しかも、この映画は中毒性があって、2度観た、3回観たという人が少なくないのである。
それが、日本人だけの事でなく、外国人もそうなのである。庵主も2度観ている。
「マイナスカラー」を観に行こうと思っていたら、上映が終わっていたのは残念だった。
『3回観ましたが3回とも泣けました。
てか、あの子役の演技がもうダメ(良い意味で)eyes-purple-crying、完全
に泣かせにくる。
更にラストシーンの典子のセリフで涙腺にとどめ刺されました。』(同米)。
庵主も、初見の時にはその最後のセリフで感情がゆすぶられたのである。
海老沢泰久に「監督」という小説がある。その小説も、最後の1行で、たった一つのセリフで
感情がゆすぶられたものである。この「ゴジラ-1.0」もそれだった。
最後の1行で泣かせる小説とか映画が、庵主は好きだ。
「ゴジラ-1.0」の凄い所。老いも、若きも、男も、女も涙に誘う国民的映画であること。
ハリウッドの没落を示す事にならなければいいが。覇権が日本に移ってきたら困るからである。
面倒くさいから。とにかく「ゴジラ-1.0」は恰好の酒の肴であることは間違いない。
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見巧者は映画をこう観ている。庵主はボーっと観ているけれど。
『2:53 「脱出装置があることが読めた」って言ってる奴いるけど、たぶん見抜かれること は織り込み済みなんだよ。本当に仕掛けたミスリードは、敷島は「〇ぬつもりで戦場に行って
ない」という点で、そして橘は敷島のことを「とっくに許していた」ってこと。
出撃前までは敷島は〇ぬつもりだったと思う。でも橘が「生きろ」って伝えたから、「許された」
から敷島はちゃんと戦ったんだと思う。
想像だけど、橘って戦争が終わってから自分が特攻の片棒を担いでいたことをすごく後悔したん
だと思う。敷島のように苦しんだんだと思う。
橘って本心を全然しゃべらないからぱっと見わからないけど、戦争のときと震電を整備している
ときの橘って心の中が全然変わっていたんだと思う。
もし昔と一緒なら、敷島を許してないなら、敷島のために脱出装置を完成させていなかったはず
やん。
自分だって罪人だ。自分には敷島を責める権利なんてないって、戦後に思い直したんだと思う。
橘は「特攻のための整備」じゃなく、「生き残らせるための整備」をしてたんだよ。
この映画は安直な「お前、生き残ってたんなら早く言えよ~」的なタナボタものじゃないんだ。
ハードボイルドなんだよ。[続きは引用元で]』(典拠米)。