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2015-09-01 認知症への道(序-つかみ)

「認知症」と通称している病気がある。いや、病状というべきか。
しかし、認知症という病名は誰がつけたものか、そいつの顔を見てみたいものである。
佐野研二郎という、日本人の顔に泥を塗りたくった男がいる。
そいつの顔はどんな顔をしているかのと見てみたら、こんな顔だった。

研二郎には兄がいて、その顔も見ることができる。
実は、研二郎には医者をやっているという父がいるという。
その顔も見てみたいが、ネットでは容易に見つからないのである。見るまでもないのだが。
研二郎を擁護する人達の顔も、みんなに同じような顔をしていたりして。

認知症という名前をごり押しするヤツラには、判員員制度を決めた奴ら以上の悪辣な知性を
感じるのである。看護婦を看護死(表記は師だったか)と呼び変える業界だから、その業界も
例にもれず見た目はよくなっているが、どんどん劣化しているようである。
「認知症」という症名には、アル添酒を「本醸造」と呼ぶ知恵者にも似た悪意を感じる。

つまり、本質を誤魔化す言葉遣いなのである。
「安全」と書いてあるボタンを押したら地獄に落ちるような仕組と同じである。タチが悪い。
家族に認知症の患者がいると悲惨だという。アル高患者を抱える家族と違って、認知症は治る
見込みがないのに引導を渡せないから困るのだという。この話は「破」に続く。

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南米のなんとかという国では、エレベータの「閉」ボタンを押すと、却って扉が締まる時間が
遅くなるという話を読んだことがある。
人が書いたもので、庵主はそれを確認したわけではないから本当かどうかは判らないが、
そういうボタンならユーモア(嫌味)ということになるが、「認知症」ボタンはいけない。

「認知症」は、「認知まだら症」とか、「認知障害」というのが正しいのではないか。
以前は、素直に「ボケ」と呼んでいたのだが、それでは商売にならないという医療業界が
それをいっぱしの病気にしてしまったのである。薬が出せるようになるからである。
それが自然の摂理ではなく、病気だという事にすれば患者も安心するという気配りなのかも。

by munojiya | 2015-09-01 00:03 | Trackback | Comments(0)

うまいお酒があります その楽しみを語ります


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