2016-09-13 「ダサい」の最上級表現
形容詞には、原級・比較級・最上級とあって、その程度がどんどん激しくなるというのである。
たとえば、グッドなら、比較級はベターで、最上級はザ・ベストという。
お酒でいえば、うまい、なるほどうまい、うなるほどうまい、といったところか。
魯鈍・痴愚・白痴、というのは、程度の違いではなく、種類の違いだったか。
A級戦犯、B級戦犯・C級戦犯はそれである。C級からA級に向かってより罪状が重くなると
いう意味ではなく、その犯罪行為の種類の違いをいうように。それは精神薄弱の程度だった。
「ダサい」という言葉がある。その言葉からしてダサいのである。賢い人は使わない言葉だ。
その「ダサい」の最上級はこうだという。
「ダサい」には比較級はなくて、いっきに最上級になるのである。
そして、さらにその上をいくダサい状態があるというのだ。究極のダサいである。
『だっさい 超だっさい 韓国みたい』(典拠7:20)なのだという。
それほど美意識が異なる二文化が共生できるか。できるわけがないのである。
日本人は、排便後、肛門まで洗い清める文化である。その儀式をウォシュレットという。
チヨウセン人はウンコを食べることに躊躇いがない文化なのだ。トンパンというのである。
日本人が、そんな「きったない」文化と共生できる訳がないのである。
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舛添要一前都知事が決めた、東京都の観光案内人のユニフォーが「韓国みたい」だという。
日本人に言わせると『衣装が気持ち悪過ぎてフイタ』(典拠7:30)というのである。
『色といいデザインといい、こんなにみっともない服見たことが無いわ。』(同前7:34)、
『日本人の感性じゃない、ダサすぎ』(同前7:40)とチヨウセン人感覚は嫌悪されている。
色遣いが下品ということなのである。
南鮮には布を色に染める技術が無かったというのである。正しくは染料がなかったのか。
庶民が着るものは、殆どが白布だったという。白布といっても白〈しろ〉ではないのだ。
色が着いていない白〈はく〉の、無色の布という意味である。
韓国映画に「あなた、その川を渡らないで」という第ヒットした映画があるという。
日本映画でいえば「シン・ゴジラ」とか「君の名は。」のような韓国の国民映画だというのだ。
その老夫婦の着ている色が、庵主には違和感を感じるのである。見ていて恥ずかしくなる。
そして素材はきらきら光るポリエステルという美意識にはついていけない。目が疲れるのだ。
発色は綺麗なのだが、いかにも安っぽく見えてしまうのが哀しい。
哀しいと言うのは相手のそういう色感覚に対してではない。
庵主が、他人の好むものをそういう風に受け取ってしまうという自分の美意識に対してである。
美意識というのは差別の根源だ、と庵主がいつも言っている謂いである。
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差別とは他人を見下す事でない。
その傍に寄りたくないことをいうのである。
関わり合いになりたくないことをいうのだ。
最近は、「チョウセン人は半島に帰れ」というデモがあるという。
正直な日本人が増えてきたのである。
「半島という自宅があるのだから、なにもわざわざ日本に居候することもないだろう。しかも
日本の悪口を声高に叫ぶのなら、迷惑だから自宅に帰ってほしい」というものである。
それに対して居候は「差別だ」と叫ぶのである。その通りである。日本人は差別しているのだ。
それが判っているなら、すみやかに手元の荷物を畳んで自宅に帰ればよさそうなものだが、
それでもなお日本にしがみついているのである。
日本の生活に馴染んで暮らして人もいるが、少なからずは、そして、少ないのに悪辣な部分が
日本でやっていることがヒドイのである。迷惑という言葉の度を越えているのである。
パチンコ賭博で、高利貸しである、ヤクザである、街宣右翼である、エロビデオ屋である。
しかも、わざと日本に帰化して、「私は南鮮のために働きます」という国会議員までいるのだ。
南鮮では、子供の時分から反日教育を行なっているのである。
気違いに刃物というが、南鮮人に反日教育はまさにそれなのである。隣国を侮るべからず。
