『これはクソ味噌一緒の妄想をしている原人にとっては同じです。泥水もキレイな水もないの
です。水という概念もありません。同じものなのです。だから「世界一不清潔な民族だ」と
「原人」とはチョウセン人の事をいっているのである。
日本人は雲古を汚いと認識しているのである。しかし、チョウセン人はそれを異常に愛する文化
なのだある。それを
食っちゃうのである。異常というのは日本人から見てということである。
『従って、美意識もありません。「これは美しいもの、これは美しくないもの」ということが
わからないのです。混然一体となっているので、韓国人のみっともない服装を見てください。
韓国時代劇では、刀を後ろ向きに差して、先のとがった靴をはいて、まあ美的センスが全く
ありません。カッコ悪いのです。反対に日本の武将は世界中の人が「カッコイイ」と言います。
ボストン博物館で鎧兜を見ると外人は熱狂します。韓国人はカッコイイものが何もありません。』
(同)。しかし、南鮮時代劇の
衣装の美しさはどう説明するのか。それはただ綺麗というのか。
ちゃんと美しいものがわかっているのではないのではないか。別の
観点から。庵主も同感。
伝統的にはなかった美意識が今やっと芽生え始めたと言うこともできるのではないのかな。
日本。
醸造アルコールをまぜたお酒とか、人甘を使った酒はなぜダサいのか。日本人は整形を嫌うから。
それは美意識に悖るということなのだろう。美しいお酒を呑みたいという希求によるのである。
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オチはこれである。
それは言っちゃいけないことになっているのであるが。
『着る人によって美しいかどうかは変わる。』(参考写真)。 『日本の和服って美しいよね![“着る人によって”である]
日本人の心も、和服同様美しければいいのにね!』(同前14)。チャイナ人の心もそうだとね。
『お前らいつも「中国の伝統文化ガー」って言うけど、
ならお前らが漢服を着て、長髪にして、
古語を話し、繁体字を書けよ。』(同前18)。チャイナ人もユーモアはあるのである。