである。
大関ばかりが酒じゃない
白鶴、白鹿、みなお酒

だけど一番気になるのは
来ないあなたの「うすな酒」、
といった感じである。
二番の歌詞ではそれがサントリーばかりがビールじゃないで「口ビール」になる。

「週刊ポスト」の代用ビールの増税に反対するという
庶民に味方してお上に楯突く記事の底意には笑ったものである。
その庶民という言葉が
実は貧乏人と同義語ではないかということなのである。

読者に対して
あんたらはビンボー人だよとバカにしているからである。
安いことは安いがまずいだけの代用ビールを飲まなくてもいいように、
給料が上がるような政策を政府はもっとまじめになって実施せよというなら同感である。

いまどき自分のことを庶民だなどと思っている健気(けなげ)な人がいるのだろうか。
ある人は勝ち組だとほくそえみ、
ある人はそれでも中流階級だと自認し、
ある人はなんとか中流サラリーマンだから貧乏ではないといい聞かせているのである。

「週刊ポスト」を買って読める読者だから本当に貧乏な人はいないだろう。
「第3のビール」が貧乏の代名詞だとしたら
ビンボーの代名詞が「庶民」なのである。
英語ではプアーという。

では金持ちはなんというかというとリッチである。
しかし庵主はリッチもまたビンボー人だというのである。
これからがオヤジギャクなのでよろしく。
リッチというのはお金は持っていても精神的なビンボー人を揶揄する言葉である。

経済的なビンボー人はそのままプアーである。
では本当のお金持ちはなんというか。
ジェントルマンである。
精神的にも経済的にも豊かな人が本当のお金持ちなのである。

なかなかその両方を手に入れるのはむずかしい。
とくに経済的という部分がうまくいかないのである。
だからせめて前者をみたして自己肯定をしたいのである。
いいお酒を呑むということは庵主にとってはそのための第一歩だったのである。

高級車を手に入れるのには金がかかるが
酒は量を呑まないとうまくないという依存症患者は別として
いいお酒は高いとはいってもそんなにお金がかからないのである。
ありがたいことに、少量でも深い味わいが楽しめるのがいいお酒なのである。

いいお酒を呑んで自分は精神的には豊かな人間だと思ってなぐさめるのである。
現実を見ないで一人甘美な夢にひたるそういう心理状態を酔っているというのだろうが。
いいお酒を呑むことの幸せがそこにある。
その幸せを食い物にするのが大蔵省官僚だというのがポストの弾劾記事である。

酒だから、飲み物にするといったほうがいいかもしれない。
酒が大蔵官僚の利権となっているのは許せないというのである。
公僕のくせに自分たちだけがうまい酒を呑むのは許せないという庶民感情である。
庶民はまちがっても官僚にはなれないから安心してそれを糾弾できるのである。

記事によると、酒造組合には日本酒、ビール、ワイン等と酒別に組合があるという。
製造者組合なら一つでいいのに細かくわけているのは天下り先対策だからだという。
唯一ビール酒造組合だけが天下りを受け入れていないから意地悪されるのだという。
ボストはいいところを突いている。来週号も買っちゃおうかな。
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# by munojiya | 2005-12-04 22:37 | Trackback | Comments(0)