『
言葉の扱い方が綺麗で気持ちがいい。』(
典拠米)。
で、すなわち、人は生まれて育った言語に束縛された発想しかできないという話である。
言語という呪縛の中で生きているという事である。
そこで外国語を学ぶことは、自己の固着した言語の緊縛からの解放でもあるということなのだ。
庵主などは、そんな面倒臭い事をしなくても、十分に生きていけるから解放なんかしないけど。
仏教では、輪廻から離脱する事を「解脱」というらしい。
安定したリズムからはみだして孤立することを、である。
「孤独」の寂しさに飛び込んで孤立することを、である。
『タントリスさんはまだお若いのに非常に哲学的な考えで生きておられ本当に尊敬いたします。
今からでも遅くないので故ドナルド・キーン氏のような素晴らしい日本研究者を目指しては
いかかでしょうか。』(同米)。
で、そのD・キーンの日本研究が何の役に立ったのかを、庵主は知らないのである。
「無知(な人は)放っておけ」という。無知から言わせると「頭のいい人は放っておけ」である。
本当に頭がいい人なら、「無知」の人の面倒も、黙っていても見てくれる筈だからである。
一神教の神の不存在は、神がそうでないことで証明されるのである。面倒見の悪い神なのだ。
お酒の神様の存在は「うまいお酒」が「神の一滴」とされる事で証明されるのと逆に、である。