譬え話というのは愚者に対する話法のことである。
愚者に物事の本質を理解させるのに、日常生活の感情に準〈なぞら〉えてそれが分かるように
易しく話す事である。
その譬え話が必ずしもその物事の本質を突いているとは限らない事もあるから要注意である。
庵主が気に入っている譬え話のいくつかである。要注意の上で読んでいただきたい。
女系天皇はなぜ駄目なのか。つまり男系でないと駄目かという理由である。
「どんな畑や田んぼであっても、米の種を蒔けば米ができるが、
麦の種を蒔いたら米はできない」というものである。
日本人とチョウセン人は、見た目は似ていても性質は異なるのだという譬え話。
「犬には犬種の違いがあって、温和な性質な犬と凶暴な犬とがある。凶暴な犬はいくら躾けて
もその性格が直る事はない。チョウセン人も、いくら躾けても変わることはないのだ」。
不可能なことに期待するなというのである。変わらぬ部分こそが民族の個性だからである。
グローバリズムは、人間の個性を潰してしまう蛮行であるというのが庵主の譬え話である。
「酒はどれもアルコールだと言って、日本酒も、ウイスキーも、ビールも、ワインも、ラム酒
も、醸造アルコールにそれらの香料を入れて造るようなものだ」。合理的すぎて世も末である。
そんな酒
〈しそう〉は飲みたくないのである。ちっともうまくないからである。第一、虚しい。
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福沢諭吉は、「パシフィック・オーシャン」をたまたま「太平洋」と訳した。
今日の定訳である。それは別の訳語にしてもよかったということである。
だから、それは誤訳だと言っても間違いではないのである。
概念を曲げたものではなく、イメージを豊かにした訳なので実害がないのである。
「ユナイテッド・ネーションズ」が、どうやったら「国際連合」になるのか、英語に疎い庵主
には解らないのである。庵主には「国家連合」としか訳せない。意訳なら「勝組組合」である。
「国際連合」という誤訳は鳶が鷹を生んだ様な訳なのである。出色である。色を付けたのだ。
この誤訳による弊害は計り知れない。日本人に国連中心外交という妄想を抱かせたのだから。
そこで「グローバリズム」をどう訳すがある。
「拝金主義」でもいいのだが、庵主は、それを「オリンピック」の訳語に使ってしまった。
庵主は、例えば、この歌を、その訳で唄っているのである。違和感はないのである。
今度の平昌や次回東京ならその訳でぴったりである。依って、それは適訳だと思っている。
グローバリズムというのは、民族の違いを均質化して湯田金が金を吸い上げる仕組鋸とだから、
「地球均質化主義」という事で「チキン主義」というのも思いついたが、それは「地球環境
破壊主義」なのだから、略して「地環破主義」、「ちかんは主義」と呼ぶ事にしたのである。
「地球環境」は「じんけん」と読む。人権の本源は正義にではなく、そこにしかないのだから。