10-02-03 それは逆 悟りとは悟らないことらしい
『余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つていたのは間違いで、
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた』(「病牀六尺」正岡子規)
世の中にはそういう勘違いをしている人もいるのである。悟りのために生きるという人が。
仏様の地位を乗っ取ろうという人が。悟ることは仏様に任せておけばいいものなのだから。
その生き方は方向が逆なのである。やっていることが逆である。本末転倒である。
生きることが本質なのに、死ぬことを求めたのでは何のために生きているのかわからない。
今、生きているということになぜ気がつかないのか、ということである。
黙っていてもそのうち死ぬのだから、そんなことは心配しないで今を生きればいいのである。
そういう人達は死ぬことを待ち焦がれているようである。そういうのを陰気臭いという。
要するに死にたい人なのである。正常な人とは生きたい人のことをいう。
「お前はすでに死んでいる」という漫画の名科白があるが、それである。つまり漫画である。
それも一つの生き方だろうから、別に否定はしないが、庵主の心引かれるものではない。
生きているということはどういうことか。頭がいい、顔がいいではないのである。
うまいと感じることである。それが学問でもゴルフでもいいが、お酒においてもまたいいのである。
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共感というのは、そのうまいという感情を共有できるということである。