「歌唱力の無駄遣い」というのは庵主が思いついた言葉である。
つまらない歌詞の歌を、絶対的な歌唱力で謳う奇異の可笑しさのことである。
その伝で、この精密感は笑える精密加工なのである。
笑えるからといって馬鹿にしているのではない。
感心しているのである。
日本には、ここまでやる馬鹿がいるのだと。
この馬鹿も軽蔑しているのではない。
いな、かえって尊崇の念で笑っているのである。
こういう人達が日本人をやっているのだという人に乗った優越感にひたれるからである。
日本人である庵主は何にもしていないのにそういう人達の活躍で日本人としての自覚を新たに
しているのである。ただ、旨いお酒を呑んでいるだけなのだが。
モデルガンを作っている日本人もいる。弾が撃てると犯罪になる拳銃を作っているのである。
いうなれば、酔わないお酒を作ることに専念しているようなもので、モデルガンならともかく、
「ソフトのないパソコンはただの箱」というが、酔えない酒だったらただの水でしかないのだ。
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「ソフトのないパソコンはただの箱」というのは昔のいいならしで、当節なら、「ソフト」を
「アプリ」といった方がとおりがいいのかもしれない。
思えば、「ソフト」が「アプリ」になったときから、庵主は新しい携帯文化から距離を置いて
しまったのである。半径5メートルの生活に通信機器はいらないからである。
「夢」は実現した時から「夢」でなくなるのである。つまらなくなる。
一番のその例は「結婚」だろう。その夢が実現したときから、みんな後悔するのである。
庵主がCG映画はつまらないというのは、見た目に比してそのわくわく感が小さいからである。
庵主が、写真がフィルムからデジタル画像に変わって写真をやめたのもそれと同じ理由である。