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2019-03-24 宗教とソレは関わらないのが一番

考えてもどうしようもないというものがある。
宇宙の始まりはどうなっているかとか、地下鉄の電車はどうやって地下に入れたのか、といった
どうでもいい事柄である。想像を巡らす時間つぶしにはなるから無駄ではないけれど。
そういうものの一つに、相手を変えようとする努力がある。

先に結論を言ってしまうと、自分の気持に沿うように相手を変えることはできないのである。
人生相談をやっている人がこう言っている。
「人生相談の殆どが、相手の気持を変えようとしてそれができないことで生じる悩みなのだ」と。
はなから、「相手の気持を変えることはできない」と判っていれば悩まないですむのだと。

「隣の住人が煩くて困る」というのもそれである。そんな隣人を変えようとしても無理だと。
日本で言えば、「隣国が煩く擦り寄ってきて困る。なんとか相手をまともにできないか」という
ことになるが、その相手を変えることはできないということなのである。
相手がまともになることを期待してはいけないという事が判っていれば対応は簡単である。

関わり合いにならないこと、である。隣国に対しては避韓三原則という結論が出ているのだ。
邪教に凝っている親も変えさせる事はできないという。距離を置いて接するしかないという。
自分が正しいと信じている人を、狂信している人を変えるのは無理だと。隣国人もそれである。
不味いお酒が出てきたときも、酒の不味さは変えられないので、心持ちを変えて呑むのである。

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「狂信」というのは、「信心に狂っている」と読まれては困る。
「信心に狂〈たよりき〉っている」と読むのである。「我を忘れている」状態なのである。
私も2世です。
この話はまさに私の抱える問題です。

私は子供の頃から一度も信じたことはありません、学会の人をかなり冷めた目で見ていました。
(馬鹿な人たちだなって感じで)
私の親は狂信者です。[以下、略]』(典拠米)。
子は親の背を見て育つのである。

意思表示の出来ない赤ん坊の段階で入信させるとか鬼畜の所業』(同前米)。
子供を入会させること自体間違っている。』(同前米)。
キラキラネームを子供に付けるのと同様、それを今流行りの言葉でいえば、「児童虐待」
ということになりそうである。

宗教団体の二世といい、在コの二世、いや今は四世とか五世の時代になって、そんな境遇に
生まれた子供の不幸には同情を禁じ得ないのである。
素直に、真っ当な日本人の子供として生まれてきたのならしなくてもすむ余分な苦労を背負って
生まれてきたということなのだから。それも亦、人は変えられないという事なのではあるが。

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世の中には、上には上があるというのである。
もう既にコメントあったので書きません。私も二世です。今は両親とは疎遠になってます。
妻の家庭はエホバの証人なのですが創価よりかなりヤバいです。
生きていく上で必要な事もダメな事が多くあります。

エホバの証人の事も取り上げてほしいと思います。』(典拠米)。
お酒も、今日、旨いと思って呑んだお酒よりも旨いお酒が、明日になるとめぐり合えるのである。
お酒の「より旨いもの」というのならいいが、邪教の「より上回るもの」というのは怖い。
エホバの証人もオウム真理教には敵わないだろう。

北鮮や南鮮の狂信的反日教信者はさらにその上をいっているのではないのか。
さらにその後ろには人口十数億人を抱えるチャイナ国という猛烈的反日信者が控えているのだ。
それらを「特ア3国」というが、「特にアブナイ三か国」という解釈が正しいみたいである。
外国人〈エイリアン〉は聖土日本を汚す異分子なのである。排他にしくはないのである。

それでも、日本に擦り寄ってくるのだからタチが悪いのだ。
そのときの猫なぜ声は「日本は自分の国と違って素晴らしい国だ」というものである。それが
判るのなら、自分の国をよくするように自国で頑張りなさいとしか言いようがないのに、当人は
日本に居すわってしまうのである。生活保護を受けて。そういうのは税金泥棒とは言わないか。

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一つの宗教に心酔するということは、他の宗教を邪教だと見做して排斥するという事なのだ。
庵主は、お酒は甘口のお酒しか好まないが、世の中には辛口のお酒が好きだという人もいるのだ。
しかし、庵主はそれを否定しないのである。関わらなければ全然共存できるからである。
世に、毒蛇毒蠍の類が存在していても関わり合いにならなければ支障がないように、である。

庵主は、だから、お酒は基本は甘いものがうまいよとはいうが、辛口の酒はダメだとは言わない。
同様に、お酒は純米酒がいいの決まっているが、アル添酒でも旨ければ問題ないのである。
反日教育で育った中韓人であっても、それを盾にして日本人にたかってくるものでなかったら
全然問題ないのである。

世の中には色々な生き方があるのだから、日本人で生きるのが最高だというわけではないからだ。
男に生まれてきたら男で生きるしかない。女に生まれてきたら女で生きるしかないのである。
中には、自己主張が激しくて、見掛けは男が自分は女で生きたいという人もいるようである。
その逆もあるらしい。庵主はそういう面倒くさい感情に興味がないのでどうでもいいのである。

「遊び」という言葉がある。ハンドルの遊びといったときに「遊び」である。
余裕とか許容範囲という意味で使われる「遊び」のことである。
「ファジー」という言葉は「遊び」とは違うのか。庵主にはその言葉自体ファジーなのである。
遊びの部分がない物や社会は脆いという。熱心な信者は遊びのない人なのである。脆い人なのだ。

by munojiya | 2019-03-24 00:04 | 世話物 | Trackback | Comments(0)

うまいお酒があります その楽しみを語ります


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