甲類焼酎を酒と呼ぶ哀しさ
甲類焼酎を新式焼酎と呼ぶこともある。
新式と謳うことは旧来の造り方とは違う造り方をしたものであるということである。
御一新の後に出来たものに碌なものはないとぼやいていた老人がいたという。
そのぼやきがなんとなく頷けるのは庵主もいよいよ頭が固くなってきたからである。
世の中に新しくできるものに新鮮味が感じられなくなってきたからである。
一見目新しいそれらのものは昔からあったという思いがするようなったからである。
そんなものがなくても生活には全然支障がないように思えるからである。
たとえば、庵主はテレビを持っていないが全然困ることがないのである。
庵主は自動車を持っていないがその恩恵を間接的に享受しているから
テレビを持っていないことが必ずしもそれがなくてもいいということではないだろうが、
日常の生活にはなくてもかまわないことは間違いない。
似たようなものなら昔のほうがずっと品質がよかったのではないかと思うことがある。
外形的な品質ではなく、内面的な品質が、である。
甲類焼酎、すなわち新式焼酎もそうである、旧式焼酎と比べると外形は美しいのである。
しかし、それを口にするときのむなしさに日本人の哀しさを見る思いがするのである。