2018-06-09 【手品】手品は種よりも演出である
手品は種よりもその演出である、という実例である。種自体は考えるまでなく単純なものだが、
それが見せ方によって、なぜか不思議に見えるようになるという事である。
「演出」という言葉はヤラセという意味でとらえられているが、それは違うのである。
演出とは、その人のいいところを引っ張り出すことなのだという。

その目的は、その人を魅力的に見せるということなのである。
なんの面白みもない種であっても、それを魅力的に見せることが演出である。
たとえば、こういう見せ方をすると、つまらない種でも手品に見えるというのである。
庵主は、やたらと凝った技法を多用して演じられる現代カードマジックは苦手である。

それよりもこういう種がすぐ分かるトランプ手品の方が好きである。
種なんかどうでもいいのである。手品師が醸しだす雰囲気を楽しみたいからである。
だいたい種の見当もつかないような手品を見せられたら心の負担になるのである。
地下鉄の電車はどうやって地下に埋めるのかという疑問と同じように、心配で夜も眠れなくなる。

子供の頃に見て感動した手品は凝った手品ではなく、ごく単純な不思議だったからである。
複雑な手順の「知的」な手品は見せてもらっても疲れるだけだからである。
見たいのは不思議だという楽しさであって、凝ったテクニックに感心することではないのだ。
高級酒でなくても安くてうまい酒で十分という人の気持も分かる。それと同じだからである。

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本文で引用した実例は、その手品の種よりも、カットしてデックの真ん中にいれた筈のカードが
トップから出てくるというテクニックの方がすごいのである。
何回見ても、絶対に、本当にカットしているように見えるのである。
そのやり方を教えてもらっても、実際に見せられると、本当にカットしているように見えるのだ。

種を知っていても、その種が見えないというテクニックである。
よくできているテクニックなのである。
相手が選んだカードを、何度カットしても、いつもトップから出現させることができるのだ。
これを使うと、ダブルリフトができなくてもアンビシャスカードの現象が演じられるのだ。

とはいえ、このカットをそのままやってアンビシャスカードを演じても手品じゃないのである。
それはただのテクニックの披露でしかない。手品にはならないのである。
アンビシャスカードを手品として見せるためには、よくTVで見るような、あのような演出が
必要なのである。ただトップに上がってくるというだけではそれどうやるので終わってしまう。

デックの中程に入れたカードがトップに上がってくるという現象を、いくつかの違う方法で何度
も再現することによって、不思議さが増していくという手品になるのである。
折り曲げクセをつけたカードを中ほどに入れて、それが指を鳴らすと一瞬でトップに上がって
くるという演出を考えた人は天才じゃないかと思うほどである。その面白さが手品なのである。

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by munojiya | 2018-06-09 00:02 | 余外篇 | Trackback | Comments(0)
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