アル添酒こそ日本酒のうまさだという説
観念的にということは、要するに呑まず嫌いなのである。アル添酒はダメだと思い込んでしまい、自分の舌でお酒のよしあしが判断できなくなっている精神状態といっていい。
それはだれにでもあることで、高いお酒の瓶に、安いお酒が入っていても、この酒はいい酒だと思い込んでしまうと、たいしてよくないお酒でもうまく感じるのと同じことである。そういうお酒は頭で呑んでいるのである。観念的な美酒なのである。
アル添拒絶症の原因は、戦後造られた三増酒である。これがひどかったのである。 当時は、不足する原料米で、増加する需要を満たすための、そして酒税を確保するための非常手段だったのである。
とにかく酒が呑みたい。うまい酒でなくても酔えればいいという、背に腹はかえられないという時代だったからである。
しかし、その後、米が十分にとれるようになってからもその体制は元にもどらなかった。代用酒でも、一度、徴税のために国が容認するという体制ができあがると、それが簡単にはやめられなくなるからである。
いったん三増酒を造る体制ができあがってしまうと、こんどはそれを維持することが目的化して、それが不要になっても簡単に元には戻せなくなるのである。
昔の酒はうまかったのに、酒がまずくなったのはアル添を始めたからだと思い込んでしまったのである。
そしてアル添は長い間にわたって酒の増量に使われてきたものだから、アル添はまずいものという観念が染みついてしまったのである。
本当にアル添酒がまずいのか自分の舌で確かめよといっても、純米酒が売っていないのだから、アル添酒と純米酒のどちらがうまいか確かめようがなかったというわけである。
酒がまずいのはアル添のせいだ、昔ながらの酒(後日純米酒と呼ばれるようになった造りの酒)ならきっとうまいに違いないというのが、アル添酒拒否症の思い込みなのである。
増量に使われるアルコールとは別に、やがて吟醸酒という造りでアルコールが使われるようになった。両者はアルコールを使う目的が異なっているのである。
前者はアルコールの後ろ向きな使い方、後者はそれを前向きに使っているということである。
しかし、主流はもちろん三増酒や普通酒といったたっぷりアルコールをまぜた酒である。
吟醸酒は、量は少ないながらも少しずつ売上が伸びてきた。
それにあわせて、アルコールを、増量のためではなく、吟醸酒のために使う造りもだんだん慣れてくるようになったのである。
純米酒が本来の日本酒だといっても、長らくアル添酒を造ってきたものだから、うまい純米酒が簡単に造れなかったということである。
中途半端な味の、はっきりいってまずい純米酒よりも、香りもよくて酒質もかろやかで呑みやすい吟醸酒がこれからの日本酒の方向だとしたのも間違いではない。アル添技術を生かしながら転換できる酒質だったからである。
それを純米酒に切り換えるとなると、造りの技術がすぐにはついていけないという現実もあったことだろう。
加えて、そこそこのお酒を造っておけば酒が売れたという状況もあったからである。
純米酒がうまいというのは、それは三増酒のような極端なアルコールの量を添加した酒に比べてということだろう。
庵主は、純米酒とアル添酒(吟醸酒のこと)の区別がつかない。
そしてアル添酒よりまずい純米酒をいくらでも呑んだことがある。
酒は時代とともにだんだん呑みやすくなってきている。そしてうまくなってきている。
アル添もその使い方であって、無理に純米酒を造ってもそれがうまくないのなら、手慣れたアル添で明らかに純米酒よりうまい酒を造ったほうがいいという考え方にも頷けるのである。
要は、純米酒でもアル添酒でもいいから、呑んだときにうまければいいということなのである。
アル添で安くてうまいお酒ができるならその道を選ぶというのは合理的な考え方である。それが日本酒の新しいうまさなのだという主張も、お酒がうまい限り正しいのである。