2012-12-26 あ・こ・が・れ
お酒の味わいを、わざわざ「う・ま・い」と書くような手法である。
目を引くためである。おやっ、なんだろうと思うからそこに目が行くというわけである。
小説の題名にも「ツ・イ・ラ・ク」というのがあった。(脚注)
で、「あ・こ・が・れ」である。出会いがあったらうれしいと思う人や物事のことである。
それは、「あ・こ・が・れ」るものであって、関わるものではないということである。
欲しいと思っても、本当はなくてもいいものだというものが「あ・こ・が・れ」である。
絵がそれである。庵主が欲しいと思う絵は高くて買えないのである。
庵主が買えるような絵は買うまでもない絵がほとんである。
よって、絵は買って楽しむものではないのである。ただ見て愛でるものなのである。
同様に、好きな女とはやりたくないのである。だって、恥ずかしいじゃないか。
やってもいいような女は抱くまでもないのである。すぐ飽きるのがわかっているから。
よって、女はなくてもすむものなのである。遠くから眺めて楽しむのが一番のようである。
気合が充実して熱中することがある時には、女なんかどうでもいいのである。
逆に、気合が消沈してるときはそんな姿を女に見られたくないのである。
よって、女はいてもいなくてもどうでもいい。悲劇とは男が女と絡んだ葛藤をいうのだろう。
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一般的に、うまいお酒は手に入らないのである。「十四代」を呑んだことがない人がいる。
手に入るお酒は呑まなくてもいいお酒である。「久保田」「八海山」は呑むとしても後回し。
が、庵主に関してはそれとは逆で、なぜかうまいお酒との出会いに恵まれているのである。
だから、うまいお酒は「あ・こ・が・れ」ではなく、日常〈あたりまえ〉なのである。
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(脚注)よく見たら、「ツ・イ・ラ・ク」ではなく、「ツ、イ、ラ、ク」だった。