人気ブログランキング | 話題のタグを見る

2011-12-17 愛を売る人達

宗教家が愛を売るのが如何わしいのである。愛というのは排他的独善のことである。
愛は結果であって、原因ではないからである。対象がないことには愛せないのだから。
愛が先にあるのではなくて、結果を愛というからである。独占欲の成就である。
先に愛があるなら、数多くの恋愛小説や映画や恋占いなどは売れなくなってしまう。

愛が先にあって心が満たされていたらそれらの商品の需要はないということである。
天涯孤独の孤児院の子供がいるとする。愛から見放された人と言っていいだろう。
僕に愛をくださいと言ったときに、その愛をくれるのが神様なのである。教祖でもいいか。
しかし、神様といえば、一番愛されたくない人だろう。普遍の愛を説くから有難みがない。

そういう無差別に愛をばらまく人には関わり合いにならないことを幸せという。
神様にすがっている人は客観的には不幸な人なのである。神は内にあるからである。
しなくてもいい心配をしている人だからである。「愛」は西洋宗教の商品名なのである。
それでも、すがるものがなくて流されるよりは増しなのだろうが。愛と穢は同義である。

そういう依存心のことを陰気という。陰気は避けるのにしくはない。体調を悪くする。
庵主がアル高と呼んでいるアルコール依存症はその依存状態を陰気と呼ぶのである。
気持が内にこもってしまう状態である。外部に気を発しないからそばにいると気が滅入る。
お酒の酔いは内にこもっている気を発散するのである。だから陽気に見えるのである。

-----

排他的独善とは、自分は美しいという誤解もしくは錯覚のこと。鏡を見ろ、である。
愛とは、淫靡の表面〈おもてめん〉の呼び方である。裏面〈うらめん〉を穢と呼ぶのである。
共に核心の義〈いみ〉は「アイ」で、それは同じものであるということである。義は音にある。
それを美しいと見れば愛、どろどろした思いのことだと見れば穢である。同じ事である。

by munojiya | 2011-12-17 00:38 | 世話物 | Trackback | Comments(0)

うまいお酒があります その楽しみを語ります


by munojiya