2018-06-12 それは逆「認知症」
このワープロは「にんちしょう」を漢字に変換できない事が今分かった。
「認知小」と変換されたからである。
庵主は、依存症をいうときの「アル中」を、急性アルコール中毒をいう「アル中」と明確に区別
するために「アル高」と書いている。

その伝で、「にんちしょう」も「認知小」「認知中」「認知高」「認知大」と進むという駄洒落
なのかもしれない。
あるいは、今使っているワープロの字書は「Japanist2003」だが、その時点では
「認知症」(にんち・しょう、で変換)という言葉がまだなかったということなのか。

「認知症」(いま熟語登録して、やっと一発変換)という言葉のデビュー年を確かめてみた。
2004年以降だということである。定着したのは2007年ごろだという。
我が字書がボケて「認知症」を変換できなかったわけではないようである。
こういうなったら認知症だと自覚した方がいいという。いや自覚できるうちは認知症でないのか。

「認知症」という言葉は日本人のユーモアなのだろう。「痴呆」では露骨過ぎるからであるが。
それは認知できなくなる症状をいうから、言葉とそれが意味する事が反対なのである。
「馬鹿」な人を「おりこうさんね」と言って揶揄するのと同じである。悲劇の美称化である。
「本醸造酒」という言葉もそれで、それは本物の醸造酒ではない。偽醸造酒、詐欺酒なのだ。

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認知症は、長生きすれば誰にでも起こり得ることです。だから、ありのままを受け入れるしか、
仕方がありません。まずは、自分でできる範囲のことをやる。その上で、少しでも人の役に立つ
ようなことができたら、それ以上嬉しいことはない。そんなふうに考えながら、日々を送って
います。』(典拠)。

「少しでも人の役にたようなこと」というのは、この場合は、認知症になるまで長生きをしない
ということなのであるが、なかなか、自分の死期をみきわめられないのが人間なのだろう。
像は死期を悟ったら、みずから死に場に向かうと聞いたことがあるが、認知症になったら、
自分が生きているのか、そうでないのかも判らなくなるのだろう。

アル高と認知症の患者は、当人はなにも困らないのである。回りの人が迷惑するだけである。
日本の人口はこれからどんどん減っていくという。
誰が推計したのか知らないが、2050年には日本人はいなくなるというのだったか。
日本に移民流入を増やそうという連中の策略なのだろう。いつものタチが悪い嘘かもしれないが。

そんな中で、数少なくなっていく労働力である若い人を老人の認知症介護に振り向けたのでは、
日本はますます立ちゆかなくなるという冷静な異見もあるのである。
内自的には、すなわち自尊心でいえば、何歳まで生きるかという決断を迫られているのである。
ただ、現在はそれを決行する制度がないという事なのである。

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認知症患者に対する対応は「パーソン・センタード・ケア」だというのである。
意味が判らない言葉でなく、日本語にしてほしいものである。
強引に訳せば「患者都合治療」という事になるのか。
「アフターケア」は何と訳されているものか。庵主は医療業界にも疎いのである。

まだ日本語になっていないとしたら、日本の医療業界は連中のゴイム医療の傘下に組み込まれて
いるということなる。医が仁術ではなく、算術〈しょうばい〉になっているという事である。
内海聡医師は、それを見て、「日本の医者にはかかるな」という指針を示している。
病院に行くなということでなく、医者に頼らない健康な生活を整えろという意味である。

怪我をしたり、急性アルコール中毒になったら、ためらわず病院に行って治療して貰っていい
のである。いな、手当ては早い方がいいのである。
しかし、日本の医療は、病気を尚するのではなく、薬漬け、病院漬けの医療体制になっている
から、自分の健康はそういう医者に頼らずに自分で守れという心構えを言っているのである。

齢をとったら、「食べ過ぎない、風邪を引かない、転ばない」が三要諦だと言ったのは永六輔師
である。それに「お酒を呑み過ぎない」も加えておこう。
理想は「ホゲない、寝つかない、苦しまない」の「三ない」だろう。
PPKである。最期までお酒がおいしかったら、それにこしたことはないのである。

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究極の選択である。
「チョウセン人を相手にするのと、認知症患者を相手にするのはどちらがマシか」。
究極の選択問題では
「カレー味のウンコと、ウンコ味のカレーはどつちがいいか」という究極の究極問題がある。

結論は、前問も後問も、「そんなものには関わり合いになりたくない」というのが正解である。
そういう事に関わらないでいられる事を幸せというのである。
お酒の場合は、「旨いお酒に関わり合えるのが幸せ」だから、幸せの定義には二義あるのだ。
成功した人というは、おそらく失敗した事もまた多い人なのである。

というのは、世の中は紙の表と裏と同じ仕組みになっているという庵主の持論による。
成功が大きいときには、その裏面の失敗も同様に大きいと見るのである。
人は失敗を恐れるが、それを退けたいと思うが、失敗の数を積まないと大きくなれないのだ。
失敗の数の多さは勲章だと思っていいのである。

「今日もまた 生きてるあかしに 恥をかき」と言ったのは故・小沢昭一である。
人は恥をかいて、つまり失敗して大きくなるんだよと教えてくれるのである。
人は失敗の方を語らないから、それが見えないだけのことである。
成功は外見から窺えるが、失敗は当人が語らないとわからないからである。

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by munojiya | 2018-06-12 00:04 | 世話物 | Trackback | Comments(0)
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