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2018-06-04 人は髪を見る、庵主は耳を観る

人は、髪を見るのである。
女を見る場合は、髪が長いか短いで見るのである。
例えば、最近短くしたという人はこの人である
明るい話題である。

もっとも、美人は何をしても許されるのである。
髪が長くても、短くても、眼鏡を掛けても、しなくても綺麗だからである。
男の場合は、髪が豊かか、薄いかで見られるのである。
例えば、いしだ壱也だという、中居正広だという、草彅剛だという、小栗旬だという。

陰湿な話題になるのである。その話題も代替わりで、今は加山、神田、小倉から若返っている。
さて、世間は髪を観るが、庵主は、髪ではなく、その耳相を観るのである。
リンクした記事にあった写真は市原隼人だという。
拡大写真で耳相を観るに、確かに“業界人”の耳の形をしているのが見て取れるのである。

ネットでまことしやかに流れているあの都市伝説は本当なのかと思えてくるのである。
庵主の耳相見〈じそうみ〉は、世間の血液型性格判断と同じで、余興の域を出ないのであるが、
血液型性格判断同様、結構当たっているように思えるから面白いのである。
神を試してはいけないという。人も、である。お酒も、美味い不味いを言ってはいけないのかも。

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「まことしやか」は「実しやか」と書くのかと思ったが「真しやか」だった。
「神を試してはいけない」というのはキリスト教が考えた最上の営業トークだろう。
工業製品で言えば、その品質を疑ってはいけないというようなものだからである。
すなわち、当該製品の品質が悪くても、文句を言わずに買えという強気の商売なのである。

庵主は幸いなことに、お酒は量が呑めないように、宗教も理解する能力がなくて、関わり合いに
なる事はないのだが、宗教は教祖の性能を確かめられたら商売があがったりになるからである。
偽薬でも薬効がある場合があるというから、宗教もそういう効能はあるのだろう。
キリスト教も良心が疼いたのか、「信じる人は救われる」とネタばらしをやっているのである。

「神を試してはいけない」というのは、案外「髪を試してはいけない」の駄洒落かもしれない。
「聖書」を日本語に訳した人も、髪の毛の量には自信がない人だったのかもしれない。
教祖である神様に「あんたの神威は本物かい」と訊くのは失礼だからそんな事をするな、という
意味なのだと理解しておこう。ただし、義髪の場合はよく試さないとこういう事が起こる場合も。

義髪〈かみ〉を信じたのが甘かったというわけである。以来義髪は放送事故とも呼ばれている。
どの宗教もそうだが、「神=教祖」を語るのは、それで商売をしようという回りの人達なのだ。
釈迦は経文を書かない。聖書もキリストが書いたわけではない。論語は孔子の弟子によるのだ
宗教家は人の褌で相撲をとっているようなものだ。義髪も他人の毛髪だから宗教みたいなものか。

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回文というのがある。
上から読んでも、下から読んでも同じ言葉のことである。
一昔前なら、「男子が死んだ」がその代表的な例として使われていた。
おっとっと、このワープロの辞書は立川談志を知らないのだ。「談志が死んだ」が正しい。

で、談志が本当に死んでしまったので、それはもう洒落にならなくなったのである。
それに代わって今はこれだという。
上から読んでも
下から読んでも

カツラが落下
かつらがらっか』(典拠米)。
その時の、TVの「ナレーション〈ゆうもあ〉」もすごい。
小倉「今は一体何が起きているのでしょうか?」

視聴者「お前の[以下は内容上伏字に]〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇」』(同前米)。
これ、合成ですよ! 東スポが「小倉智昭のカツラが落ちる悪質な合成動画出回る」って新聞
で大きく取り上げてましたよ』(同前米)。
「東スポ」ということなので、このコメントもギャグかも。

by munojiya | 2018-06-04 00:04 | 世話物 | Trackback | Comments(0)

うまいお酒があります その楽しみを語ります


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