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2010-08-29 日曜日のくつろぎ篇 達観している人

『いつも、いつも、人の文章を読んでいるだけの人間、というのは、つまらない人間だ。
人生そのものが傍観者だ。私は、そういう人間たちに対して冷ややかです。
人生を何かに賭けて本気で生きていない人たちだ。「すぐに決めつけるな」と反論なんか
するようだと、ますます、自分が駄目な人間だと気付かない人間だ。』出典(その17番)

わが副島隆彦〈そえじま・たかひこ〉先生の言葉である。
これと同じような言葉を「読んだ」ことがある。つまりこの言葉の元ネタである。
「原罪」を売り物にする宗教である。神を試してはいけないとだめ押しするのである。
反論は許さない。類書なんか買わずに私の本を買えというのである。商売熱心なのである。

まず無知な人を脅〈おど〉しておいて、私の言葉を信じれば救われると勧誘する商法である。
副島先生は文筆業者である。学者は本を書いてそれを売らないと食っていけない。
つまり「人の文章を読む」奇特な人がいるから生きていける商売だということである。
本を読む人間はつまらない人間だというのである。つまらない本を読む人のことをである。

副島先生は、つまらない人間相手に本を書いているのである。寺山修司は言った。書を捨てよ。
その構図を心に描くと、冷やかな人生を送っているのだなと思ってしまう。達観というべきか。
ただし、他人の書いたそんな本なんか読んでもつまらないよという助言は有益である。
では無駄な読書をせずに浮いた時間はどうすればいいのか。お酒呑んで過ごせばいいのである。

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『私は、自分が読めない漢字は、本当に不愉快になります。ひらがなか、かたかなで、
ルビを( )に入れて振りなさい。[中略]姜浩 と書いて、「キョウコウ」と読むのか、
「かんひろし」と読むのか、分からない。分からないものは分からない。』(同上。以下同)
副島もフクシマなのかソエジマなのか読めないがだれも困らない。副島で分かるからである。

『頭の良さ、悪さも、だいたい、それらの教養として、今でも、周囲から測定される。
私、副島隆彦は、知識人であり、教養人であるから、それらの勉強を、小さい時からずっと
自分でやってきた。今でも、いつでも辞書を引く。清朝(しんちょう、大清帝国)で成立した
「康煕(こうき)辞典」と、諸橋徹二(もろはしてつじ)の漢字辞典を引くようにしている。』

意味は判るがその漢字が読めないことより、諸橋轍次を諸橋徹二と誤記する方が困ると
庵主は思うが、「読み」には厳しい先生も「書き」には頓着しないのである。
傍観者をやっているとそういう誤植がよく目につくのである。のめりこんだら気がつかない。
副島先生の頭の中では、徹二と書いていてもちゃんと正しく轍次になっているからである。

そこで「むの字屋@校正係」を発揮するべきか否か庵主はためらうのである。
書き手はちゃんと轍次と認識しているのに手が勝手に徹二と書いたものだからである。
敬虔な読者は無謬の先生が書かれたものだから諸橋徹二と覚えてしまうかもしれない。
誤植の指摘は書き手にとっては余計なお世話だろうが読者に対しては小さな親切なのである。

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『経営者たちは皆我が強くて強運の持ち主ばかりです。ビジネスの感は鋭いが
政治にはまるで無知です。政治だけでなく経済の知識もあやふやで,世界情勢
についても何も見えていません。』引用元
「感」は「勘」だろう。「感」では意味がとれないのである。誤記の方が困る事例である。

意味がとれないというのは、読んでいてそこで引っかかってしまうということである。
文章を読むときは一字一字追いかけて読んでいるのではなく、漢字を直感的に捉えて読んで
いるから、その部分であれっおかしいと感じてつまずいてしまうのである。
よく読めば「感」は「勘」であることが分かるから意味は通じるのではあるが。

by munojiya | 2010-08-29 02:01 | 日曜日のくつろぎ篇 | Trackback | Comments(0)

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